11月4日
黄興・宗教仁・陳天華ら、反満革命の団体華興会結成(長沙)。
11月5日
鴎外『大戦学理』(クラウゼヴィッツの兵書の訳本)発行。鴎外の卓越した学識や見識に山縣有朋が注目する。
鴎外は明治21年(1888)のドイツ留学時代にクラウゼヴィッツの兵書の研究をしており、第12師団軍医部長としての小倉赴任後もその「講筵」を開いていた。
11月6日
海軍工廠条例公布。従来の海軍造船廠と海軍造兵廠を統一し、横須賀・佐世保・呉に設置。
11月6日
今日出海、誕生。
11月6日
アメリカ、コロンビアからの独立を宣言したパナマ共和国を承認。
11月7日
(漱石)
「十一月七日(土)、曇。午後一時三十分から、東京帝国大学文科大学第三十番教室で、「帝国大学文学会第一回公開講義」催される。姉崎嘲風(正治)「ワグナーの恋愛観」・幸田露伴(成行)「日本文学の滑稽の一面」の講演あり。恋愛を中心とした文芸批評盛んになる。漱石は一言も言及しない。
十一月九日(月)、晴。東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。午後一時から三時まで Macbeth を講義する。
十一月十日(火)、晴。東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Macbeth を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。
十一月十二日(木)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Macbeth を講義する。
十一月中旬(推定)(日不詳、寺田寅彦来る。」(荒正人、前掲書)
11月10日
東京府下の新聞が聯合して「東京市内新聞雑誌通信諸社有志時局問題聯合懇話会」を帝国ホテルで開催し、新聞界は開戦論で統一する動きとなる。
「萬朝報」よりも長く反戦論を主張していた島田三郎の「毎日新聞」も翌11日より開戦論に変わる。
11月11日
『毎日新聞』11月11日「東洋運命の転機」は、「日韓清三国の安危四億五千万人権の消長、東洋後来の運命皆之に繋れり、嗚呼日本帝国の責任、豈亦至大ならずや」と、日露戦争には「東洋の運命」がかかっていると述べる。
11月12日
黒岩涙香(41)・島田三郎(50)・田口卯吉(48)ら、横浜賑町・喜楽座での対露同志記者演説会で講演。
11月12日
姫路平野で陸軍大演習。3万余参加。
11月15日
『毎日新聞』11月15日「一日を緩ふするは一日の不利 実力を背にして解決せよ」に見えるように、開戦論を唱えた新聞各紙が、いずれも一日でも早い開戦を行なうことが日本に有利であると主張。
11月15日
平民社設立
幸徳秋水(33)・堺利彦(34)、現在の有楽町マリオンの斜め前あたりの東京市麹町区有楽町三丁目二番地の借家に「平民社」を設立(1階に秋水らが住み、2階が事務所として使われた)。
週刊「平民新聞」創刊(編集発行人堺)。社員はほかに山根吾一、柿内武次郎の計4名。間もなく山根は、片山潜渡米の留守居役として『社会主義』の編集責任者となる。秋水の妻の千代子も実質的な会計役を務めている。
11月29日には朝報社を辞めた石川三四郎、翌明治37年1月3日には『二六新報』を辞めた西川光次郎が入社。事務は神崎順一、広告は熊谷千代三郎が担当。
①小島龍太郎が新聞保証金1千円寄附、②加藤病院長加藤時次郎が当初の創業費750円を貸与、
③10月20日夜の社会主義協会主催非戦論大演説会(中央公会堂)収益金32円余寄附、
④社会主義協会員岡千代彦・幸内久太郎・斎藤兼次郎らの事務応援。
小島龍太郎は中江兆民の古くからの友人で衆議院書記官などを務めていたが、兆民が1901年に没した後は、その愛弟子である幸徳秋水への支援を惜しまなかった。
週刊『平民新聞』の編集人と発行人を決める際、幸徳秋水は病弱な上、老母も抱えているという理由で、堺は自分が発行兼編集人として署名し、予想される弾圧の矢面に進んで立とうとした。秋水は最初、堺の申し出に応じず、論説を執筆する立場上、自分が発行兼編集人になって責任を取ろうとしたが、堺が苦心して秋水を説得したという(師岡千代子の証言)。
堺は『平民新聞』の発行兼編集人になったが、予期した通り、秋水が書いた論説がもとで新聞紙条例違反に問われ、社会主義者として初めて入獄する。
堺利彦と幸徳秋水は10月27日に警視庁に届けを済ませ、月末には新聞広告を出し、すぐに週刊『平民新聞』編集に取りかかる。
11月15日発刊の創刊号は12ページ、第2号と第8号は10ページだが、それ以外の号は8ページ。サイズはほぼタブロイド判で5段組、発行日は毎週日曜日。
第1号1面トップには、たいまつのカットと「平民社同人」と署名した「宣言」が掲げられた。
一、自由、平等、博愛は人類世に在る所以の三大要義也。
一、吾人は人類の自由を完(まつた)からしめんがために平民主義を奉持す、故に門閥の高下、財産の多寡、男女の別より生ずる階級を打破し、一切の圧制束縛を除去せんことを欲す。
一、吾人は人類をして博愛の道を尽さしめんが為めに平和主義を唱道す。故に人種の区別、政体の異同を問わず、世界を挙げて軍備を撤去し、戦争を禁絶せんことを期す。
一、吾人既に多数人類の完全なる自由、平等、博愛を以て理想とす。故に之を実現するの手段も、亦た国法の許す範囲に於て多数人類の一致協同を得るに在らざる可らず、夫の暴力に訴へて快を一時に取るが如きは、吾人絶対に之を非認す。
伊藤銀月が、『平民新聞』創刊号に「枯川と秋水」という酒脱な人物評を書く。
「事の経営に於ては枯川亭主役にして秋水女房役、一旦筆を執るに至れば秋水亭主役にして枯川女房役、語を換へしめよ、内に於ては枯川の旦那に秋水の細君、外に向つては秋水の主人粟枯川の夫人。此の配合は世を終る迄両者の相離るゝを許さず、或は切つても切れぬ腐れ縁の種類歟
枯川の社会主義は趣味七分に理論三分、秋水の社会主義は理論六分に趣味四分。此厳密なる数字的差異、恐らく両者自身も未だ算し到らじ
枯川の文を解剖すれば、洋文素四、和文素四、漢文素二、併せて十。秋水の文を解剖すれば、洋文素四、漢文素四、和文素二、併せて十
秋水の想を解剖すれば、科学素五、純文学素三、哲学素二、枯川の想を解剖すれば、純文学素六、科学素三、哲学素一、秋水を社会主義の団子を円める人にして枯川は其餡(あん)を煮る人也(中略)
秋水と共に人を殺し人を活かすことを謀るぺく、枯川と共に人を医し人を育することを謀るぺし、我れ幸に友あり
枯川は飽迄(あくまで)枯川たれ、秋水は何処迄(どこまで)も秋水たれ」
寄稿者:安部磯雄、木下尚江、片山潜、金子喜一(在米)、村井知至、斯波貞吉、田岡嶺雲、斎藤緑雨、細野猪太郎、久津見蕨村、杉松楚人冠、伊藤銀月、加藤汀月、小島三申、白柳秀湖、山口孤剣。挿絵(平福百穂、間もなく小川芋銭)。
新宮の大石誠之助はや早い時期からの支援者で投稿も始める。
第3号から「予は如何にして社会主義者となりし乎」という記事が連載
英文欄は、斯波貞吉(創刊号~第10号)、安部磯雄(第11号~終刊号)が担当。創刊号は斯波貞吉「ドイツ社会党大会」。9月10日ドレスデンの大会。ベーベルとベルンシュタインの闘いと改良派の敗北。
「創刊号の他のどの記事よりも興味と教訓に富んでいたのは、斯波貞吉「ドイツ社会党大会」の記事であった。斯波は『萬朝報』の堺や幸徳の同僚であったし、社会主義演説会にも出たことがあり、後に山路愛山と国家社会党を組織した。平民社の同情者の一人で、創刊号から第十号までの英文欄を担当した。」(荒畑)
「その期間の『平民新聞』の主要な記事は、創刊号から八回にわたって連載された安部の「社会主義の運命を決すべき問題」である。安部は経済界におけるトラストの趨勢、都市における市有事業の発達、ドイツにおける社会民主党の投票増加、ニュージーランドにおける社会政策の進歩等を引例して、これらがいずれも社会主義実現の大勢を示唆するものであると論証した。」(荒畑)
つづく
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