横浜 戸塚区 2012-04-07
*低線量被曝に関する国際基準とされているのがICRPの打ち出している「基準」で、
この「基準」に対する疑問は先にもNHKテレビ放送
低線量被曝の脅威、国際基準の曖昧さ(「低線量被ばく 揺らぐ国際基準」12月28日NHK)
でも指摘されている。
Foresight(フォーサイト)の記事に
「被曝リスク基準」は信用できるか?(上)ICRPに欠ける「科学性」と「合理性」
2012/03/29 塩谷喜雄 Shioya Yoshio 科学ジャーナリスト
があり、この問題を扱っている。
以下、概要を転載させて戴く。
(転載)
東京電力・福島第一原子力発電所が、周辺地域に大量放出した放射性物質による被曝が「ただちに健康に影響はない」根拠として、東電と政府は、国際放射線防護委員会(ICRP)の示す国際基準を繰り返し挙げている。
これは明らかな誤用、誤解である。
ICRP勧告が示す被曝線量限度は、それ以下なら安全・安心という個人を守る「健康基準」ではない。
為政者、事業者、管理者が、作業員や一般公衆にどれだけのリスクを強いても許されるかという、「受忍の限度」を示す基準である。
しかも、その数値については、最新の科学的検討が反映されておらず、事業者寄りのバイアスがかかっているとして、科学性と合理性の両面に強い批判があることも、日本国内ではあまり知らされていない。
こと原子力に関する限り、国際機関への無条件の信頼は、かえって危機を増幅させる。
ツギハギの国際基準
(略)
3.11前は日本では環境被曝の年間許容線量は1ミリシーベルトで、職業被曝は年間最大50ミリシーベルトで50倍だった。3.11後、政府は職業被曝の年間許容線量を250ミリシーベルトに上げ、環境被曝は20ミリシーベルトとした。
どちらもICRPの基準に沿っているので、これを守っていれば安全・安心だと、政府、電力会社、学者、メディアが言ってきた。
人間の健康と命に直結する基準なのだから、豆腐の上に建つおから原発の安全神話とは違って、虚構の積み重ねではないことを願いたいが、残念ながらこちらも相当に怪しい。
被曝許容量50倍の根拠
(略)
職業で基準を分ける意味は何だろう。放射線技師や原発の作業者は、放射線に対し一般公衆の50倍もの耐性を持っている、とでもいうのだろうか。
(略)
一般公衆と放射線作業従事者の許容線量が50倍も違う最大の理由は、原子力や放射線の「利用技術」が著しく未熟なことである。
放射性物質の持つリスクを、ほぼ完璧にコントロールできるなら、システムの運転者も一般公衆も、健康基準としての許容線量は同じでなくてはならない。
(略)
技術の未熟さを覆うダブルスタンダード
原発の敷地内や放射線源の近くで働く運転者、作業者は当然、一般公衆より高い線量を実際に浴びる。
やむなく、職業被曝と環境被曝という別の基準、典型的なダブルスタンダードを設け、技術的未熟を科学的な意匠を凝らした「制度」で上手にくるんでしまった。
二重基準は、原子力技術が抱える決定的な弱点を覆い隠す苦肉の策、高踏的「ぼろ隠し」といえるかもしれない。
繰り返すが、ICRPの線量限度という基準は、それを守ってさえいれば安全、安心という値ではない。もともと「受忍すべきリスク」として設定されている。
統治する側、管理する側が、住民や作業者にどれくらいの我慢を強いても許されるか、という数値だと胆に銘じておく必要がある。
これはICRP自身が認めている。
一人ひとりの健康を放射線の影響から守るための基準というより、「政策判断」の目安を提供する数値だと……。
(略)
本来なら、原子力は高いリスクと引き換えのエネルギー源であるという認識を、社会は共有しなければならない。
しかし、学校で教えているのは、「基準を守っているから安全」という、「雨が降ったら天気が悪い」というのと同じくらい、無意味な安全神話だ。
ICRPは一種の「国際NPO」
ご都合主義のダブルスタンダードを「国際基準」として提唱している本家本元がICRPである。
ここが発する「勧告」に準拠して、各国はそれぞれ自国の安全基準を設けている。
ICRPは、国際学術団体だが、各国政府の政策を法的に拘束するような権限を持つ国際機関ではない。
一種の国際NPOである。
出自は1928年にさかのぼる。
X線やラジウムなど、放射線や放射性物質を扱う研究者、医学者が集まって、それらを扱う際の安全基準を検討する組織を設けることを決めた。
原爆が登場する前で、一般公衆の被曝など全くの想定外で、目的はもっぱら職業被曝のリスク軽減、放射線の生体影響の科学的研究だった。
それが第2次大戦後、一変した。広島、長崎の後、米国は突然原子力の平和利用を提唱し、一方で、核保有国による核実験が相次いだ。
当然、一般公衆の被曝リスクは高くなり、反核運動も広がる。
特に、広島、長崎の被爆者が受けた放射線による障害については、世界的に関心が高く、その評価は国際的な原子力政策の焦点だった。
1950年、X線とラジウムだけでなく、電離作用を持つ放射線全てについて、利用と被曝のリスクの関係を科学的に評価する学術団体に衣替えして、ICRPは再スタートした。
ひたすら「緩める」方向に進んできた基本原則
繰り返すが、ICRPが示している線量限度という考え方の根底には、社会的、経済的に、放射線利用によって誰もが何がしかの利益、便益を受けているのだから、被曝による影響もそれなりに我慢・受容すべきだという論理が貫かれている。
便益と費用・リスク負担の関係を、放射線被曝と健康影響にも持ち込んだ、といえるかもしれない。
それは、ICRPの基準作りの基本原則の変遷からも、明瞭に読み取れる。
1954年には許容線量は「TO THE LOWEST REVEL AS POSSIBLE=可能な限り低く」設定するとしていたが、56年には「AS LOW AS PRACTICABLE=実現可能な限り低く」に一歩後退した。
65年には「AS LOW AS READILY ACHIEVABLE=現実的に達成できる範囲で低く」と、さらにハードルを下げ、「経済的、社会的考慮」を計算に入れるという文言まで付記した。
そして、直近の変更は73年。「AS LOW AS REASONABLY ACHIEVABLE=合理的に達成できる範囲で低く」と、一段と穏やかに、丸くなった。
この先、行きつくところは「AS REASONABLE AS POSSIBLE=可能な限り安上がりに」ではなかろうか。
否、実際の規制基準はとっくにその域に到達していて、核施設や原発は経済性を最優先して運営されているのかもしれない。
ささいなリスクを言い立てて、事業者が撤退するしかないほどの厳しい基準を作っても、実質的な意味はない。基準の提示にあたっては、当然、誠実な管理者ならば合理的に達成できる範囲であることも、十分配慮すべきだと思う。
とはいえ、ICRPの哲学の変遷は一方向に一直線、ひたすら「緩める」方向に動いてきたのが、かなり引っかかる。
科学的知見が積み重なれば、原理・原則も移ろうのは当然だが、それに伴う「揺れ」や「揺れ戻し」が全くなく、ひたすら一方向というのは、科学とは違うある種の意志が働いているようにも映る。
科学的根拠に疑問符
(略)
問題は、基準に経済性や社会的合理性を取り入れるという流れが、事業者や行政にとって望ましい合理性だけに偏っていないか、という懸念である。
「可能な限り低く」という、当初の簡にして明、凛とした姿勢を、なぜ変えねばならなかったのか。
「合理的に達成できる範囲で低く」というのは、守れないような厳格な基準は設けませんよ、と初めから宣言して、為政者や管理者の論理にただ寄り添うものでしかないのではないか。
(略)
ただ、ICRPの示す基準が、放射線被曝のリスク評価、リスク管理に、一定の役割を果たしてきたことは否定しない。
実験による検証が難しい分野で、リスクの推定、健康影響の科学的評価を進めてきた、という「歴史的」意味は大きい。
しかし、現在只今の活動に対しての、科学的信頼性はかなり低い。
基準値や許容量の数字と、その算定方法について、多くの研究者、科学者から反論・異論が出ている。
国際的に問われているのは、ICRPの抽象的な「姿勢」などではなく、具体的な基準の「科学的根拠」である。
最新の分子生物学が解明しつつある遺伝子レベルでの発がんメカニズムの知見や、チェルノブイリ事故による広範囲にわたる被曝影響の評価も、ICRPは基準数値にほとんど反映させていない。
科学が決めた客観的な安全基準だと、政府や電力会社が言い続けてきたICRPの基準は、実はずっと、その科学的根拠に疑問符が付いていたことは、学界では周知の事実である。
(転載終り)
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