2012年4月30日月曜日

延長7年(929)~延長8年2月 豪雨を伴う台風が襲来 「夜中に洪水氾濫し、東西京七条以下車馬通ぜず、皇城以南の田畝海のごとし、穀種流漂し溺死者多し」

東京 北の丸公園 2012-04-23
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延長7年(929)
この年
・新羅の使者と称する後百済の使者が対馬に来航し、「朝貢」を求める(『扶桑略記』)。
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2月16日
・高明親王、元服。
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5月20日
・下野国衙は藤原秀郷らの濫行を政府に訴え、政府は下野と隣国5ヶ国に追捕官符を下すが、坂東諸国が秀郷を追捕した形跡はない。(『扶桑略記)
秀郷は一貫して受領に対して自立的態度をとり続け、諸国受領も延喜勲功者秀郷に遠慮していたと思われる。

延喜15年(915)2月、上野国で介(受領)藤原厚蔵(あつのり)が上毛野基宗(かみつけのもとむね)・貞並(さだなみ)らに射殺される事件があった。大掾藤原連江(つらえ)らも加わった広範な反受領闘争だった。
隣国下野国住人の秀郷もこの事件に関与したのか、政府は下野国に秀郷とその党18人の配流を命じたが、秀郷らは配所に行くことを拒絶した。
翌年8月、困った国衙は政府に指示を仰ぐと、政府は配流の指令を繰り返すだけで、秀郷らは受領の命令を無視し続けていた。
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7月
・台閣首班、左大臣藤原忠平の五十の賀。
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豪雨を伴う台風が襲来
夜中に洪水氾濫し、東西京(左右京)七条以下車馬通ぜず、皇城(平安京)以南の田畝海のごとし、穀種流漂し溺死者多し
という惨状を呈す。
政府は調と徭を免ずるという措置をとり、天皇は、公卿たちに対し時務策についての意見を提出させる。
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延長8年(930)
この年
・渤海の後裔を自称する一団が丹後国に来航、契丹の専横をまくし立て、日本政府から礼を失しているとして咎められる(『扶桑略記』)。
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2月13日
・京中病者救済のため「左右京職」官人が「坊令」等を率いて京中毎条の巡検を行い、「検非違使」らの病者収容を容認する。
また収容者の食法に関しては、成人の男女に米1升・塩1勺・滓醤1合を、小児男女に米6合・塩5撮・滓醤5勺を与えること、
但し米は「義倉料」を、塩・滓醤は「大膳職」より配給。
鋪設は「掃部寮」が行い、衣服・古幔は「大蔵省」より配給することが決定される。(『政事要略』)
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2月14日
・疫病が流行により路頭に愁苦している病人が多数発生。
「検非違使」及び「左右」京職は、病人を「施薬院」・「悲田院」・「曲殿」・「有便宜所」に収容する。(『扶桑略記』)
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