2024年8月31日土曜日

「闇討ち」されたシンボルツリー 2万本近い伐採計画に不審抱く市民(朝日);「大阪市ではおよそ2018年度以降、「安全対策」の名のもと、2万本近くの木が伐採されてきた。」

 

維新が大阪府摂津市長選で擁立断念 選挙で苦戦続きも巻き返しならず(朝日);「維新は公認候補の擁立を目指して公募を実施し、候補の絞り込みまで終えていた。関係者によると、党の公募に漏れた中川嘉彦氏(55)が異を唱えて26日付で府議を辞職。維新も離党して無所属で立候補する意向を固めたことで、市長選への戦略見直しを迫られたという。」

 

大杉栄とその時代年表(239) 1898(明治31)年4月27日~5月30日 佐伯祐三生まれる 米西戦争(フィリピン)スペイン海軍壊滅 徐載弼、大韓帝国から追放 溝口健二生まれる 地租増徴案否決 子規『ベースボールの歌』(『日本』)  

 

佐伯祐三

大杉栄とその時代年表(238) 1898(明治31)年4月25日 米西戦争開始 〈米西戦争に至る経緯(2)〉 〈第二次キューバ独立戦争(2)〉 キューバ独立運動が米国とスペインの問題にすり替る より続く

1898(明治31)年

4月27日

(露暦4月15日)エドゥアルト・トール、ロシア地理学協会にサンニコフ島探検計画提出。科学アカデミー、ロシア政府も計画を許可。

4月28日

佐伯祐三、大阪府西成郡中津村(現在の北区中津2丁目)の浄土真宗本願寺派光徳寺の次男(4男3女の次男)として生まれる。父は祐哲(ゆうてつ、13代目の住職)、母はタキ。

1912(明治45・大正元)14歳

4月、大阪府立北野中学校へ入学。野球・水泳・ヴァイオリンに興味を持ち、ずぼらな性格から「ずぼ」とあだ名された。

1915(大正4)17歳

4年生頃から油絵を描き始め、赤松麟作(りんさく)の洋画塾に学ぶ。父から医者になることを期待されたが、画家を志望する。

4月30日

大蔵省、鉱毒被害民に対して地祖条例による普通荒地免租処分を通達。該当者は公民権喪失。

4月30日

トラピスト女子修道院、函館郊外湯の川に設立。


5月

5月から7月上旬までの間(不確かな推定) 漱石、狩野亨吉・山川信次郎・奥太一郎・木村邦彦と共に朝早く小天温泉に行き、湯の浦の別荘で昼食をして、前田案山子の本宅を訪ねる。岩戸観音や鼓が滝などを見て、前田家の長女前田卓(つな)子は河内(河内吉野村)まで見送る。金峰山の二ノ岳(熊ノ岳、685m)と三ノ岳(那智ノ岳、684m)の間の鎌研坂(かまとぎざか)を通って熊本に帰ったらしい。

5月

ゴーギャン(50)、タヒチ、パペーテの公共土木事業局で働く。 

5月1日

〈米西戦争(フィリピン)〉

フィリピンにおける最初の戦闘、マニラ湾海戦が勃発。香港を出港したジョージ・デューイ提督率いるアメリカ太平洋艦隊が、マニラ湾でパトリシオ・モントーホ提督率いる7隻のスペイン艦隊を攻撃。6時間ほどでスペイン艦隊は旗艦を含む3隻が沈没し、4隻が炎上するなど壊滅状態に陥る。一方のアメリカ艦隊の被害は負傷者7名のみとほぼ無傷であった。

これによりフィリピンのスペイン海軍は壊滅したが、マニラには1万人以上のスペイン陸軍が駐留していた。海戦後にデューイと会談し、勝利の暁に独立させると約束されたフィリピン独立運動の指導者エミリオ・アギナルド率いるフィリピンの民族主義者は、アメリカ軍の支援と相互連携してスペイン軍を攻撃した。

独立軍は1万人を超え、1898年6月にはルソン島中部を制圧し、アギナルドはフィリピン共和国の独立を宣言して暫定政府を組織した。

アメリカ本国のマッキンリー政権はマニラ市を占領するためウェズリー・E・メリット少将の指揮で大規模な派遣軍(正規軍5千人を含む2万人規模)を派遣した。

6月30日に派遣軍の先発部隊、7月半ばにはメリット少将も現地に到着し、8月にはスペイン軍に降伏勧告を行い、14日に休戦協定が決定した。

フィリピン人による報復を恐れたスペイン軍は、マニラへフィリピン軍が入城しないことを降伏条件としており、スペイン降伏後のフィリピンの統治はアメリカが握ることとなった。これはフィリピンの独立運動の対象がスペインからアメリカへ移っただけであり、その後、米比戦争へ繋がることになる。

5月3日

「歌は俳句の長き者、俳句は歌の短き者なりと謂ふて何の故障も見ず」(子規「人々に答ふ、二一」(『日本』5月3日))

5月5日

自由党大会、伊藤内閣反対を決議。

5月7日

清から、軍事賠償金の残り1192万ポンドが支払われ、完済

5月10日

閣議、井上馨蔵相の財政方針を了承。

①歳入不足のため地租・酒税を中心に3千万円増税。②外債募集のための調査開始。

5月14日

朝鮮、徐載弼、中枢院顧問を解任され大韓帝国から追放される。この日、ソウルを去りアメリカに渡る。

徐載弼に代わって、尹致昊が指導的な役割を担うことになる。尹致昊は、万民共同会以後「自主独立」を築いていく目標として、中枢院を議会に昇格させて参政権獲得を目指す議会設立運動を展開し、また独立協会の結束を固めるために「議会院を設立することが政治上一番の要務」というテーマで討論会を開催した。

独立協会の運動形態は、それまでの啓蒙活動を中心とした運動から、政治的な運動に展開し、主たる運動が文化的ナショナリズムから政治的ナショナリズムへと転換してゆく。

5月16日

溝口健二、東京に誕生。

5月18日

清、山東巡撫張汝梅の上奏文。村民・教民は平和状態。一昨年の大刀会事件は不良教民が教会の権威を借りて平民を欺き圧迫したため。ドイツ公使・宣教師はこの不良教民に加担、と非難。

5月18日

ロマン・ロラン(32)戯曲「狼」上演。ドレフュス事件の精神的高揚の中で執筆、ペギーの書店より出版。

5月19日

米西戦争(キューバ)。パスクワル・セルベラ提督率いるスペイン大西洋艦隊がサンチャゴ湾に入港。ウィリアム・サンプソン提督率いるアメリカ大西洋艦隊はサンチャゴ湾を封鎖し、陸海軍共同でスペイン艦隊を攻撃することになる。

5月19日

第12議会開会。

衆院議長:自由党(後に憲政党、政友会)片岡健吉、副議長:元田肇。

6月7日、自由・進歩両党提携して地租増徴案否決。10日、国会解散。

第3次伊藤内閣、地租増徴案を提出。自由・進歩両党と対決。国民協会・山県系は完全に政府支持にまわる。大浦は佐々に宛てて、「扱日比谷原もいよいよ開幕、楽屋ノ筋書等不一方之御配慮ニテ種々好都合ニ相運候事卜存候。大関之腹ノ段も先ツ上出来目出度存候。此次迄ニハ我国体ヲ隆盛ナラシメ、是非横綱ヲ出シ度今ヨリ切望不堪候」(「大関之腹」:板垣入閣に反対し、増税案を議会に提出するイニシアティブをとった蔵相井上の態度)と書く。大浦は井上蔵相を評価し、「過日井伯ノ財政計画果シテ積極ニ出テ流石ニ面白敷存候」と書く。「横綱」は山県のことで、大浦は伊藤内閣の超然内閣化を、山県内閣への道を準備するものとみる。

しかし、自由・進歩両党は連合してこれを否決、両党間には合同の気運が起り、伊藤が議会を解散するや、6月22日新党が結成される。かつての初期議会における民党連合が、単一政党たる憲政党として蘇る。

5月23日

第12議会。大竹貫一議員、高野問題に関連して台湾在任の裁判官の身分保障について質問。内閣は直接回答せず。

5月24日

子規『ベースボールの歌』(新聞『日本』)


ベースボールの歌

久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも

国人ととつ国人とうちきそふベースボールを見ればゆゝしも

若人のすなる遊びはさはにあれどベースボールに如く者はあらじ

九つの人九つのあらそひにベースボールの今日も暮れけり

今やかの三つのベースに人満ちてそヾろに胸のうちさわぐかな

九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす

うちはづす球キャッチャーの手に在りてベースを人の行きぞわづらふ

うちあぐるボールは高く雲に入りて又落ち来る人の手の中に

なかなかにうちあげたるは危かり草行く球のとゞまらなくに

5月24日

足尾銅山鉱業停止東京事務所に詰めていた栃木県足利郡(旧梁田郡)久野村在住の室田忠七の鉱毒事件日誌より


5月24日~26日 東京にて貴・衆両院議員への働きかけを行う。訪問した代議士は衆議員3名、貴族院議員16名である。この中に貴族院議員を兼ねている内務省土木局長・古市公威􌛏􌛗も含まれている。

5月27日 貴族院へ、「被民救済・被害地土地恢復・河身改良・堤防増築・損害賠償」の請願書を議員子爵・谷干城の紹介で提出する。

5月28日 23人の衆議院議員の紹介で、衆議院に「被害地救済請願」を提出。この衆議員の中に鉱毒調査会の委員であった肥塚龍も含まれている。"

5月29日

(光緒24年4月10日)恭親王(67)、没。西太后と光緒帝の対立の調停者。

5月29日

この日付け子規の漱石宛手紙。庭前の椅子に腰掛けたこと、果物の常食中止などを報告。


「漱石が子規を「蕪村以来の俳人」といったが、答えにためらって御無沙汰したこと、近所の火事見舞い挨拶、虚子、鳴雪、碧梧桐、紫影などの近況を知らせた後に、

「此頃ハ庭前に椅子をうつして室外の空気に吹かるゝを楽ミ申候 昨今ハ丁度昨年発熱の満一年なれハにや多少発熱あり さなくとも時候柄なまける時なれば身体よわりてよわりて何も手につき不申候」、

「本月初以来葉物の常食やめ候ところいよいよ元気欠乏致候」

などと記し、次の句を添えている。

薔薇散るやいちごくひたき八ツ下り

若葉風病後の足のおはつかな」(中村文雄『漱石と子規、漱石と修 - 大逆事件をめぐって -』(和泉書院)、一部に改行を施す)

5月30日

池辺吉太郎(三山)、『大阪朝日新聞』本社から『東京朝日新聞』の主筆となる。


つづく

小田嶋隆「追悼文をやめて何を得るのか」(日経ビジネス2017.9.1);「大量殺人が起こった現場である自治体の知事が、その犠牲者の追悼式に追悼の言葉を送らないという決断は、普通は考えられない選択肢ではある」 / 小池都知事は朝鮮人虐殺「追悼文」8年連続で不送付…会見で半笑い“負の歴史”直視せず(日刊ゲンダイ) / 関東大震災の朝鮮人虐殺、否定論やまず 公的記録、相次ぐ「発掘」(朝日) / <小池知事 会見ファイル>30日発言 朝鮮人虐殺の史実に「さまざまな研究があるということ」(東京) / (社説)朝鮮人虐殺 史実の黙殺は許されぬ(朝日);「認めたくない過去を黙殺する虐殺否定論にも通じる」 / 朝鮮人虐殺 めぐる小池都知事の追悼文不送付 学識者らが再開を要望(朝日);「天災の犠牲と、加害による殺人とは違う。安心できる都をつくるために都知事が発信すべきで、(送付を)やめた理由も説明が必要」 / 小池百合子知事、朝鮮人虐殺の追悼文を8年連続で送らず 式典主催側は抗議のかまえ(東京) / 関東大震災朝鮮人虐殺めぐり 都知事に追悼求める要請続く (毎日) / 「小池都知事は関東大震災の虐殺認め追悼文を」 東大教員有志が要請(朝日); 東京大の教職員有志が5日、小池百合子知事に対し、関東大震災(1923年)の際に起きた朝鮮人虐殺の史実を認め、犠牲者へ追悼メッセージを出すよう求める要請文を提出した。 / 小池百合子知事を東大教員83人が批判「学説への信頼を壊している」 「朝鮮人虐殺」はっきり認めるよう要請(東京)       

 




 

2024年8月30日金曜日

【和歌山カレー事件「ヒ素同一」の鑑定結果の真偽】 映画『マミー』徹底した調査報道(東洋経済オンライン) / 和歌山毒物カレー事件を検証する映画『マミー』が公開。メディア報道の問題点について考える | radiko news(ラジコニュース)  / 映画『マミー』公式サイト /  和歌山毒物カレー事件を検証し直すドキュメンタリー映画『マミー』。監督がメディアに求めるものとは(CINRA) / 「林眞須美は激高していない」 和歌山毒物カレー事件の検証ドキュメンタリーが暴く真実とは?(弁護士ドットコム) / 町山智浩 映画『マミー』2024.08.06            



 

大杉栄とその時代年表(238) 1898(明治31)年4月25日 米西戦争開始 〈米西戦争に至る経緯(2)〉 〈第二次キューバ独立戦争(2)〉 キューバ独立運動が米国とスペインの問題にすり替る  

 

ハバナ湾で爆沈したメイン号

大杉栄とその時代年表(237) 1898(明治31)年4月25日 米西戦争開始 〈米西戦争に至る経緯(1)〉 〈スペインの凋落〉 〈第一次キューバ独立戦争(「10年戦争」)〉 〈第二次キューバ独立戦争(1)〉 より続く

1898(明治31)年

4月25日

米西戦争開始 

〈米西戦争に至る経緯(2)〉 

〈第二次キューバ独立戦争(2)〉

この間、1895年6月、米クリーブランド大統領は、自国民の生命財産を保護し、米国からキューバへの武器や人の流れを阻止するために、国民に対し反乱に関与することを禁ずる「中立宣言」を発表した(1896年7月にも再度宣言)。

1895年12月召集された米議会は、独立運動に同情する国内世論の高まりの中で、初めて本格的にキューバ問題の審議を開始した。審議の結果、1896年4月、両院は、キューバでスペイン政府と独立宣言政府との間で公然たる戦争状態が存在しており、米国は中立を維持すべきであり、大統領はスペイン政府に斡旋を申し出ることなどを骨子とする「モーガン・キャメロン決議」を採択した。この決議は交戦団体や独立の承認には触れることなく、共和、民主両党の合意が得られ易い比較的穏当な内容であった。

1897年3月誕生したマッキンレー共和党政権は、前民主党政権と比較して、「よりキューバに同情的で、より議会の意を尊重し、キューバの内乱と残酷な〈集結キャンプ〉作戦に終止符を打つためにスペインに圧力をかけることに前向き」であったという違いはあったものの、自治を与えることによって問題を解決するという考え方や、独立軍を交戦団体として認知しない、またキューバの独立不承認、不干渉・中立政策維持という基本政策の部分で、クリーブランド政権のそれと大差なかった

1897年8月、保守タカ派のカノバス・スペイン首相が無政府主義者によって暗殺され、10月、後任に自由党のサガスタが首相に就任。サガスタ政権は米国で悪名の高いウェイレル総督を更迭し、「集結キャンプ」作戦を止めさせた。また、不完全ではあるが、キューバの自治と参政権を認める法律を11月国会に上程する王令も公布した。米政府はこれに歓迎の意を表明し、1897年12月の年頭教書でマッキンレー大統領は、この改革路線を支持し、スペインに時間的猶予を与えると述べた。

ところが1898年1月キューバ自治政府は成立したが、先行きは混沌としていた。キューバ独立軍側が完全独立を要求して自治に反対する中で、1月12日ハバナでスペイン軍将校に扇動された保守派の暴動が発生し、自治を提唱していた反ウェイレルの新聞社が焼き討ちされるという事件が発生した。米国のマスコミはこの事件を深刻に受け止め、この事件を契機にキューバの治安情勢が悪化しているとして、反スペインのセンセーショナルなキャンペーンを開始した。一部マスコミはキューバ在住の米国人に対する危険を報じた。マッキンレー大統領は、自治による解決が難しいことを認識し始めた。

1898年1月21日、リー駐キューバ総領事は、暴動が反米ではなかったにもかかわらず、自国民保護のため(何度めかの)軍艦の派遣要請を本国に打電した。

1月24日、デイ国務次官は、内々デ・ロメ駐米公使に親善を目的とした軍艦のキューバ訪問を打診したところ、強い反対が出なかったので、ハバナから90海里のキーウェスト沖に待機中のメイン号をハバナに送ることとした。スペイン政府は、ウッドフォード米公使がメイン号のハバナ入港をその12時間後に通報してきたことを憤ったが、ことここに至っては親善訪問を受け入れざるを得なくなり、答礼として最新鋭艦ビスカヤ号をニューヨークに送ることで体裁を整えることにした。そうしたところへ、2月9日マッキンレー大統領を侮辱するデ・ロメ駐米公使の個人書簡が、革命委員会の手の者によって盗まれ、マスコミにリークされるという事件が発生した。事件は公使の辞任、スペイン政府の謝罪によって一応収拾するが、マスコミはこれを機にスペインへの敵意を煽った。

このような時、2月15日夜、ハバナ港に停泊中のメイン号が爆沈するという事件が発生した。354名の乗員の内、主に下士官・水兵266名が犠牲になった(日本人コック、ボーイ7名も)。マスコミは最初からスペイン犯人説であり、連日第一面で好戦的な見出しを揚げて世論を戦争へと扇動し、唯一の解決方法はキューバの解放独立であるという社説を掲載した。メイン号将兵の犠牲によってキューバ独立運動が米国とスペインの問題にすり替わってしまった。マッキンレー大統領としても、もはや外交努力によって事態を収拾することが困難になった。

3月6日、マッキンレー大統領は、防衛準備という名目で5千万ドルの予算を議会に要求する一方、開戦準備の時間稼ぎとして、スペインにキューバの独立を要求するなど外交攻勢をかけた。

3月28日、メイン号爆沈の原因は、外部からの水中機雷攻撃であったとする海軍事故調査委員会の報告書が議会に提出されると、この攻撃はスペイン側の犯行とされた。戦争はもはや不可避となった。


〈米西戦争開戦〉

大統領は高まる世論と議会からの圧力を背に、4月11日、スペイン政府とキューバ人との敵対行為を完全に終わらせるために軍事力を行使して干渉する権限を求めるメッセージを議会に送った。事実上の宣戦布告である。スペイン政府の一方的停戦措置やヨーロッパ列強、ローマ法王の仲介努力も既に遅すぎた。

下院は4月13日採択を行ったが、上院の方は4月16日「キューバ共和国」の承認を認める「ターピー修正条項」を含む決議を51対37で採択した(マッキンレー大統領はキューバ独立政府の承認に反対)。上下両院の決議が「キューバ共和国」を承認するか否かで異なったため、両院協議の末、4月19日米国としてキューバを植民地にしないという「テラー修正条項」を付して採択された(翌日大統領が署名)。

これに対し4月24日スペインからの宣戦布告があり、翌25日米議会は4月21日に遡って宣戦布告を決議した。


つづく


トランプに「曲を使うな」と言ってるミュージシャンたち。

2024年8月29日木曜日

防衛局、大量の廃棄物発見を想定 米軍北部訓練場跡 調査前に見込み量を算出 「除去完了」の説明と矛盾(沖縄タイムス) / 照明弾や空包も見つかったが…北部訓練場跡の米軍廃棄物 政府は除去を全域で行わず 実施は全面積のわずか0.1%(沖縄タイムス) ; チョウ類研究者の宮城秋乃氏の発見を機に防衛局が実施した調査では、照明弾や空包類約5万2千発、金属くずなど約23トン(19年9月~23年3月末)の廃棄物が回収された。実施面積はたったの0.1%。   

 

大杉栄とその時代年表(237) 1898(明治31)年4月25日 米西戦争開始 〈米西戦争に至る経緯(1)〉 〈スペインの凋落〉 〈第一次キューバ独立戦争(「10年戦争」)〉 〈第二次キューバ独立戦争(1)〉

 

ハバナ 中央公園のホセ=マルティ像

大杉栄とその時代年表(236) 1898(明治31)年3月末~4月25日 平塚明子、お茶の水東京女子師範附属高等女学校入学 芥川龍之介、江東尋常小学校入学 大杉栄、名古屋陸軍地方幼年学校の入試失敗(翌年合格) 石川啄木(12)、盛岡中学校入学 イギリス、威海衛租借 西・ローゼン協約 より続く

1898(明治31)年

4月25日

米西戦争開始

米国が帝国主義列強の仲間入りをする契機となり、米国とカリブ海地域との関係史の出発点になる。

〈米西戦争に至る経緯(1)〉

〈スペインの凋落〉

大航海時代にコロンブスがバハマ諸島東端のサンサルバドル島に上陸(当初、それを香料諸島のインドと勘違いしてそこに住む原住民を「インディアン(インドの人々)」と呼んだ)。それ以降、スペイン軍人コルテスの「アステカ文明の発見と征服」を皮切りに、南北アメリカ大陸の大部分にまで及ぶ金・銀鉱山の盗掘、先住民を奴隷化して金・銀を掘らせるエンコミエンダ制を実施し、その金・銀をセビリャ港に運び出した。本国ではその金・銀で貨幣を大量に鋳造し、それを海軍力の増強や植民地拡大のための戦費に充てた。こうして近代16~17世紀のスペイン帝国は繁栄した。

しかし、オランダ独立戦争においてオランダ・イギリスの連合軍にドーバー海峡で敗北し、オランダの独立を許した。これ以来、香料諸島の植民地支配の主導権はオランダに奪われ、ポトシ銀山を始めとする南アメリカ各地の金・銀の産出量は減少し、海軍力は既に世界一の座から落ちるという具合に、明らかに衰退していった。

19世紀末から20世紀に入ろうとする頃、既にスペインにかつての大帝国の面影はほとんどなかった。東南アジアではフィリピンが残るのみで、太平洋・アフリカ・西インド諸島にはほんの少数の散在した植民地しか残らなかった上に、その多くも独立運動を繰り広げていた。

キューバとプエルトリコは最後まで植民地の地位に留まり、大陸での独立運動を鎮圧するための遠征軍の基地にもなっていた。これは、18世紀末までに政治の実権を握ったキューバ人の白人支配層であるクリオーリョ達が、キューバに野心を抱く欧州列強の支配下に入るくらいならばスペインの植民地のままでいた方が良いと考えたこと、砂糖農園で働くアフリカ人奴隷の反乱を恐れ母国スペインの保護を求めたこと、スペインが「西インド諸島の真珠」と形容されたキューバに大軍を駐留させていたことなどが、その理由としてある。

砂糖、コーヒー農園主であるクリオーリョ支配層は、自由独立運動が引き金になって奴隷の反乱を招いたフランスの植民地ハイチの様に、経済体制が崩壊することを懸念し、独立に賛成しなかった。しかしそれでも1808年頃よりキューバでも米州大陸の例にならいスペインから分離しようとする動きが始まった。

〈第一次キューバ独立戦争(「10年戦争」)〉

1868年10月10日、砂糖工場所有者カルロス・マヌエル・デ・セスペデスは、同志37人と共に行動を開始。自分の工場の奴隷を解放して147人の反乱軍を組織。ヤラを制圧しスペインからの独立と奴隷の解放を宣言した。これらの動きは数日間で鎮圧されたが、バヤモに急行して反乱軍の拠点を確保。オリエンテ州で支持を得て、独立運動はキューバの東部地域全体に広がり、10月終までに参加者は約12,000人にまで増加した。

同月、マクシモ・ゴメスは農民を山刀(マチェテ)で武装させて待ち伏せて接近戦を挑む作戦を考案し、スペイン軍兵士に大きな損失を与えた。

1870年6月、ゴメスはオリエンテ地区司令官に就任。

反乱軍拠点バヤモは1869年1月12日、スペイン軍が奪還したが、市民によって市内は焼き払われていた。

東部の蜂起に続き、2月頃、中部のカマグエイ州でも反乱開始。

各地の反乱軍・独立運動家が集結してカマグエイ州で開催された議会は4月10日に共和国憲法を発布し、12日にセスペデスを初代大統領に選出した。

その後、セスペデスはオリエンテ軍司令官ゴメスを1872年6月に命令違反から左遷する。しかし、セスペデス自身は、1873年10月27日、保守勢力が多数派を占める議会で敵対姿勢を取った事で独裁的権力が強く批判されて失脚。ゴメスは軍務に復帰するが、議会の圧力もあって西部侵攻作戦は中止される。

新たにスペイン軍総司令官に就任したアルセニオ・マルティネス・カンポスは後退を続ける反乱軍に対して停戦と和解の方針を打ち出し、1878年2月10日、停戦協定が締結。協定では財務状況を改善するための様々な改革が約束され、奴隷制度の廃止も合意された。10年間の戦争で約20万人が命を失った

〈第二次キューバ独立戦争〉

1886年10月に奴隷制度が廃止され、元奴隷は農民や都市労働者階級の仲間入りをした。多くの裕福なキューバ人が財産を失い、都市の中産階級のに入った。スペイン本国は奴隷解放の方針)を除き、キューバ人に約束した自治や貿易の自由化などの改革を認めず、キューバ側に大きな不満を残すこととなった。砂糖プランテーションを主に、アメリカ合衆国の金融資本が大量に流入し始めた。キューバは政治的にはスペインの植民地のままであるが、経済的にはアメリカとの結びつきが強まるという矛盾が顕著になっていた。

その矛盾の中で再び独立戦争が始まった。この戦争を指導したのは、マルティ、ゴメス、マセオ、ガルシア等第一次独立戦争(「10年戦争」)のベテラン達であった。マルティは、「10年戦争」によって荒廃した国内のタバコ業者がフロリダのキーウェスト、タンパ等に移住していたため、その下でタバコ労働者として働くキューバ人を1892年1月キューバ革命党に組織し、独立運動の準備を整えた。そしてニューヨークを拠点に米国から資金、武器、兵員を補給する体制を構築した。

1895年2月24日、反スペイン蜂起が各地で発生、第二次独立戦争が開始

マルティは3月25日に競合する革命軍指揮者マクシモ・ゴメスの賛同も得てドミニカ共和国でモンテ・クリスティ宣言を発表、平等な世界を実現するために歴史的任務として戦闘状態に入る事を表明。

4月1日、キューバへ向けて出発したマルティとゴメスら6人は、4月11日にキューバ東部の海岸に上陸、進軍を開始。

マルティは5月19日、バヤモの東16kmにあるドス・リオスでスペイン軍の待ち伏せを受けて戦死。

彼の意思を継いだゴメス、マセオ、ガルシア等の将軍達はゲリラ戦を継続した。「ブロンズ色のティタン」と言われ、その勇猛果敢ぶりを恐れられた黒人のマセオは、「トロチャ」と呼ばれた東部を隔絶する大防衛線を突破し、西部大侵攻作戦を展開するなど、独立軍は「10年戦争」の反省の上に立って、戦場をキューバ全土に拡大した。ゴメス最高司令官はキューバ経済とスペインの植民地統治がよってたつ砂糖農園を焼き討ちする作戦を命じた。その結果砂糖生産は平時の3分の1にまで減少した(但し戦争税を払う農園には危害を加えなかった)。今度は「10年戦争」よりはるかに多くの黒人、農民等下層の住民が独立運動に参加した。

マセオは1895年12月7日に戦死して西部戦線が崩壊していく中、ゴメス率いる部隊はスペイン軍に対する攻撃を継続、以降、膠着状態となる。


つづく

敦賀2号機、再稼働は不許可へ 新基準不適合の審査書案を規制委了承(朝日) / 「直下だけではない」 敦賀原発で見逃され続けた活断層の脅威(毎日); 藤本光一郎・東京学芸大名誉教授 (地質学) 「浦底断層が活断層とわかった時点で、原電は2号機の建設中止や廃炉に向かうべきだった」    

日本維新の会の藤田幹事長 → 兵庫県知事斎藤元彦のハラスメント告発文書問題に関する百条委員会について、 「極悪な知事がいて糾弾しなければいけない状況にない」と斎藤を擁護しつつ、委員会の審議内容がマスコミ公表されている件に触れ「百条委員会や議会のクオリティがある」と批判する    

 

2024年8月28日水曜日

大杉栄とその時代年表(236) 1898(明治31)年3月末~4月25日 平塚明子、お茶の水東京女子師範附属高等女学校入学 芥川龍之介、江東尋常小学校入学 大杉栄、名古屋陸軍地方幼年学校の入試失敗(翌年合格) 石川啄木(12)、盛岡中学校入学 イギリス、威海衛租借 西・ローゼン協約       

 

威海衛の位置

大杉栄とその時代年表(235) 1898(明治31)年3月31日 カール・マルクス娘エレノア、自殺 〈エレノア・マルクスの生涯概観(2)〉 『ボヴァリー夫人』翻訳 イプセン翻訳 イプセン論争 イギリス新組合運動への貢献 インタナショナル統一 エンゲルスの遺産 機械工組合闘争の敗北 エイヴリングの裏切り より続く

1898(明治31)年

3月末

河南省最南部の大名府に大刀会の掲帖。西人の横暴を訴え、6月3日(旧暦4月15日)に彼らを襲撃すると予告。参加を誘う。

3月末

漱石、家主の落合東郭が宮内省(皇太子傅育官)を辞し東京から戻るため、大江村から市内の井川淵8の二階家に転居。

明治29年4月の赴任以来、最初に2週間ほど仮住まいした家を除いて、2年間で4つ目の家。

二階建だが、間数は少ない。庭には榎がある。眼下に白川が流れ、明午橋に近く藤崎八幡宮の百メートルばかり下手の家である。左手に龍田山、遠くに阿蘇山見える。「春の夜のしば笛を吹く書生哉」と詠む。

鏡子のヒステリー激化。


「引っ越す時、漱石は、俣野義郎・土屋忠治を呼び、「今度引つ越す家は、狭くて、到底君達を収容し兼ねる。就ては、君達は、修學寮に入つて勉強し給へ、食費は僕の方で出してやるから-。」と言うと、二人は「あと三、四か月で卒業するから、どうかそれまで置いて欲しい」と頼むので、昼は玄関の二畳、夜は二階の八畳に寝ることにして寄宿させる。」(浜崎曲汀「熊本時代の漱石」『文芸春秋』昭和九年七月号)



4月

この月、井上蔵相が閣議提出し決定された諸継続費予算において、4億986万円の55%に当る2億2668万円が外国払の予定となる。「戦後経営」進行に伴い、軍艦・兵器代を中心とする特別輸入額だけでも年々膨大な金額に達し、その大半はロンドンの賠償金で繰替支弁される。

予めこの事態を予想した日本政府は、賠償金をロンドンでボンドで受領することを清国に申入れ、半年に及ぶ交渉の未に同意を得ていた。賠償金のボンド貸受取りは、銀貨下落の下での償金価値保全の点からも要請される。更に、そのことは日本の金本位制移行(97年10月)を促す強力な要因となる。

4月

平塚明子、お茶の水東京女子師範附属高等女学校入学

4月

芥川龍之介、江東尋常小学校入学。抜群の成績

4月

国木田独歩「忘れえぬ人々」(「国民之友」)

4月

与謝野鉄幹(25)、朝鮮より帰る(3月説も)。

4月

与謝野晶子(20)、「読売新聞」(4月10日付)で初めて与謝野鉄幹の短歌を知る。「春あさき道湛山の一つ茶屋に餅食ふ書生袴つけたり」。旧派和歌から新派和歌への変化の直接の契機を与える。

4月

山川信次郎が小天温泉を再訪。漱石は同行せず(井川淵に転居して以来、鏡子の精神状態がふたたび不安定になりはじめていた)。

小天で山川は、卓に、

「奥さんがやかましくて夏目は来られませんよ」

と告げた。卓はなぜとなくこの言葉を印象にとどめた。

4月

大杉栄(13)、名古屋陸軍地方幼年学校の入試に失敗

4月1日

湖広(湖北・湖南)総督張之洞、「勧学篇」(「湘学報」連載~6月21日)。康有為・梁啓超らの湖南変法運動を押える目的。①民権が唱えられると、「愚民必ず喜び、乱民必ず作り」、教会破壊など外洋の中国侵略の口実を与える。②中国を教化し、外洋を禦ぐ第1は、人心に忠義を呼びかけ、天下の心を一合し朝廷の威令で天下の力を統合すること。

4月1日

警視庁、3日上野公園で予定されている労働組合期成会大運動会に対して禁止を命じる

4月2日

ロシア公使、西外相提案に拒絶と回答。

4月3日

イギリス、威海衛租借(25年間)。正式条約は7月1日。また、これと並行して2月11日、揚子江沿岸不割譲に関する交換公文取交す。

4月5日

日本鉄道機関方「矯正会」結成。

4月10日

フランス、広州湾を海軍の給炭地として99ヶ年租借内諾。正式条約は11月16日。また、トンキン隣接諸省不割譲交換公文取交す。

4月10日

労働組合期成会労働者800余、集会禁止反対デモ(皇居前~上野)、30余検束。

4月11日

足尾銅山鉱業停止東京事務所に詰めていた栃木県足利郡(旧梁田郡)久野村在住の室田忠七の鉱毒事件日誌より

免訴処分延期願書の提出のため、各村長に調印をもらいに巡回する

4月11日

イタリア人銅版画家キヨソネ(66)、没。維新の元勲の肖像を描く。

4月13日

閣議、板垣入閣問題検討。井上馨蔵相が猛反対し伊東巳代治農商相と対立。伊藤の入閣支持なく取り止めとなる。

14日、伊東、辞表と書簡を伊藤首相に送る。自由党との提携に関して伊藤・井上への抗議辞職。26日受理。商務次官・秘書官も連袂辞職。

4月17日

康有為、「第1回保国会会議」開催。北京。聴衆200。「いまや、人々に天下滅亡の責任がある…」。会試のため全国から挙人が集まる頃。

4月18日

フランス、画家ギュスターフ・モロー(72)、没。

4月19日

米議会、キューバ独立承認し、併合意図なしと表明。21日、米艦隊、キューバ封鎖。

4月23日

宮城県沖で地震。マグニチュード7.2、小被害。

4月24日

日本、福建省不割譲に関する交換公文取交し。

4月24日

労働組合期成会、会費を15銭から10銭に引き下げることを決定。

4月25日

西・ローゼン協約調印

西徳二郎外相・露駐日公使ローゼン、韓国の独立承認、韓国への勧告・助言・顧問任命などにつき両国は事前に協議、ロシアは日本の商工業の発達を妨害しない。朝鮮に関してロシアと条約上対等の地位を回復。

日本の再進出を支えたのは、日清戦争前から形成され始めていた日本の朝鮮に対する経済的支配で、朝鮮の貿易相手国の内で日本の占める決定的な高さにそれは表れている。輸入の6~7割、輸出の8~9割が一貫して日本との取引であり、朝鮮経済は日本資本主義にがっちりと繋ぎとめられている。この頃の日朝貿易は、「阪韓貿易」と云われるように、朝鮮米を消費する阪神工業地帯の労働者の生産した綿製品を朝鮮農民が購入するという特徴(「綿米交換体制」)をもっている。

4月25日

石川啄木(12)、盛岡中学校(現盛岡第一高等学校)に入学。11日入学試験。18日合格(128人中10番)。

2年に、板垣征四郎(陸軍大臣)・野村長一(作家・胡堂)、3年に、及川古志郎(海軍大臣)金田一京助(言語学者)・田子一民(衆議院議長)、5年に、米内光政(首相)らがいる。

宮沢賢治は明治42年(1909)に入学


つづく

2024年8月27日火曜日

山本理顕氏×山口隆氏×森山高至氏による緊急シンポジウム「大阪・関西万博の迷走と建築家の退廃」 / 建築家の山本理顕さんが大阪万博に関してのシンポジウムに参加。藤本壮介氏が手がける350億円リングについて「“犯罪”だと思います」と指摘しました。 / 「建築界のノーベル賞」受賞の権威が大阪万博をバッサリ!“350億円リング”「犯罪だと思う」(日刊ゲンダイ) / 「住民監査請求を出すべき」         

 



 

「辺野古移設は最悪のシナリオ」 在沖縄米軍幹部の語った本音(朝日);「辺野古の代替施設の工事は、問題解決につながらず、より大きな問題を生みつつある。皮肉なことに、普天間を使い続けることが目的のようだ。長期的に、米国や沖縄県などだれも勝者にならないだろう」



 

大杉栄とその時代年表(235) 1898(明治31)年3月31日 カール・マルクス娘エレノア、自殺 〈エレノア・マルクスの生涯概観(2)〉 『ボヴァリー夫人』翻訳 イプセン翻訳 イプセン論争 イギリス新組合運動への貢献 インタナショナル統一 エンゲルスの遺産 機械工組合闘争の敗北 エイヴリングの裏切り         

 

リープクネヒト、エレノア、エイヴリング

大杉栄とその時代年表(234) 1898(明治31)年3月31日 カール・マルクス娘エレノア、自殺 〈エレノア・マルクスの生涯概観(1)〉 リサガレーとの出会い エイヴリングとの出会い アメリカでの活動 『資本論』英訳への参画 イプセンへの傾倒 より続く

1898(明治31)年

3月31日 

カール・マルクス娘エレノア、自殺 

 〈エレノア・マルクスの生涯概観(2)〉

当時エレノアはフローベル『ボヴァリー夫人』の翻訳を始めていた。この書物が、ナポレオン三世の政府によって背徳を理由に起訴されたことは、彼の「不滅の名誉」である、と翻訳の序文で述べている。シェークスピアの理想に忠実に、フローベルはブルジョア道徳を鏡にてらし、人々がその鏡に映った自らの像に衝撃を受けたのは当然であるという。エレノア自身は、エンマの性格を通じて描かれた自己欺瞞の問題に興味を抱いていた。フローベルの鏡は、エイヴリング夫妻をもうつしだしていた。エンマは、エレノアの理想とエイヴリングの堕落とを一身に体現して破滅した、と読みとることもできる。

劇作家エイヴリングが盲目の詩人マーストンと共同で書いた一幕劇『試錬』は、1885年12月、ロンドンの二流の劇場ラドブルック・ホールで上演され、ネルソンが田舎医者を、エレノアがその妻を演じた。ある劇評は、彼女が「驚くべき量のカと感情」を示したと賞讃したが、劇そのものは失敗であった。

ついで1887年11月、ネルソンまたはエイヴリングの第二の作品『海のほとり』が、同じラドブルック・ホールで上演された。エレノアは、少女時代の恋人を慕う人妻の役を演ずるが、彼女の演技は酷評をうけ、俳優としての彼女の野心は、一瞬に崩れ去ってしまった。しかし、エレノアの不幸をよそに、エイヴリングはようやく劇作家としての成功を掴もうとしていた。『海のほとり』が各地で好評を博した。

舞台を放棄したエレノアはイプセンの翻訳にあたり、『民衆の敵』が『社会の敵』として1888年に、『海の夫人』が1890年に出版された。一方エイヴリングは、ホーソーン『緋文字』を演出したが、その後の創作活動は、たいした進展をみせなかった。

英国演劇史上に一時代を画するイプセン論争は、1889年の『人形の家』上演に始まる。それは、婦人の解放と「真実の道徳」とを求める「イプセン派」と伝統的な家庭道徳を擁護する「反イプセン派」との論争であり、その一環として、『人形の家』の続篇が書かれさえした。エレノアはユダヤ人作家イズラエル・ヴァングウィルと共同で『人形の家の修繕』を書き、ノラが英国風の「良識」にしたがって家を出なかった場合を想定して物語を展開した。エイヴリングも「イプセン派」の先頭に立って活躍した。これら一連の努力を通じエイヴリング夫妻は、愛情と義務、自由と因襲の相克というひとつのテーマを追求し、イプセンに大きく依存した。

エレノアは、イギリス国内の新組合運動(ガス労働者組合)に対して大きな貢献を果たした。ストライキ委員、支部拡大委員として活躍し、エイヴリングとともに、ガス労働者を中心に、パリのインターナショナル大会の決定にもとづく8時間労働法獲得のためのメーデー示威集会を組織した。その直後に開催されたガス労働者組合の1890年年次大会で、エレノアは組合執行部に選出され、彼女が作成した新綱領・規約が採用された。それは、全ての労働者を男女とも平等の立場で受入れるという、産業別・職能別の差別を超越したジェネラル・ユニオンの理想を掲げ、生活と労働の物質的条件だけでなく、「この世の涙と笑い、悲しみとよろこび、労働とレジャー」のより平等な分配をうたうものであった。

その間ドイツ社会民主党は、組織の拡充に奔走していた。

インターナショナル統一は、1891年のブラッセル大会で成立するが、それに先立ち、1890年10月、エレノアは統一準備のため、フランス労働党のリール大会およびドイツ社会民主党のハレ大会に出席した。このときハレからエンゲルスに書いた手紙のなかで彼女は、フォルマーを中心とする改良主義者が党にとって危険な存在であることを指摘する一方、ドイツの党員の多くが、英国の労働組合員と同じく「見るのも苦痛なほど勿体ぶり、ブルジョア顔をしている」と述べている。

インターナショナルとの結びつきが、エイヴリングの英国社会主義運動主流への復帰を可能にした。1893年の独立労働党(ILP)創立大会で、彼は執行部に選出され、綱領の作成に参加した。しかし彼は、ILP会長ケア・ハーディーが保守党に接近しているものと判断し、とくに政府にたいするハーディーの失業対策要求が、結局は議会内の労働者議員ではなく、保護貿易論者によって支持された点を強調した。しかし1894年のメーデーをめぐる内紛によりエイヴリングはロンドン地区から除名された。本当の理由は、彼に対する一般的な不信の高まりであった。

マルクスの遺稿をふくむエンゲルスの「財産」処理が最大の関心事となってきた。

当時カウツキーと離婚したルイーゼがエンゲルスの秘書となったが、彼女は、「遺稿」をドイツ社会民主党に確保するため、ペーペルとアドラーとに協力する密使でもあった。彼女は、ウィーンから派遣されたエンゲルスの侍医ルードヴィヒ・フライベルガーと結婚するが、フライベルガーは、1893年7月29日に作成されたエンゲルスの遺言の証人でもあった。この遺言によると、サミュエル・モーア、ベルンシュタインおよびルイーゼが遺言執行人にえらばれ、遺産のうち1,000ポンドはドイツ社会民主党の選挙資金として用いられ、3,000ポンドは「パンプス」(亡くなったエンゲルス夫人エリザべス・バーンズの姪マリー・エレン・バーンズ)に与えられることになった。さらにドイッ社会民主党は、エンゲルスの所有または管理する全ての書物(マルクスの蔵書をも含む)および彼の版権を譲渡されることになった。彼の原稿や私信ほペーペルとベルンシュタインにあたえられ、マルクスの手になる原稿や手紙(マルクス宛を含む)はエレノアに帰されることとなった。ルイーゼは彼の邸宅・家具の一切を与えられ、更に残りの財産の四分の一を受取ることになった。あとの四分の三は三等分し、エレノア、ローラおよびジェニィの子供たちに配分されることになった。この遺言は、ルイーゼを最大の利益者とする一方、マルクスの書物や遺稿の処分を取り決めながら、マルクスの法定代表人であるエレノアを遺言執行人に加えなかった。

エレノアの幸福な少女時代の証人ともいうべきへレーナ・デムートは、エンゲルス家に仕えていたが、1890年に死亡した。エレノアはその息子フレデリク(労働者の家庭の養子として育てられていた)と親しくなるが、はじめ彼を、エンゲルスの息子と信じていた。ルイーゼやサミュエル・モーアから、フレディがマルクスの息子と伝えられたエレノアは、エンゲルスの死の前日直接エンゲルスから事実を知らされる。異母兄の発見は、エレノアに新らしい力を与えた。リープクネヒトのマルクス小伝に言及しながら、「人間マルクスほ『政治家』『思想家』マルクスほどには首尾よく行かないでしょう」と書いているが、彼女はフレディに特別な愛情をもつようになった。

エレノアは、父の伝記を書こうと思いたったが、そのために不可欠なマルクス=エンゲルス往復書簡は、当時、ロンドン在住のドイツ社会民主党代表モテラーの家の、二重鍵をかけたケースに納められ、エレノアの手には届かなかった。彼女はマルクスの英語の論文の編集にあたり、『ニューヨーク・トリビューン』紙にのった1848年革命の歴史を『革命と反革命』として出版し、同じくクリミア戦争を扱う『トリビューン』の論文から『東方問題』を編集した。

かつてエンゲルスは、エレノアだけが、英国社会主義の十分な歴史を書くことができると述べた。

1895年、彼女の「英国だより」がセント・ぺテルスブルグの月刊評論誌『ロシヤの富』に連載された。また彼女は、ヴルムの『国民百科辞典』に「英国における労働者階級運動」を書き、1381年の農民戦争から独立労働党に至る歴史をあとづけた。当時彼女は、カウツキーやベルンシュタインがはじめたマルクス主義者による歴史研究の一翼を担っていた。

エンゲルスの遺産は2万5千ポンドにおよぶ莫大なものであり、エレノアも数千ポンドを得て、ほじめて生活に余裕を見出した。ロンドン南郊シドナムに家を入手し、ここを本拠として組合運動と社会主義運動に余生を捧げようとした。

エンゲルスの死後、社会民主主義に転機がおとずれた。日和見主義的傾向が、ドイツ社会民主党の大勢を左右するようになった。

他方、エイヴリング夫妻は、ハインドマンの社会民主主義連合(SDP)と和解し、1896ロンドンで開催されたインターナショナル第四回大会が、彼らの結束をさらに強化していた。

その間、エイヴリングの私生活上の「事件」が、シドナムの平和を乱していた。エイヴリングの別居した妻イザベルは、1892年に死亡していた。彼は、インターナショナルのための資金募集の演劇会で知りあったエヴァ・フライという音楽教師の娘に接近するようになった。

1897年6月、エレノアが、ロンドンで開かれた国際炭坑労働者大会に出席していたとき、エイダリングは、ネルソンなる芸名でもって、エヴァと正式に結婚した。それは「合法的な姦通」であり、自由恋愛の理想を嘲笑するものであった。失意の劇作家とかけだしの女優とは、エレノアを悲劇の主人公に仕立てた芝居を企てたものと思われる。しかもエイヴリングは、1895-6年のエレノアの遺言によって、彼女の財産一切の相続人に指定され、この芝居から金銭的利益を期待することもできた。

1897年秋、19世紀最大の資本と労働の闘争のびとつ、機械工組合員はロックアウトに突入した。エレノアは、ドイツの労働者にあてた訴えのなかで、雇主が歴史上はじめて、個々の雇主としてではなく、階級としての雇主のために階級間争をはじめた点を強調した。ドイツからの義損金は、海外から送られたロックアウト資金の約半分、1万4千ポンドに達した。しかし闘争は長期化し、翌年はじめ組合は、8時間労働の要求を撤回して降伏した。

1897年秋、エレノアは、地方選挙のSDF候補応援演説のためランカシアを訪れたが、同行のエイヴリングが肺炎を患い、持病の濃瘡も悪化した。転地療養、入院、手術と、エレノアは献身的に看護する。やがてエイヴリングの容態が好転したので、エレノアはマルクスの遺稿の編集を再開するため、1898年3月27日、エイヴリングを、保養地マーギットからシドナムヘ連れて帰った。その直後、3月31日朝、エレノアは、エイヴリングとエヴァとの結婚を知らせる手紙を受け取った。

理想が辱しめられ、犠牲が嘲けられ、エレノアは、自殺を決意した。同日、地元の薬剤師へ「犬用にシアン化水素(青酸カリ)を少量処方してほしい」とのメモを、メイドに言付けた。

薬剤師に処方してもらった青酸カリを受け取ると、領収書を薬剤師に返すため、メイドを薬剤師の元へ送る。その後自室に引き篭もり、遺書を残して服毒自殺。戻ったメイドがエレノアを発見した時には、殆ど息をしておらず、医師が駆け付けた時点で既に死亡していた。43歳だった。

エレノアを、エイヴリングが封助したこと殆ど疑いない。薬局から青酸が到着するや、彼は急にロンドン行きを思い立った。

4月5日に葬儀。多数の参列者。エイヴリングの他、ロバート・バナー、エドゥアルト・ベルンシュタイン、ピート・カレン、ヘンリー・ハインドマン、そしてウィル・ソーンが挨拶に立った。

その後のエイヴリングの行状、検察官の取調べ、社会主義者の驚愕、友人たちの憶測は、ひとつの推理小説を構成し得るものである。エイヴリングは、濃瘡が悪化し、4ヵカ月後の8月2日、ネルソン夫人のマンションで死亡した。48歳。


つづく

維新の本拠地・大阪で逆風、「『あの知事』推す政党は応援できない」の声も(読売) / 当選したのは、「自民党府連幹事長でありながら自民党を隠して出馬した都構想賛成、カジノ賛成者」 / おまけに、「箕面市議選は、維新が全員当選で5→7に増やして第一会派に」 / 大阪・箕面市長選は「完敗」 府内の公認現職で初敗北―維新・吉村氏(時事) / 維新、大阪で初の現職市長落選 万博・兵庫問題で逆風「退潮」指摘も(朝日 有料記事);「25日に投開票された大阪府箕面市長選で、無所属新顔の前自民党府議が地域政党・大阪維新の会公認の現職を破り、初当選を確実にした。維新が、本拠地・大阪の首長選で公認の現職を落とすのは初めて。今年に入って首長選などで敗北が相次いでおり、維新の退潮傾向を指摘する声も上がっている。」 / 大阪・箕面市長選 維新公認の現職敗北 万博失言だけではない理由(毎日)    

 



 

万博中のIR工事 博覧会国際事務局長「6月に初めて聞いた」 調整不調ならIR撤退も(産経) / 吉村洋文知事にIR撤退の危機感 万博開催中の工事中断要望に事業者「商売として成立しないなら…」(AERA) / 「万博の横でカジノ工事なんて」 開催中の工事中断、吉村知事に要求 (朝日 有料記事);「2025年大阪・関西万博の会場予定地の北隣で進むカジノを含む統合型リゾート(IR)の整備について、博覧会国際事務局(BIE)や経済界の幹部らが、万博期間中の工事を中断するよう大阪府市に求めていることがわかった。景観悪化や騒音の懸念のためだが、工期をずらせばIR事業者の撤退につながる可能性があり、府市の対応は定まっていない。」    



 

大阪府立高校 新たに2校「廃校」へ 定員割れ続き志願者数の増加が見込めず 私立高校の授業料完全無償化の影響も(MBS) / 【速報】大阪の公立高校 新たに2校で廃校方針が決定 大阪市:大正白稜高と堺市:福泉高「私立完全無償化」影響もあり今年度府立高の約半数で定員割れ(MBSニュース)

2024年8月26日月曜日

意味がよく分からない → 750個の石をネックレスのようにつるす万博休憩所、若手20組の1組である工藤浩平氏(川又英紀 日経クロステック) / 工藤浩平さんは、「休憩所2では建築基準法をはじめとした各種法令を遵守し、構造計算や各種専門家へのヒアリング、強度試験などを行った上で設計・施工を進めております。」 と言ってますが、、、   



 

大杉栄とその時代年表(234) 1898(明治31)年3月31日 カール・マルクス娘エレノア、自殺 〈エレノア・マルクスの生涯概観(1)〉 リサガレーとの出会い エイヴリングとの出会い アメリカでの活動 『資本論』英訳への参画 イプセンへの傾倒

 

エレノア・マルクス

大杉栄とその時代年表(233) 1898(明治31)年3月6日~28日 子規『あきまろに答ふ』『人々に答ふ』 朝鮮、万民共同会開催 二葉亭四迷、陸軍大学露語科教授嘱託 外相西徳二郎「満韓交換論」 清・ロシア協定(「旅大租借条約」) より続く

1898(明治31)年

3月31日

カール・マルクス娘エレノア、自殺

〈エレノア・マルクスの生涯概観(1)〉

1855年1月16日、ロンドンのソーホーに一角でカール・マルクスと母イェニー・マルクスとの間の第六子、四女として生まれる。マルクス豪でただびとり、英国国籍をもつ英国市民。

16歳で父の秘書となる。

1871年4月、姉ジェニィと共にボルドーへおもむき、姉ローラ(パリ・コミューンの密使ポール・ラファルグのの妻)に協力した。

70年代ロンドンの外国人サークルは、コミューン亡命者の合流によって熱気をおびていた。そのうちプルードン派社会主義者で医学生のシャルル・ロンゲはジェニィと結婚し、コミューンのジャーナリストのリサガレーエレノアの婚約者になった。

父カールはこれに反対、エレノアにリサガレーと会うことも禁じた。

1874年、ようやく父カールの禁制が解け、彼女はロンドンに赴き、リサガレー『1871年のコミューン史』執筆を手伝った(1876年ブラッセルで出版。1886年エレノアにより英訳、出版)。

1880年、リサガレーやロンゲは許されて帰国。エレノアはとりのこされる。

1881年12月に母イエニーを、1883年1月に姉ジェニー・ロンゲと、2ヶ月後には父カール・マルクスを相次いで亡くす。


エドワード・エイヴリングはマルクスの葬儀参列者の中ですでに主要な地位を占めていたが、1883年、エレノアのマルクス略伝および剰余価値論解説が、彼の編集する雑誌に発表された。

1884年、エレノアはハインドマンの社会民主同盟(SDF)に加わり、そこでエイヴリングと出会う(同年、SDFを脱退し社会主義同盟を結成する)

1884年年6月、エレノアはエイヴリングと結婚生活に入ると姉ローラに通知した。エイヴリングには別居した妻があり、エレノアは正式に結婚できなかったが、「愛情、趣味と仕事における完全な共感、ならびに同じ目的のための努力」が人を幸福にするならば、我々は幸福になるだろうと彼女はドリー・ラドフォードに書いている。しかし、彼女が、必要に迫られた自由結婚を原則の問題としてとらえたことのなかに、すでに悲劇の萌芽がひそんでいた。その上エイヴリングは、金銭問題、女性関係について、たえず悪評にさらされていた。この点についてエンゲルスもエレノアも、それが政敵ブラドロウとハインドマンの中傷によるものと信じていた。

ハインドマンの社会民主主義連合が分裂したあと、エイヴリング夫妻は、ウィリアム・モリスをたすけて、新設の社会主義連盟を国際的なマルクス主義政党に発展させようと努力していた。当時のエレノアの主要な関心事のびとつは婦人問題であった。たまたまロンドンで大規模な少女の売春組織があかるみに出され、売春取締のための刑法改正(婦人の同意年齢の13歳から16歳への引上げ)が行なわれた。エレノアは売春を「性支配」の問題とみなし、その解決は「階級支配の廃止」に依存するというペーペル婦人論の立場を援用し、エイヴリングと共同で『婦人問題』を書いた。

1885年、パリで国際社会主義者会議の結成に係わる。

1886年秋、エイヴリング夫妻は、リープクネヒトと共にアメリカ社会主義労働党に招かれて渡米。同党はドイツ人移民の支配下にあったが、エイヴリングは、党のアメリカ人部門強化の必要性を説き、エレノアも同じ目的のため、婦人の入党を勧告した。夫妻は2ヵ半でニューヨークをはじめ35都市で講演を行なった。党のドイツ人指導者は、エイヴリングがアメリカ滞在中、党費で賓沢な生活を送り、「労働者の金をだましとった」と公然と非難し、これがロンドンに伝えられ、彼の名誉回復のために、エンゲルスまでが奔走しなければならなかった

アメリカでの活動のあと、夫妻の関心事は、英国イースト・エンドの急進派労働者を中心に、労働者の階級政党を組繊することとなった。

1887年初めに出版された『資本論』第一巻の英訳が、彼らの新しい活動に理論的根拠をあたえるものと期待された。エイヴリングはサミュエル・モーアの翻訳に参加し、エンゲルスの指導のもとに主に叙述的な部分を担当し、エレノアは、二重訳の誤りを防ぐため「ブルー・ブックス」からの引用を検証していた。『アシーニアム』紙上に発表された最初の書評では、マルクスは、工場立法の実証的研究にとくにすぐれた社会史家」として評価された。

しかし,やがて英国内の代表的な反響は、限界効用学説を採用したバーナード・ショウによるマルクス価値論の批判というかたちをとり、同じくフェビアン社会主義着で今ではエイヴリング夫妻を憎悪する、かつてのエイヴリングの恋人ペザント夫人が、「矛盾と悪しき形而上学のこの沼泥は、近代社会主義の安全な基礎たり得ない」と宣言して、価値論論争に終止符を打った。このころから『資本論』の売行も急激に低下した。

演劇へのエレノアの関心は、父マルクスから受け継いだものであり、この頃彼女は、劇作家として注目され始めた夫エイヴリングとともに、英国演劇界の「革命」に関係するようになった。英国の劇場に、新らしい息吹きが流れていた。劇作家に新らしい演劇、新らしい思想の実験をこころみる機会をあたえていた。演劇批評が職業として成立するようになり、社会問題について見解を表明しはじめた。大胆な若い劇作家が、在来の道徳や社会通念を攻撃しはじめた。彼らは、ブルジョア社会のとりでとみなされた結婚と財産の二つの制度ととりくんだ。

英国の新しい演劇運動は、主にイプセンの影響から出発した。その先覚者は、スコットランド出身のジャーナリストで非宗教論者のウィリアム・アーチャーであり、エイヴリングの『プログレス』紙上でスカンディナヴィア文学を紹介したのもアーチャーであった。エレノアが『人形の家』に夢中になったのは、この頃である。

当時エレノアは、『人形の家』上演の計画をたて、ショウに参加を要請する手紙を書いた。「勉強すればするほど、私には彼〔イプセン〕が偉大に思われます。彼の劇が『終りをもたず』我々を突きはなすと人々が不平をいうのは、何と奇妙なことでしょう。・・・我々は、我々の小さなドラマ、喜劇、悲劇、茶番劇を演じ、おわるとまたはじめからやり直すのです。もし我々が、人生の諸問題に解決を見出すことができたならば、この物憂げな世の中は、万事、ずっと楽になるでしょう。」

『人形の家』は、1886年1月15日、エレノアの家で上演された。英国最初の上演ではなかったが、画期的なものであった。エレノアがノラを、エイヴリングがヘルマー、ショウがタログスタット、ウィリアム・モリスの娘メイ・モリスがリンデン夫人を演じた。


つづく


寛弘5年(1008)9月11日 中宮彰子が敦成親王(のちの後一条天皇)を生む 『紫式部日記』のこと

東京 北の丸公園 2012-11-02
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寛弘5年(1008)
9月11日
・中宮彰子が敦成親王(のちの後一条天皇)を生む。

彰子の出産や産養(うぶやしない)、一条天皇の土御門第行幸(10月16日)、五十日祝(いかのいわい)、百日祝(ももかのいわい)などを記録したのが、彰子に仕えた女房紫式部の『紫式部日記』で、土御門第がその舞台。

『源氏物語』は彰子の土御門第滞在中に大部分が書き上げられ、中宮が内裏に戻るまでの間に冊子作りが中宮御前の女房たちによって行われたと『紫式部日記』にみえる。
局(つぼね)においてあった草稿本を道長がみつけて持ち去り、中宮彰子の妹である尚侍(ないしのかみ)妍子へ献上してしまったことも書かれている。

「秋のけはひ入り立つままに、土御門殿のありさま、いはむ方なくをかし。池のわたりの木ずゑども、遣水(やりみず)のほとりの叢(くさむら)、おのがじし色づきわたりつつ、おはかたの空も艶(えん)なるにもてはやされて、不断の御読経(みどきよう)の声々、あはれまさりけり。やうやう涼しき風のけはひに、例の絶えせぬ水のおとなひ、夜もすがら聞きまがはさる。」(『紫式部日記』冒頭)

彰子は出産を控えて、土御門第に退出し、女房として仕える紫式部もつき従った。
『日記』の冒頭、安産祈願の読経と、寝殿と東対の間から南庭の池へ流れこむ遣水の音が入りまじる、初秋の土御門第の美しい情景を描いている。

■彰子の御産と二つの日記
『紫式部日記』はふたつの部分から構成されている。
前半は、一条天皇中宮藤原彰子が皇子敦成親王を出産する前後の記事であり、
後半は消息文と呼ばれ、中宮彰子付きの女房たちや清少納言などに対する批評が有名である。

『紫式部日記』前半は、寛弘5年8月の土御門第の様子から始まり、8月20日頃からしかるべき上達部・殿上人も宿直するようになったこと、里住みの女房たちも参上してきたことなどが記されている。

9月9日夜中から御産の気色が見え始め、10日寅刻には日常使用する御帳台(柱を立て周囲を帳で囲った寝台)を片づけ、白木の御帳を立てて中宮彰子は移った。他の調度類も白一色になる。

天皇の出産関係について男性官人の各種日記類から記事を収集した『御産部類記』があり、その中に後一条天皇の誕生に関する史料が集められている。
その中でも、もっとも公的で詳細な「不知記(ふちき)」(日記の名称不明の意味)と『紫式部日記』を比較してみると、その特徴が明らかになる。

この「不知記」は恐らく中宮職関係の男性官人が記した公的日記だろう。
皇子誕生までの経過をふたつの日記でみていくと、「不知記」では御産の場にまきちらす散米が中宮庁によって準備され、種々の御祈がなされたことが記されている。

一方、『紫式部日記』の記載は詳細で、10日は中宮彰子の不安そうな様子、物の怪を調伏するために修験者や陰陽師が限りなく集められ、御誦経(おんずきよう)の使が寺々へ派遣されたこと、御帳台の周囲には東側に内裏の女房、西側に物の怪の憑人と修験者、南側に僧正・僧都、北側に女房たち40人が伺候している様子が描かれている。

皇子誕生の描写 
続いて、「不知記」では「午刻皇子平安に降誕したまう」と、もう皇子が生まれてしまっている。
しかし、『紫式部日記』では、11日に彰子は北庇に移動したこと、北庇二間のうち彰子のいる間には母倫子、乳母となる宰相の君(中宮女房)、産婆役の内蔵命婦(くらのみようぶ)、仁和寺の僧都、三井寺の内供(ないぐ、天皇の安穏を祈る僧官)が伺候し、もう一つの間に紫式部を含めた中宮の主立った女房たちが侍していたこと、凡帳の外に中宮の姉妹の乳母たちや頼通・教通ら中宮の兄弟、親しい貴族たちなどがいて、凡帳の上からのぞいていたことなどが記されている。

彰子は髪の毛を少し削いで受戒し、出産の後産が済むまで僧俗が声を張り上げて礼拝し、東庇では女房たちは殿上人たちに混じって涙で顔を濡らしながら茫然と顔を見合わせている様子などが記されている。
彰子が生む時には、物の怪がののしる声が恐ろしく手強いので、さらに阿闇梨(密教の伝法灌頂を受けた者)を加えたことなど、御産の現場の様子が生々しく描かれている。

そして、午の時に、男の子が生まれた。
安産である上に男の子であり、嬉しさは並大抵ではないとある。

御産が無事終わって、伺候していた人たちが退出して、中宮御前には年輩の女房たちが侍している静謐な様を描く。
殿(道長)や北の方(倫子)も退いて、僧や医師、陰陽師らに布施や禄を配り、御湯殿の儀式の準備をされているのだろう、とある。

皇子誕生後の行事についても、「不知記」と『紫式部日記』の記述では違いがある。
「不知記」では、皇子が生まれると一条天皇乳母である橘徳子が哺乳の儀を行い、その後、天皇から御剣勅使(みはかしのちよくし、守り刀をもたらす勅使)が遣わされて来る。そして皇子を産湯につかわす御湯殿の儀と読書・鳴弦が行われる。
『紫式部日記』では、皇子誕生後、中宮の母倫子が臍の緒を切ったことがみえること、女房奉仕の御湯殿の儀の記述が詳しく、御剣勅使と読書・鳴弦の記述はごく簡単である。
以上のように、『紫式部日記』の内容は彰子の近くに侍していた女房だからこそ書けたものだといえる。

記録性からみた共通点
『御堂関白記』『小右記』『権記』など貴族の日記にも彰子の御産についての記事はあるが、それらは夫々の貴族の立場から書かれたものである。
「不知記」『紫式部日記』は、中宮職官人と女房(彰子を支える関係者)によって書かれた公式記録という性格をもっている。
この二つの日記は、その記録内容が違うことによって相補って彰子の御産全体を記録している。
『紫式部日記』は、文章力に優れた紫式部が一大慶事である中宮の御産に関する記録をするよう、道長から要請されたと考えられる。

紫式部の位置
女房の身分は、上臈-中臈-下臈に分かれ、内裏に仕える女房は、乳母(めのと)・典侍(ないしのすけ)-掌侍(ないしのしよう、内侍ないしのかみ)-命婦(みようぶ)-女蔵人(によくろうど)に分類できる

『紫式部日記』から彰子の女房を見ていくと・・・
上臈女房として、まず、一条天皇乳母である「橘の三位(さんみ)」と呼ばれる典侍橘徳子が、内裏女房と中宮女房を兼務していた。
職務のある女房としては「宮の宣旨」もいる。
その他、「宰相の君」「大納言の君」「小少将の君」など上臈女房には道長や倫子の縁者が多い。

内侍には、「宮の内侍」「左衛門の内侍」や「弁の内侍」など、
命婦には、「筑前の命婦」や「左京の命婦」「大輔の命婦」などがおり、
内裏と中宮の女房を兼務している者もいた。

その他、中臈の女房として、「五節(ごせち)の弁」「大輔(たいふ、伊勢大輔)」などがいた。

紫式部は公的な役職にはついていなかったと考えられるので、その他の中臈女房の一人ということになる。
中臈女房には紫式部のように受領層の娘や妻室が多い。
摂関家家司で受領の者の妻には、摂関家出身の中宮やその子どもである天皇の乳母になる例もあった

女房には局を与えられて常に伺候する者と、里住みをして臨時に出仕する者とがいた。
紫式部には、土御門第では寝殿と東の対(たい)を結ぶ北の渡殿(わたどの)の東端に局があり、一条院内では彰子御所である東北の対の東長片庇(ひがしながかたびさし、細殿)の三つ目の間に局があった。

女房の仕事は、御膳や整髪など中宮の衣食住についての奉仕や、中宮の娯楽や諮問に答えるなどの精神的な奉仕、公卿や男性官人の取り次ぎなどであった。
紫式部も女房としての仕事をしており、中宮彰子に漢籍を教示したり、藤原実資の取り次ぎをしたりしている。中宮彰子の御産の記録を書くことも仕事の一つであった。

お産のあと
10月16日
一条天皇の土御門邸行幸があり、皇子は敦成(あつひら)親王と名づけられ、彰子の母倫子は、その外祖母として従一位を授けられた。

11月1日
生後五十日を祝う五十日(いか)の儀が、土御門邸で、大臣以下公卿・殿上人雲集して盛大に行なわれる。若宮に祝の餅を道長が進めたのが午後8時、それから大宴会となって、人々はすっかり酩酊した。
右大臣藤原顕光などは、六十五歳の老人のくせに几帳のほころびを引き破ってしまうほどの荒れかただし、女房と袖引き合うのもあり、歌をうたい、盃はめぐり、乱酔の宴となりはてたなかに、右大将実資がシャンとして、落ち着いて女房の衣裳の袖ぐちを手に取って、その色あいを楽しんでいるのがひときわ立派に見える。

ふと、中納言公任が、「恐れ入りますが、この辺に若紫はおいでになりますか」と言う。
若紫は源氏物語の女主人公、紫の上のことで、つまり紫式部を探している。
式部は、光源氏そのままのような人などいないのに、その相手の紫の上なぞいるものですかと思いながら放っておく。
あまりの乱酔ぶりに恐れをなして、同僚の宰相の君としめし合わせて凡帳の蔭に隠れたところ、二人とも道長につかまってしまった。
「和歌一首ずつ詠みなさい。そうしたら許してやる」とのことで、しかたないから一首を口ずさむ。

いかにいかがかぞへやるべき八千歳(やちとせ)の あまりひさしき君が御代をば
(若宮の八千年にもあまるご寿命はとても数えられるものではありません。最初に五十日(いか)ということばがちゃんと詠みこんである)

すると道長は、「うん、よくできた」と二へんばかり式部の歌を口ずさむと、すらすらとつぎの歌を詠みあげた。

あしたづのよはひしあれば君が代の 千歳(ちとせ)のかずもかぞへとりてむ
(わたくしに千年という鶴の寿命があったらば、若宮の千年のおん年もかぞえられるだろう)

道長もだいぶ酔ったらしい。声を上げて、
「中宮、お聞きになりましたか、われながら上出来」
と自慢して、さらに、
「中宮の父として、わたくしも不足な男ではなし、中宮もわたくしのよい娘だ。母の倫子も幸せを喜んでご機嫌上々らしい。いい亭主を持ったものだと思っているようですよ」
という。
中宮のご退座をお送りするとて、いそいで立ってゆきながら、「中宮もきょうのわたくしを失礼なとお思いかも知れないが、親のおかげで子供も立派になれるんだぞ」とつぶやいているのを聞いて、人々がほがらかに笑う・・・

11月17日
彰子は土御門邸から内裏一条院に入る。
その頃、彰子のもとでは女房たちが手分けをして、『源氏物語』の豪華な清書本作りに精出しているらしい。
式部が草稿本を部屋に隠しておいたら、道長が探しして見つけだし、次女でやがて東宮居貞親王(三条天皇)の妃となった妍子に贈ってしまった。
このほか、一条天皇が『源氏物語』を人に読ませて聞き、式部の才を賞したという話もあり、宮廷では評判の物語だったらしい。
道長がこの『源氏物語』製作のスポンサーだったと見る向きもある。

紫式部
父は藤原為時、母は藤原為信娘。本名、生没年は不明。生年は、天禄元年(970)説、天延元年(973)説、天元元年(978)説がある。
姉と弟惟規(のぶのり、一説に兄)がいた。
父為時は冬嗣の子良門(よしかど)の子孫で、祖父為輔は堤中納言と称された著名な歌人。
為時は文章生出身の学者で、花山天皇と関係が深く、永観2年(984)、花山天皇即位後、式部丞で蔵人になったが、花山天皇が退位すると、官位に恵まれなくなり、長徳2年(996)年ようやく越前守に任じられた。その後は越後守となる。
母の父為信は冬嗣の子長良の子孫で、曾祖父文範は文章生出身で権中納言にいたっているが、為信も受領であった。
つまり、紫式部は父母とも文化人ではあるが地方国司たる受領層出身の中級貴族であった。

紫式部の若い頃のことは殆ど不明だが、父為時が弟惟規に漢籍を教えるのをそばで聞いていた紫式部の方がよく覚えてしまうので、父が男の子でないのを残念がったという話が『紫式部日記』にみえる。
父為時が越前守に任命されると、紫式部も共に越前国へ下っている。
『紫式部集』には越前へ下る途中や越前国で作った和歌がみえる。

その後、長徳3年冬から4年春に、紫式部は帰京した。
以前から交際のあった藤原宣孝(のぶたか)と結婚するためであった考えられる。
長徳4年(998)年晩秋から冬にかけて2人は結婚。宣孝は45歳くらいで他にも妻がいた。紫式部は30歳くらいで晩婚だった。
長保元年(999)年には長女賢子が生まれた。

ところが、新婚生活もつかの間、夫宣孝が亡くなってしまう。
その後、つれづれなる生活のまにまに紫式部は『源氏物語』執筆を始めたと考えられる。
そしてその評判によって、寛弘2年(1005)年または3年、一条天皇中宮藤原彰子のもとに女房として出仕することになった。
紫式部が出仕する頃には、『源氏物語』は宮中で広く読まれていたらしく、一条天皇が『源氏物語』の作者は「日本紀」(『日本書紀』)を読んでいるにちがいないと評したことが『紫式部日記』にみえている。
その漢学の学識がかわれて、中宮彰子から依頼されて自居易の楽府を講じたことも同じく記されている。
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12月29日
(実家から)宮中に参内する(『紫式部日記』)

12月31日
・『紫式部日記』に、この年の大晦日の夜、一条院内裏に盗賊が入って、女官2人が衣裳をはぎとられた記事がある。
都の治安は乱れ、内裏に盗賊や暴漢が入って来た例はこの他にもある。
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寛弘2年(1005)11月~寛弘3年(1006)内裏焼亡、神鏡焼損 3月 造内裏定 「坂東に至りては、已に亡弊国、敢えて宛つべからず」(藤原実資『小右記』)

東京 江戸城(皇居)東御苑
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寛弘2年(1005)
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11月13日
・「前大宰帥(藤原伊周)は朝議に参預するように」と云(い)うことだ(『権記』)。
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11月14日
・大外記(滋野)善言朝臣が云ったことには、「昨日・・・内裏に参りました。左府(道長)がおっしゃって云ったことには、『帥(伊周)が朝議に参預するよう、宣旨を書き下すように』ということでした。未だ前例のない事です」ということだ(『小右記』)。
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11月15日
・月蝕
未剋(ひつじのこく/午後1時~午後3時)の頃、内裏に参った。・・・戌剋(いぬのこく/午後7時~午後9時)の頃、退出した。この頃、月蝕であった。亥剋(いのこく/午後9時~午後11時ごろ)に及んで、皆既となった。同剋の終剋、末に復した(『小右記』)。
月蝕は、覆いを月に付けたようであった。未だ元に復さない頃に、一寝した後、人が申して云(い)ったことには、「西の方角に火事があります」と。起きて見てみると、火事は内裏であると見えたので、馳(は)せて参った(『御堂関白記』)。
・内裏が焼亡し、再び神鏡が焼損する
火が出た所は、未だわからない。「温明殿と綾綺殿との間から出た」ということだ。左近少将(藤原)重尹と右近少将(源)済政に、配下の者を率いて賢所(かしこどころ)の神鏡を守り奉るよう命じて、参らせた。
東から朔平門に到った。(一条)天皇の御在所を問うた。女蔵人小輔(にょくろうどしょう)に、縫殿寮(ぬいどのりょう)の門の下で会った。天皇は中和院(ちゅうかいん)に避難していらっしゃるということを聞いた。この間、火は南東に延焼した。中宮(藤原彰子)も(一条)天皇と一緒にいらっしゃった。大臣以下が参着した。
夜が明けた後、神鏡を捜索し奉ったところ、破損されていた。大刀四柄と小調度が有った。魚形の金十枚・銀十五枚・銅三十枚だけ探し出した。すぐに大蔵省の長殿から唐櫃を持って来させ、それに入れ奉り、松本職曹司に安置し奉った(『御堂関白記』)。
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12月
・入宋の天台僧寂照からの書が道長のもとに届く。
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12月
・行成が伊勢公卿勅使となる。
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12月
・道長、法性寺に五大堂建立を決める。
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12月
・造内裏定が行われる。
陣座(じんのざ)でなく天皇御前での御前定(ごぜんのざ)が開かれる。
天皇から「造宮が重なり諸国は疲弊していて官物もないだろう。国司に叙位を与えるべきか、造営期限をいつにするか、定め申せ」と議題が出され、道長以下12人の公卿が議して、費用を正税から支出せず造営する国司に対してのみ叙位することに決定した(『小右記』)。

受領の奉仕の条件であるから公卿の定によっているが、正税からの支出を抑制する方向がみられ(長和3年(1014)も同じ条件とした)、受領に対する一方的賦課の強化というこの前後の傾向の表われである(受領は国内では臨時雑役として賦課した)。

この時、道長は、近江は美福門(宮城門)、丹波は豊楽院、紀伊は日前(ひのくま)・国懸(くにかかす)神社の造営にあたっていて、坂東は亡弊(疲弊はなはだしい)国であり、殿舎を割り当てられず、造営にあたる国が足りないと述べ、播磨守藤原陳政が常寧殿・宣耀殿を造るので重任させてほしいとの申請に対して、さらに蔵人宿所の造営を追加して裁可している。
他の造営との重複や国の状況を考え、過重な負担にならないようにいろいろな調整がなされたのである。
造宮の実務は別当・行事からなる行事所で処理されたが、各国からの造営に関する申請は、公卿の定によって決定される。

「坂東に至りては、已に亡弊国、敢えて宛つべからず」(藤原実資の日記『小右記』寛弘2年12月21日条)

天徳の焼亡で焼け跡から掘り出された神鏡は、この寛弘2年の時に再び焼損し、鏡の形を失ったらしい。
火災直後から神鏡を改鋳すべきか、公卿が議論している。
諸道に勘文を提出させたうえで、翌年7月に天皇御前において公卿が集まり定を行なった。神鏡を改鋳すべきでないという多数意見と、道長・伊周・公任の3人の、祈祷や占いを加えてその結果で決めるべきだとの意見に分かれている。これが後世「神鏡定」と称される御前定の先例となる。

道長は、結局は取りやめになったが、神鏡を改鋳すべきだと主張している。
神鏡は、伊勢神宮の天照大神の形代(かたしろ)として神聖不可侵で崇拝の対象となるが、それは11世紀後半以降のことで、当時は、ほかの「三種の神器」の宝剣などと同じたんなる宝器だった。
古代貴族のある種の開明性がみてとれる。
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寛弘3年(1006)
1月28日
伊勢国守交替問題(平致頼との長徳の合戦に続いて平維衡が出てくる)
「儀の間に伊勢の避状(さりじよう)有り。守為度申して云く。くだんの替りにその人を申さず、ただ維衡を賜はらずてへり。この由を奏し、避書を進(まい)らす。儀の間案のごとく右府(顕光)維衡をもつて挙(あ)げ申す。仰せらる。如何。我奏して云く。宜しからざる事なり、彼の国に事有る者なり。用ゐられず、これ(維衡)を任ぜらる。奇(あや)しき事なり。御門(みかど)の御意未だ知らず、奇しき思ひ極まりなし。諸卿衆人奇しみ申すこと希有なり。丑時事をはんぬ。この事有るの後、欠官と雖も申し任ぜず、大間の清書を奉ず。立つて他の仰せ有り。左右申さず、これ心神相違するところなり。」(『御堂関白記』)。

国守辞任を申し出た藤原為度は、後任の名指しをしなかったが、既に伊勢守希望の意志表明をしていた維衡の任命のみは反対した。右大臣顕光が維衡を推していた。顕光は頑愚・無能の定評があった。ただ「案のごとく」は、人々が維衡と顕光の関係に通じており、顕光の維衡推挙が当然視されていたとの解釈が自然。
結局、一条天皇は道長と諸卿の強い反対を押し切って、維衡を伊勢守に任じている。天皇は堀河院修造の功を想起して、維衡を引きたてたのかも知れない。
しかし、「奇しき思ひ極まりなし」と、苦々しく思っていた道長らの巻き返しのせいか、3月19日、維衡は伊勢守の任を解かれる。

道長は、維衡は「彼の国に事有る者」、かつてその国で問題を起した人物だから、国守に任ずるのはよろしくない、起用は地方政治混乱のもとである、と主張し、一条天皇を翻意させた。

維衡にとって伊勢国守交替問題は、二重の打撃であった。まず、伊勢守になれなかったこと(しかし、伊勢守解任の3ヶ月後、上野介に任ぜられる)。次に、道長や諸卿に好ましくない人物という印象を与えたこと。
維衡は自らの状況を察知して、伊勢守解任後は、道長への接近を始める。
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3月9日
平八生(平維衡との長徳の合戦を戦った平致頼の一族)、陸奥国押領使に任ぜられる
致頼の一族は、平国香の弟良兼より始まり、子の公雅・孫の致頼と続く。

一族中の正六位上平朝臣八生(公雅の弟公基の子)、この日、太政官符により陸奥国押領使に任ぜられている。
陸奥国は、「北は蛮夷に接し、南は中国を承(う)く、奸犯の者、動(やや)もすればもって劫(強)盗す」という状態であったので、試みに八生を国の押領使に用い、追捕させたところ、「凶賊」は跡を絶ち「部内自(おのずか)らもつて粛清」した。それで正規任用にたると判断され、太政官に押領使補任を願い出、許された(『類架符宣抄』第七)。

彼がどのようにして陸奥国司と関係を持ったかは不明だが、「門風扇(さかん)なる所にして、雄武は群を抜く」兵の家系で、武勇に秀でている点を評価されての試用だった。
『今昔物語集』が公雅・致頼を、求めに応じて郎等を貸し出す傭兵隊長として描いている、そのような延長線上に八生は位置していた。
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長保6年/寛弘元年(1004)~寛弘2年(1005)3月 藤原頼通(13歳)の春日祭使 中宮彰子の大原野行啓

東京 北の丸公園
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長保6年/寛弘元年(1004)
この年
・宋が契丹と澶淵の和議を結ぶ。
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2月
道長の長男頼通(13)、春日祭使となる。
前年に元服した藤原頼通(よりみち)は、この年2月、13歳右少将で春日祭使となり、5日に枇杷殿(びわどの)で出立の儀(饗を設け、楽舞が行なわれ、祭使をはじめ舞人・陪従らに賜禄する)が行なわれ、ほとんどの公卿・殿上人が参集。
7日には、祭使が帰着して還饗(かえりあるじ)が行なわれた(『御堂関白記』)。
道長は公任に子を想う和歌を贈る。
「若菜つむ春日の原に雪ふれば心つかひを今日さへぞやる」

この春日使は、『栄花物語』「はつはな」冒頭にも記されている。
「二月に春日の使に立ちたまふ。殿(道長)のはじめたる初事(ういごと)に思(おぼ)されて、いといみじういそぎたたせたまふも理(ことわり)なり。よろづにかひがひしき御有様なり。何となくふくらかにてうつくうおはすれば、限りなきものにぞ見たてまつらせたまふ。春日の御供には、世に少しおぼえある四位・五位・六位、残るなく参らせたまふ。」
長男の初仕事の華麗な場となり、道長は準備に心をつくした。
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3月
・この月、鴨川の東に新しく水路を開削し、それによって鴨川の流路を変更する試み
左大臣藤原道長はその時の様子を「申の時をもって水を移す。瀧の落つるが如し。旧き流れは水行かず」と記す(『御堂関白記』同年3月10日条)。
このときの工事は、「落水」とも表現されるように、鴨川の水位よりも低い場所に別の流路を確保するもので、かなりの大事業であったと想定されるが、しかしこれは必ずしも成功しなかったらしい。
6月に、「鴨河の新堤所々破る」(同6月2日条)という記録がある。
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5月
・この月、源信は厳久の譲りにより権少僧都に任ぜられた。
翌月、道長が病気の加持のためか使いを源信のもとに送っている
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7月
・寛弘に改元。
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12月15日
・(藤原)経通朝臣(あそん)が、左衛門督(さえもんのかみ/藤原公任)の辞表を持って来た。すぐに(一条)天皇に奏上させた。中納言と左衛門督両方の辞表である。
辞表を求める事情は、右衛門督(藤原斉信)が二度の行幸の行事を奉仕したことによって加階され、左衛門督(藤原公任)の上臈となったということである。そこで、その後は内裏に参ってこない。そういう事情である。(『御堂関白記』
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寛弘2年(1005)
この年
・または翌寛弘3年、紫式部、一条天皇中宮藤原彰子のもとに女房として出仕。
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2月25日
・前帥(さきのそち)藤原朝臣(藤原伊周)の座次(ざじ)を、大臣の下、大納言の上に列するということを、外記(惟宗)行利に命じて宣旨を下させた(『御堂関白記』)。
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3月8日
・この日、中宮彰子は大原野行啓(ぎようけい)を行なう。
この大原野行啓は盛大な儀式で、仁明(にんみよう)皇太后藤原順子(じゆんし)の例をもちだしてはいるが、実質上は新儀であった。
車を輿に改め、「社頭の作法、宛(あたか)も行幸儀のごとし」「社頭の東遊(あずまあそび)並びに音楽、皆行幸の時のごとし」(「小右記」)と、行幸を模して計画されていた。
のち鎌倉時代になっても、この時の例は先例として重視されている。
皇后も立后したら自ら大原野に行啓して守護を仰ぐことが必要とされた。

この行啓について、「舞人には、たれたれ、それそれの君達などかぞへて、一の舞には、関白殿の君(頼通)とこそはせさせたまひしか」と『大鏡』下巻「雑々物語」に、「いみじうはべりし」様子が詳しく描かれている。
藤原行成が彰子の立后に際して第一の論拠としたのは大原野社祭祀の懈怠(けたい)問題であった。

安倍晴明は、この月の中宮彰子の大原野社行啓の際、反閉(へんぱい、行路の邪気を払う作法)を勤めたことを最後に記録から姿を消す。恐らく間もなく没したと考えられる。同年9月に没したとのいい伝えもある。
晴明は一説に讃岐の出身であるという。生没年は不明だが、天徳4年(960)頃、天文得業生(とくごうしよう)としてその名を見せており、以後10余年間活躍し、天文博士にもなった。
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3月27日
・一日中、大雨が降った。一宮(敦康親王)の(一条)天皇との御対面と、女一宮(脩子内親王)の御裳着の儀があった。(『御堂関白記』)
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3月29日
・この日、道長邸で作文が行なわれた。
公任は斉信に超越されて出仕しなかった時期であるが、『小右記』には「左府に於いて作文有り。属文の卿相以下文人多く会す、と云々」とある。

この3月末日に往く春を惜しむ趣向は「三月尽(さんげつじん)」と呼ばれる
紀斉名作の三月尽の詩序(『本朝文粋』)によれば、三月尽は、中国に古くはなく、唐朝になって自居易などが詩文を作って書にのせたとする。
自居易には三月晦日や送春の詩が多く、日本でも白詩の流行により平安時代以降三月尽の詩が詠まれた。
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寛弘2年(1005)4月~10月 源信が華台院で迎講を始める 安倍晴明(85)没 道長が宇治郡木幡に浄妙寺三昧堂を建立

東京 北の丸公園 ハナミズキの紅葉
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寛弘2年(1005)
4月
・『栄花物語』「はつはな」に、この年に斎院御禊と賀茂祭使になった頼通の一行を、道長が桟敷から多くの公卿らと見物する場面で、一条大路の桟敷が記される。
「殿は、一条の御桟敷の屋長々と造らせたまひて、檜皮葺(ひわだぶき)、高欄(こうらん)などいみじうをかしうせさせたまひて、この年ごろ御禊よりはじめ、祭を殿も上(倫子)も渡らせたまひて御覧ずるに、今年は使の君の御車を、世の中揺(ゆす)りていそがせたまふ。」
賀茂祭(かもまつり、4月の中酉日に行なわれる)は、天皇が上下賀茂社に幣を奉ることを中心とする。
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4月
・藤原行成筆「陣定文」が作られる。
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4月1日
礼部納言(れいほうなごん/源俊賢)が伝えて云(い)ったことには、「昨日の作文会では、外帥(藤原伊周)の詩は、句毎に感が有って、満座は涙を拭った。引出物<「馬」ということだ>が有った」と(『小右記』)
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4月2日
・前越後守朝臣(藤原尚賢)が云(い)ったことには、「一昨日、左府(藤原道長)の作文会で、外帥(藤原伊周)の詩に述懐が有りました。上下の者は涕泣しました。主人(藤原道長)は感嘆しました。引出物が有りました。・・・」と(『小右記』)。
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4月15日
・この日の陣定で、上野介橘忠範は、前例に準じて、随兵(護身の兵)20人を持つこと、押領使を兼任することを申請して許可された。

陣定の議事録を「条事定文写(じようじさだめぶみうつし)」という。
陣定の様子を記した文書が伝来することは珍しいことであるが、この文書の執筆者が三蹟の一人藤原行成であったために伝来して残された

この日の陣定では、諸国条事について議論が交わされた。
諸国条事(諸国雑事とも)とは、受領国司が任命されるとほどなく、任国の懸案事項をあらかじめ太政官に上申し、裁定を受けておくことである。
そのうちの一人、上野介橘忠範は、前例に準じて、随兵(護身の兵)20人を持つことと、押領使を兼任することを申請して許可された。
押領使とは、内乱の鎮圧や盗賊を追捕する権限を持つ者のこと。
部内の武勇に優れた者を任命する場合と、国司が兼官する二つの場合があったが、この場合は後者である。
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4月30日
・この日の昼前、蔵人の宿所(控室)に盗人が入って物色中を発見されたが、月華門から紫宸殿前の広庭に飛びこみ、そのまま突っ走って日華門・宣陽門・春華門を抜けて逃走。
内裏を西から東へ横断したが、その間、門を守っている近衛も兵衛も何ら手を下さず叱責される。
2日後、こ盗人が右近という前掌侍の家に隠れているとの噂があり、家宅捜索を行なったが発見できなかったという。
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5月
・この月、仏師康尚、中宮彰子の御諷誦(ふじゆ)の時に金色薬師・十一両観音・彩色不動を造り始める。
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7月21日
・左金吾(藤原公任)が辞表の草案を送られた。すぐに見終わって、返送したのである。
左頭(源頼定)が内裏から伝え送って云ったことには、「今日、左衛門督(藤原公任)が上表を行いました。すぐに返給されました。次いで従二位に叙されました。この上表の使は右中弁(藤原)経通です」と云うことだ。悦びながら事情を伝えた(『小右記』)。
・天皇は、左衛門督(公任)の辞表を返却なされた際に、一階を賜った。仰せ詞に云われるには、「去年の十月以降、左衛門督は内裏に参ってこない。きっと思うところが有るのであろうか。そこで一階を賜う。早く参って政務に従事せよ」と。
これは朝議による叙位ではないのであるが、人を採用するために行ったものである。そこで、この叙位を行われた。左衛門督(藤原公任)は、夜に入って、慶賀を申すために内裏に参り、また、私(藤原道長)の許にも来られた(『御堂関白記』)。
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9月
・この月、源信は『往生要集』の新写本の作成を行成に依頼。のちの無量寿院の建立へつながっていく。
年末、在任1年半ほどで権少僧都を辞し、横川に籠り、華台院において迎講(むかえこう)を始める
童子たちが菩薩聖衆に美しく扮し、音楽や念仏に合わせて、西の華台院の阿弥陀像へ人々を導くという、来迎行道のパレードである。
来迎を絵画化でなく劇化したもので、今日でも練供養(ねりくよう)と称され、当麻寺や泉涌寺即成院などで行なわれている。
また華台院の丈六阿弥陀は、仏師康尚が造ったものであり、定朝にいたる仏像彫刻に与えた源信の影響も大きかったらしい。

かくして晩年の源信は地位や栄誉と無縁の生活を送り、『源氏物語』宇治十帖には、宇治川に身を投げた浮舟を救い祈る「横川の僧都」というイメージで登場する。
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9月26日
・安倍晴明(85)没
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10月
・道長、宇治郡木幡(こばた)に浄妙寺三昧堂を建立
道長は、前年に建立の地を定め、この年、藤原行成に鐘銘(大江匡衡作)を書かせ9月28日に鐘を鋳造。10月18日、行成は道長の命で南門と西門にかける浄妙寺額2枚を書し、後中書王具平(のちのちゆうしよおうともひら)親王が供養経の外題(がいだい)を書している。

19日供養当日には、昼のような月あかりの中、寅刻に出発、巳刻に鐘を打ち、「鐘の声、思ふがごとし」と道長は満足している。
藤原氏の公卿のほとんどが参会し、天台座主覚慶を証者、前大僧正観修を導師とし、供養僧百人という大規模な供養であった。
この日の願文と呪願文は式部大輔大江匡衡と菅原輔正が作り、藤原行成が書したもの、堂の仏像(普賢菩薩)を造ったのは仏師康尚であり、当時のオールスターキャストであった。
とくに匡衡の「左大臣の為に浄妙寺を供養する願文」は、当代を代表する博文作品として『本朝文粋』にも収められている。

木幡は、四神相応(ししんそうおう)の勝地(しようち)で、基経以来藤原氏の墓地であり、道長は、その供養の願文(がんもん)によれば、若いころから父兼家に従ってしばしば木幡の地を訪れ、その荒廃をみて涙を流したという。

『栄花物語』「うたがひ」には道長の思いとして、三昧堂建立の願意をのべている。
「いづれの人も、あるは先祖の建てたまへる堂にてこそ、忌日にも説経・説法もしたまふめれ。真実の御身を斂(おさ)められたまへるこの山には、ただ標(しるし)ばかりの石の卒都婆(そとば)一本ばかり立てれば、また詣(まい)り寄る人もなし。これいと本意(ほい)なきことなり」
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