2025年2月25日火曜日

大杉栄とその時代年表(417) 〈子規没後の子規山脈②〉 「次に其男がこんな事を云ひ出した。子規は果物が大変好きだった。且ついくらでも食へる男だった。ある時大きな樽柿を十六食った事がある。それで何ともなかった。自分杯は到底子規の真似は出来ない。 - 三四郎は笑って聞いてゐた。けれども子規の話丈には興味がある様な気がした。」(漱石『三四郎』)

 


大杉栄とその時代年表(416) 〈子規没後の子規山脈①〉 「憐れなる子規は余が通信を待ち暮らしつつ、待ち暮らした甲斐もなく呼吸を引き取ったのである。・・・余は子規に対して此気の毒を晴らさないうちに、とうとう彼を殺して仕舞しまった。」(漱石『吾輩は猫である』中篇自序) より続く


〈子規没後の子規山脈②〉

□談話「正岡子規」

「明治四十一年九月十九日は子規の七回忌に当たるので、「ホトトギス」は九月発行の第十一巻第十二号を「子規居士七回忌号」とし、漱石の談話「正岡子規」を掲載した。

これがその後、漱石の子規像の一つになるわけだが、・・・・・。この頃漱石は前年の朝日入社第一作『虞美人草』、第二作『坑夫』 に続いて第三作『三四郎』の連載を九月から開始する予定で、構想を練っている最中であった。そんな忙しい時期だったので漱石はおそらく資料を十分に準備する暇もなく、思いつくまま話したと思うが、なかなか巧みに子規の人間像を捉えている。よく知られている話ばかりだが、二、三紹介しておこう。


彼は僕などより早熟でいやに哲学などを振り廻すものだから僕などは恐れを為してゐた。(略)彼はハルトマンの哲学書か何かを持込み、大分振り廻してゐた。尤も厚い独逸書で、外国にゐる加藤恒忠氏に送って貰ったものでろくに読めもせぬものを頻りにひつくりかへしてゐた。幼稚な正岡が其を振り廻すのに恐れを為してゐた程こちらは愈ミ幼稚なものであった。


何でも大将にならなけりや承知しない男であった。二人で道を歩いてゐても、きつと自分の思ふ通りに僕をひっぼり廻したものだ。尤も僕もぐうたらであって、こちらへ行かうと彼がいふと其通りにして居った為であったらう。


一時正岡が易を立てゝやるといって:これも頼みもしないのに占ってくれた。畳一畳位の長さの巻紙に何か書いて来た。何でも僕は教育家になって何うとかするといふ事が書いてあって、外に女の事も何か書いてあった。これは冷かしであった。一体正岡は無暗に手紙をよこした男で、それに対する分量は、こちらからも遣った。今は残ってゐないが、孰れも愚なものであったに相違ない。」(『子規断章』)


□漱石『三四郎』と子規

漱石は、『三四郎』に子規を登場させる。三四郎が熊本から上京する車中で、同乗の男と男が買った果物を挟んで対話する。男は、唐突に話し出す。


「次に其男がこんな事を云ひ出した。子規は果物が大変好きだった。且ついくらでも食へる男だった。ある時大きな樽柿を十六食った事がある。それで何ともなかった。自分杯は到底子規の真似は出来ない。 - 三四郎は笑って聞いてゐた。けれども子規の話丈には興味がある様な気がした。」


そこへ漱石が果物の話にかこつけて、いきなり子規を登場させたのである。それは、漱石が「ホトトギス」で子規のことを話したように、朝日の読者にも子規のことを話しておきたかったのにちがいない。あれだけ親しかった友人たったのに留学中で死に目にも会えなかったし、懇願されていたのに「倫敦消息」の続篇を普くという責めも果たさなかった。こうした自責や悔悟の念もあって、ここで唐突とも取られかねないほど不自然な形で、子規を登場させたのであろう。『三四郎』の連載は明治四十一年の九月一日から始まったが、ページ数から勘定すると子規の話が出てくるのは九月五、六日頃で、子規の七回忌の十日程前であった。」(日下徳一『子規断章』)


「九州から出て来た三四郎が最初に親しくなったのは、専門学校を出て選科にはいった佐々木与次郎という同級生であった。・・・・・。

田舎出で純朴な三四郎は毎日学校へ律義に通って講義を聴いていたが、一か月たってもなぜか学校にも東京にも物足りない。そのことを与次郎に打ち明けると、外へ出て電車に乗って東京中をぐるぐる回るのが一番だと教えてくれた。

(略)

このあたりの与次郎は、漱石が「ホトトギス」の「正岡子規」で語った子規そっくりで、初な三四郎は若き日の漱石である。

(略)

さて、与次郎が兄貴ぶって三四郎を連れ回すのは入学直後だけで、やがて与次郎から子規らしい面影は薄れ、ただの軽率な世話好きの男として描かれている。・・・・・

(略)

・・・・・一般の読者にとってこの中にときどき子規の影がちらついているのに気づくことはまず無い。漱石没後『漱石全集』を編集し、漱石研究に専心した小宮豊隆でさえ、そのことにふれるのは『三四郎』が書かれて半世紀近くたった昭和二十八年に、『夏目漱石』を出した時からであった。小宮はその中で《全体として三四郎』の上に、ほのかなる哀愁が漂ってゐるのも、子規に対する追憶と当時の自分自身に対する追憶とが一つになって、漱石にさういぶ気特を用意したものかも知れない。》と初めて子規の存在をはっきりさせた。(日下徳一『子規断章』)

□漱石「子規の畫」


「「子規の畫」は明治四十四年七月四日の朝日新聞に掲載されたもので、「畫」とは明治三十三年六月中旬、子規が熊本にいる漱石に送ったあづま菊の畫のことだ。子規はこの年の春頃から畫を描くのが面白くなり、漱石の長女華子の初節句に三人官女を贈る時にも、


……此項ハ何もせずに絵をかき居候 それが又非常に面白いのでいよいよ外の者がいやになり候一枚見本さしあげんかとも存候へど大事の秘蔵の畫を割愛して却て笑はれるのも引き合はずと其まゝ秘蔵、ひとりながめて楽居候        (明治三十三年三月三日付)


と畫をかく楽しさを吹聴している。そして六月の中旬には前にもふれたように、あづま菊の畫を一枚漱石に送った。

漱石はたった一枚しか持っていないこの子規の畫を、散佚させてはいけないと思い後に表装させた。畫だけでは淋しいので、それを挟んで上と下に手紙を入れ三つを一纏にして懸物にしだ。上の手紙は明治三十年九月六日、熊本に発つ漱石に送った《秋雨蕭々》で始まる漢詩のような短い手紙。下は《僕ハモーダメニナツテシマッタ》で始まる、例の子規最後の手紙であった。

漱石はこの懸物を時折壁に掛けて眺めた。


……眺めて見ると如何にも淋しい感じがする。色は花と茎と葉と硝子の瓶とを合せて僅に三色しか使ってない。花は開いたのが一輪に蕾が二つだけである。……


束菊によって代表された子規の畫は、拙(まず)くて且真面目である。才を呵(か)して直ちに章をなす彼の文筆が、絵の具皿に浸ると同時に、忽ち堅くなって、穂先の運行がねっとり竦(すく)んで仕舞ったのかと思ふと、余は微笑を禁じ得ないのである。……


子規は人間として、又文学者として、最も「拙」の欠乏した男であった。……彼の歿後殆ど十年にならうとする今日、彼のわざわざ余の為に描いた一輪の東菊の中に、確に此一拙字を認める事の出来たのは、其結果が余をして失笑せしむると、感服せしむるとに論なく、余に取っては多大の興味がある。たゞ畫が如何にも淋しい。出来得るならば、子規に此拙な所をもう少し雄大に発揮させて、淋しさの償としたかつた。        (「子規の蓮」)


これは漱石が子規の畫を貶しているのではない。寸分の狂いもなく巧みに描かれたものより、どこか「拙」のある方が漱石の美学にかなうのである。・・・・・"

(略)

「拙を守る」とは陶淵明の詩「拙を守って園田に帰る」から来ていて、世渡りの下手に甘んじ、利巧に立ち回れない男のことをいう。事実、陶淵明は「帰去来辞」にあるように江西省のある県の長官だった時、上官に媚びることを潔しとせず、職を辞して郷里に帰り酒と菊を愛して悠々自適の生活を送った。漱石は『草枕』(明治三十九年)の中でも、


世間には説を守ると云ふ人がある。此人が来世に生れ変ると吃度木瓜になる。余も木瓜になりたい。


と主人公の画家に言わせている。画家は漱石とみていい。そう言えば、『吾輩は猫である』の苦沙弼先生や『三四郎』の廣田先生も守拙派であるともいえる。

(略)

子規もまた漱石から見れば説を守る男であった。「拙」なるが故に世間の常識とは逆に芭蕉顰蹙より蕪村を高く評価したり、保守派の歌人の顰蹙を買うのを承知の上で「歌よみに与ふる書」を書いて短歌革新を試みたりする。漱石はこうした説に生きる癖に、《妙に気位が高かつたり》《何でも大将にならなけりや承知しない》(談話「正岡子規」)俗なところのある子規が好きであった。

それだけに漱石は畫だけでなく文学においても、《出来得るならば、子規に此拙な所をもう少し雄大に発揮》してもらいたかったが、子規は志半ばで世を去ってしまった。漱石はこの「子親の畫」を見るたび、それが残念でならない。」(日下徳一『子規断章』)


つづく


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