2012年4月23日月曜日

延喜2年(902)~延喜5年(905) 紀友則・紀貫之・凡河内躬恒・壬生忠岑ら、最初の勅撰和歌集「古今和歌集」を撰進

東京 北の丸公園 2012-04-17
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延喜2年(902)
4月11日
・莫大な資産を持ち、実際には諸国に居住していながら、京の諸司の史生(ししよう)、六衛府(ろくえふ)の舎人、院宮王臣家の家人などの肩書きをもらい、それを後ろ盾にして国郡司の言うことを聞かない連中を、国司が任期中に一度だけ中央への輸納業務や諸国での徴税業務にあてることが、国家公認の制度として確立される(『類聚三代格』巻20)。
こうして任用された人々は、国司から判官代(ほうがんだい)という国衙の下級職員の肩書きをもらった。
既に受領以外の国司、とくに掾(じよう、判官)・目(さかん、主典)といった国司の三・四等官は、単に京官が公廨(くがい)の配分に与かるためのポストになりつつあり、現地では何の機能も果たさなくなったので、彼らをが判官代と呼んだ。
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延喜3年(903)
2月
・菅原道真(59)、大宰府にて没。
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7月
・出羽国で俘囚の反乱。
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8月
・院宮、王臣らが私に唐物を買うことを禁じる。
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11月
・時平の同母妹の女御穏子と醍醐の間に醍醐の第二皇子、崇象親王(のちに保明と改名)が誕生。
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延喜4年(904) 
2月10日
・崇象親王(のちの保明、時平の妹穏子と醍醐の子、生後3ヶ月)が立太子。
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3月
・安芸守伴忠行が京中で群盗に射殺される。
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延喜5年(905) 
1月
・正月、宇多法皇が大覚寺に行幸し若菜とりの遊びを催す。
時平ら公卿たちが供奉し、文人をよんで詩をつくらせる。
時平と宇多法皇との関係は、この頃にはかなり良好になっていたようである。
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4月
・大内記の紀友則、御書所預の紀貫之、前甲斐少目(さきのかいのしようもく)凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)、右衛門府史生(しじよう、大納言藤原定国の随身)壬生忠岑ら、最初の勅撰和歌集「古今和歌集」を撰進
天暦5年(951)の『後撰和歌集』、一条天皇代の『拾遺和歌集』と併せて「三代集」と称され、更には『新古今和歌集』へ至る八代集の劈頭をかざるもの。

延喜5年、醍醐天皇によって編纂が命じられたとする説と成立したとする説があり、編纂過程については不明なところも多い。
延喜5年当時の詠者は、多くが宇多上皇・醍醐天皇の血縁者、或いは近臣であり、陽成上皇の縁者は僅かであり、『古今和歌集』は、単なる遊技・風雅のために編纂されたのではなく、字多・醍醐皇統の正統性を示すために編纂された可能性がある。
『古今和歌集』編纂の大きな目的は、宇多・醍醐の近臣制度整備であったと考えられる。

それまで漢詩文の陰に隠れていた和歌が正式に認知され、王権によって和歌集が編纂された意味は大きい。
以降、『後撰和歌集』をはじめ多くの勅撰和歌集が編纂されることとなる。

成立事情については諸説あるものの、真名序(漢文の序文)とともに、仮名序(平仮名の序文)がつくられた意義も大きく、すぐには一般化しないが、平仮名で書かれた文学作品が生まれる下地を作った。
以後の平安貴族にとって、自分の詠んだ和歌が勅撰集に入集するかどうかは大きな関心事であったが、それは名誉のためだけではなく、自分が王権のなかで生き残っていくために必要な手段でもあったからといえる。
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8月
・左大臣藤原時平に「延喜式」編纂を命じる。
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8月25日
・院官王臣家が国司に無断で郡司・雑色人(ぞうしきにん)を召還することを禁じた命令が出される(『類聚三代格』巻19)。
ここでいう雑色人は、国司に駆使されるようになった者たちで、肩書きを顧慮することなく彼らを駆使できるようになった受領は、ようやく国内行政の排他的主導権を確立する事ができた。
こうして9世紀末~10世紀初、調庸の収取を中心とした中央政府の財政はひとまず安定化の方向へ進み、後は、受領の功課制度を確立し、任免権を挺子にした全国支配システムを作り上げていく。
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