〈子規没後の子規山脈③〉
□漱石「京に着ける夕」と子規との思い出
「明治四十年四月、朝日新聞社に入社した漱石は入社第一作ともいうべき「京に着ける夕」を四月九日から三日間、大阪朝日に連載した。おそらく新聞社から要請されたのは、一か月程遅れて東京朝日に掲載したような「入社の辞」であったにちがいない。しかし漱石の書いたのは「入社の辞」から程遠いエッセーであった。」(『子規断章』)
「始めて京都に来たのは十五六年の昔である。その時は正岡子規といっしょであった。麩屋町の柊屋(ひいらぎや)とか云う家へ着いて、子規と共に京都の夜を見物に出たとき、始めて余の目に映ったのは、この赤いぜんざいの大提灯である。この大提灯を見て、余は何故(なにゆえ)かこれが京都だなと感じたぎり、明治四十年の今日に至るまでけっして動かない。ぜんざいは京都で、京都はぜんざいであるとは余が当時に受けた第一印象でまた最後の印象である。子規は死んだ。余はいまだに、ぜんざいを食った事がない。実はぜんざいの何物たるかをさえ弁(わきま)えぬ。汁粉(しるこ)であるか煮小豆(ゆであずき)であるか眼前に髣髴する材料もないのに、あの赤い下品な肉太な字を見ると、京都を稲妻の迅(すみや)かなる閃(ひらめ)きのうちに思い出す。同時に――ああ子規は死んでしまった。糸瓜(へちま)のごとく干枯(ひから)びて死んでしまった。――提灯はいまだに暗い軒下にぶらぶらしている。余は寒い首を縮ちぢめて京都を南から北へ抜ける。
(略)
子規と来たときはかように寒くはなかった。子規はセル、余はフランネルの制服を着て得意に人通りの多い所を歩行(ある)いた事を記憶している。その時子規はどこからか夏蜜柑を買うて来て、これを一つ食えと云って余に渡した。余は夏蜜柑の皮を剥むいて、一房ひとふさごとに裂いては噛かみ、裂いては噛んで、あてどもなくさまようていると、いつの間まにやら幅一間ぐらいの小路(しょうじに)出た。この小路の左右に並ぶ家には門並(かどなみ)方一尺ばかりの穴を戸にあけてある。そうしてその穴の中から、もしもしと云う声がする。始めは偶然だと思うていたが行くほどに、穴のあるほどに、申し合せたように、左右の穴からもしもしと云う。知らぬ顔をして行き過ぎると穴から手を出して捕えそうに烈しい呼び方をする。子規を顧りみて何だと聞くと妓楼だと答えた。余は夏蜜柑を食いながら、目分量で一間幅の道路を中央から等分して、その等分した線の上を、綱渡りをする気分で、不偏不党に練って行った。穴から手を出して制服の尻でも捕まえられては容易ならんと思ったからである。子規は笑っていた。膝掛をとられて顫ふるえている今の余を見たら、子規はまた笑うであろう。しかし死んだものは笑いたくても、顫えているものは笑われたくても、相談にはならん。
(略)
子規と来て、ぜんざいと京都を同じものと思ったのはもう十五六年の昔になる。夏の夜よの月円(まる)きに乗じて、清水の堂を徘徊して、明(あきら)かならぬ夜の色をゆかしきもののように、遠く眼(まなこ)を微茫(びぼう)の底に放って、幾点の紅灯(こうとう)に夢のごとく柔やわらかなる空想を縦(ほしい)ままに酔(え)わしめたるは、制服の釦の真鍮と知りつつも、黄金と強いたる時代である。真鍮は真鍮と悟ったとき、われらは制服を捨てて赤裸(まるはだか)のまま世の中へ飛び出した。子規は血を嘔(は)いて新聞屋となる、余は尻を端折(はしょ)って西国へ出奔する。御互の世は御互に物騒になった。物騒の極(きよく)子規はとうとう骨になった。その骨も今は腐れつつある。子規の骨が腐れつつある今日に至って、よもや、漱石が教師をやめて新聞屋になろうとは思わなかったろう。漱石が教師をやめて、寒い京都へ遊びに来たと聞いたら、円山へ登った時を思い出しはせぬかと云うだろう。新聞屋になって、糺(ただす)の森(もり)の奥に、哲学者と、禅居士と、若い坊主頭と、古い坊主頭と、いっしょに、ひっそり閑(かん)と暮しておると聞いたら、それはと驚くだろう。やっぱり気取っているんだと冷笑するかも知れぬ。子規は冷笑が好きな男であった。
(後略)」
□虚子と碧梧桐
「子親没後、虚子が「ホトトギス」を受け継ぎ、碧梧桐は新聞「日本」の選者を継承した。この事が、虚子と碧梧桐の俳句上の対立の元となったといわれる事があるが、妥当な棲み分けであった。「ホトトギス」は、虚子が子規と図って兄に資金援助を乞い松山から東京に移したものだ。一方、碧梧桐は明治二十八年、子規の日清戦争従軍中「日本」俳句欄の代選をしており、一時は日本新聞社の記者だったこともある。・・・
(略)
ところで虚子と碧梧桐の対立は周知のように、
温泉の宿に馬の子飼へり蝿の声
など「温泉百旬」を碧梧桐が明治三十六年九月の「ホトトギス」に発表しだのに対して、虚子が翌月号で《「馬の子」といぶとむしろ可愛らしく無邪気な感じがして「蝿の声」の調和が悪い》と批評したのに端を発している。この二人の「温泉百句」論争は日本の俳壇史に残る程有名なもので諸説紛々だが、加藤加藤楸邨いうように《この碧虚の論争そのものはさしたることでなさそうに見えるが、子規没後の俳句界が、中軸をなす支えを失って、大きく碧・虚二派に分れてゆく契機をなすものと言ってよい》(『日本の詩歌』)というあたりが妥当な評価であろう。
やがて碧梧桐は小沢碧童、大須賀乙字らと句会「俳三昧」を起こして碧派を作り、明治三十九年からは大規模ないわゆる全国三千里の旅を企て、新傾向俳句運動を推し進める。一方、虚子は「ホトトギス」発刊十周年を迎えた明治四十年から、漱石の刺戦もあり創作活動に力を入れ、「風流戯法」「斑鳩物語」「俳譜師」「続俳譜師」などを次々に世に問うのである。
ところで俳壇に大旋風を巻き起こした新傾向俳句も、荻原井泉水の離脱などがあって次第に分裂、対立を繰り返すようになった。虚子はここ数年、小説家としての活動が忙しく、国民新聞や毎日新聞の読者を喜ばせたが、肝心の「ホトトギス」の方は部数が減るばかりである。そこで虚子は意を決して、小説よりも俳句に力を注ぐことにし、明治四十五年(大正元年)七月から雑詠欄を再開した。・・・
(略)
・・・やがて新傾向俳句も凋落し俳壇を引退した碧梧桐は失意のうちに、腸チフスのため昭和十二年一百一日、六十五歳で急逝した。」(『子規断章』)
「(虚子と)碧梧桐とは俳句の立場での対立は終生解けぬままだったが、日常の交際までいっさい絶ったわけではない。・・・・・
大正五年に『碧梧桐句集』を出す時には虚子は自分の経営する俳書堂から出しているし、大正六年、内藤鳴雪の古希祝賀能が催された時は「自然居士」で虚子がシテ、碧梧桐がワキと仲よく演じている。碧梧桐も昭和十一年に虚子がヨーロッパに外遊する時には横浜港まで見送って、虚子に外遊中の注意をこまごま与えた。碧梧桐は大正九年末から一年ほどかけてヨーロッパ、アメリカを回っているので外遊については先輩だった。また子規の三十三回忌では、碧梧桐は虚子を立てて自分より先に焼香させるという気くばりも忘れなかった。
子沢山だった虚子に較べて、碧梧桐は子宝に恵まれず義兄、青木月斗の三女美夫子を養女に迎えたが女学校時代に亡くすなど、家庭的には不幸だった。また俳句の世界でも一時は新傾向俳句を率いて時代の寵児となったが、やがて凋落し昭和七年には六十歳で俳壇を引退するなど、決して幸福とはいえなかった。
しかし没する前年の昭和十一年十二月には、昔の門弟たちの援助もあって念願の自分の家を持つことができた。その喜びも束の間、翌年一月二十二日、新居披露の祝宴を盛大におこなった翌日、腸チフスにかかり入院、三十日には危篤に陥った。このことをラジオのニュースで知った虚子はただちに病院へ駆けつけた。まだ意識があって、ふたことみこと言葉を交わすことができたが、翌二月一日、碧梧桐は六十五歳の生涯を閉じた。
虚子は三月発行の「ホトトギス」に、「碧棺桶とはよく親しみよく争ひたり」と前書きして、
たとふれば独楽のはぢける如くなり
と詠んでその死を悼んだ。」(『子規断章』)
「ところで虚子に文化勲章が授与されたのは昭和二十九年十一月三日、八十歳の時であった。これは昭和十二年に新たに創設された芸術院会員に推されたとはいえ、虚子の成し遂げた業績からいっていささか遅過ぎた感がないでもない。同じ十二年に創設された文化勲章も既に十七年もたち、歌人では佐佐木信綱、斎藤茂吉、詩人では土井晩翠が受章しているのに、俳人からは一人も受章者が出ていない。・・・・・
(略)
虚子はこの受章に力づけられたかのように、翌昭和三十年四月から朝日新聞の「朝日俳壇」の選者となり、同時に「虚子俳話」の連載も開始した。現在の「朝日俳壇」は四人の選者による共選だが、虚子はひとりでおびただしい応募句の選をし句評も書いた。これは遥か以前に、子規が新聞「日本」でやっていた通りであった。
虚子が鎌倉の虚子庵で、脳幹出血がもとで八十五歳で浸したのは昭和三十四年四月八日午後四時である。それは子規没後五十七年後のことで、もはや生前の子規を知る者は極めて稀であった。」(『子規断章』)
つづく
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