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1903(明治36)年
12月11日
駐日ロシア公使ローゼン、日本の10月30日提出の日露交渉「確定修正案」に対して修正案提示。
曾禰蔵相は、結局は戦争不可能、屈辱的和平に向かうだろうと漏らす(『高橋是清自伝』)。
12月12日
海相山本権兵衛大将、各艦隊修理を急がせるよう下命。軍令部長伊集院五郎中将、常備艦隊司令長官東郷平八郎中将に艦内の和炭貯蔵量を2昼夜分にしておくよう指示(臨戦準備の示達)。
12月12日
小津安二郎、誕生。
12月13日
英軍、チベット侵入。
12月14日
(漱石)
「十二月中旬から下旬にかけて、子供たち、「もういくつ寐ると御正月」とか「旦那の嫌ひな大晦日」と繰り返し歌う。(『道草』九十四)
十二月十四日(月)、晴。東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。午後一時から三時まで Macbeth を講裁する。
十二月十五日(火)、雨。東京帝国大学文科大学で、午前十時から Macbeth を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。」(荒正人、前掲書)
12月15日
中国、対俄(露)同志会の蔡元培ら、『俄事警聞』発刊。
12月15日
東京市街鉄道、品川~上野間営業開始
12月15日
池辺三山「非協商論」(「東京朝日」)、19日付「続非協商論」(「同」)。
「吾人は最初よりして眼前の事件に対して、即ち露清に於ける満州還付条約の条件に対して、即ち露国の侵略行為の其端を発したるに対して、我日本が有力なる強制的干渉手段を執行するを適当と思惟したり」、「当局者よ。請ふ協商手段を捨てよ」。
三山の憤りは、遼東半島を還付しなければならなかった弱小国日本国民の憤りに焦点を合わせている。
「(露国は)支那帝国に対し、正当の権利を行ひたるものと為せり。而して満州還付を以て支那帝国に対する恩恵と為せり、而して此恩恵を増減するを以て露国の自由と為せり。此自由が満州還付条約決裂の理由となるならば、去明治二十八年の日本の遼東半島還付条約も亦自由に決裂するを得べし。日本が正当の権利を以て、更に条約上の権利を以て、支那政府の任意の承諾を以て、我版図に編入したる遼東の土地を、其儘支那帝国に還付したるは、日本の恩恵なるを以てなり。而して露国人の論法を以てすれば、此恩恵を事後に増減するも亦日本の自由なればなり。両も日本は国際上の理由として之を主張せざると同時に、亦之を実行するを敢てせず。之を敢てせざると同時に、他の之を主張し之を敢てするものを承認せず。此の如きのみ。豈他あらんや」。
12月15日
松尾臣善日銀総裁、私用にかこつけて大阪に向かい、財界の主要人物たちと面談して、安心感を与えるように努める。
12月16日
首相官邸で緊急会議。午前11時から夕食後迄続く。陸海軍首脳、元老など。「日露戦争」不可避で一致。参謀次長児玉中将は、戦備不充分のため開戦時期の引延ばしを要望。
「児玉希望の如く、外交断絶前に多少の時間を必要とすれば、却(かへつ)て優柔不断之態度を表示し・・・力(つと)めて沈静を装(よそほ)ふの必要あり」
そのためには、御前会議のような「耳目を聳動(しようどう)」させるようなことは避け、同時に、列国にたいする「公宣」活動を強化して、「徐々我の決心を内外に明白」にするがよい。
つまり、「兵ハ声ヲ先ニセズ、実ヲ秘スルニ在り」だ、と、伊藤元老は強調し、一座は賛意を表明した。
12月16日
落合直文(43)、没。前夜、「与謝野に年を越す銭があろうか」と気遣う。鉄幹(31)、門生総代として弔辞。葬式に連なった人の数は300人に達し、教育者として34年の福沢諭吉の葬式以来の盛儀と言われた。
落合直文 ;
旧名は鮎貝亀次郎盛光。文久元年(1861)陸前国松岩(宮城県)に仙台藩伊達家の筆頭家老鮎貝盛房の次男として生れる。11歳の頃、仙台に出て平田派国学者落合直亮の養子となる。養父が伊勢神官教院の教師であったため彼もその学校に学ぶ。明治15年、東京大学内に開設された古典講習科国書課に官費生として入学、彼は同期生の中でも第一の秀才と目された。23歳で養家の次女と結婚(長女は早世)。3年の兵役後、皇典講究所の教師となる。在営中に井上哲次郎の漢詩を翻案して作った長篇新体詩「孝女白菊の歌」(「東洋学会雑誌」発表)は一世を風靡した。
明治23年、井上義象・萩野由之らと古典の代表的作品の復刻「日本文学全集」を博文館より刊行。
彼は分り易く印象の明確な歌を作る点で明治20年代の新歌壇の先駆者であった。
落合直文が第一高等中学校で「源氏物語」「枕草子」「万葉集」「古今集」などを講義するときは、その教室はいつも満員で、その講義が好評であったため、彼は方々の学校から依頼され、幾つもの学校で掛け持ちの講義をするようになった。
明治26年、彼が本郷区駒込浅嘉町に住みはじめた頃から、第一高等中学校などの講義に惹き付けられた青年たちが出入りするようになり、この年、浅香社を設立すると多くの門人が集まった。尾上柴舟、大町桂月、武島羽衣、新村出、与謝野寛、鮎貝槐園(実弟)ら。
明治26年、鉄幹を創刊したばかりの「二六新聞」に入社させ、その紙上に浅香社の歌論や詠草を発表させた。
29年、落合家の親戚に当る三樹一平とその友鈴木友三郎が出版書肆明治書院を創業すると、彼は援助の手を伸ばし、自分の主宰する雑誌「国文学」をそこから刊行した。また与謝野寛の詩歌集「東西南北」に序文を書いて明治書院から出版させた。
明治33年、鉄幹が雑誌「明星」を創刊すると、彼は惜しみない援助をし、監修の協力や歌文を寄稿した。
「明星」創刊の頃から、落合直文(40歳)は自分の立場を、学者・指導者というものに限定し、色々な弟子たちのオ能をできる限り伸ばしてやることに情熱を集中するようになっていた。彼は生来頑健であったが、幾つもの学校で講義を持ち、旅行をし、国語辞典「言泉」の編纂をし、結社の指導をするという、極めて多忙な生活をしているうちに、漸くその頃から健康を害しはじめた。
「言泉」を出版した明治31年、彼は糖尿病になったが、食餌制限をながら働いたので、翌明治32年には胸を患うようになった。
その後2~3年は小田原や千葉県北条海岸、静岡県興津海岸、茅ヶ崎などで療養生活をした。しかし病が多少治ると、また国学院や国語伝習所に出た外に、依頼されるまま外国語学校、明治大学、中央大学等に講義に出ていたから、病気は一進一退ではかばかしく治らなかった。
明治36年春、直文は神田駿河台の高田病院に入院していた。
3月、実母の鮎貝俊が危篤になり、直文は医師の止めるのも聴かず、宮城県本吉郡松岩村の実家に行くが、母の死に目に逢うことができなかった。東京に帰ると、今度は岐阜にいる末弟の壱岐寅之進が病気とのことで、そこへ出かけた。そのため彼の病はまた悪化した。
5月頃、病状がいくらか快復すると、彼はまた国語伝習所などの講義に出るようになった。
7月~9月半ば、千葉県長者町に療養したが、東京に戻った後の10月半ば、風邪気味で床につくと急に病状が悪化した。
12月になると容態はいよいよ悪化し、12月7日には直文は夫人の操に筆をとらせ、
「木がらしよなれがゆくへの静けさのおもかげ夢見いざこのよねむ」という歌を書きとらせた。
落合直文は、多くの弟子たちの中で特に鉄幹の人柄と才能を愛した、明治26年11月、鉄幹を二六新報社に推薦し入社させる(鉄幹は編集整理兼学芸部主任となる)。明治29年3月、韓国から鉄幹を呼び戻し、明治書院に入社させる。鉄幹の第一詩歌集『東西南北』を明治書院から出させ、序文を書く。明治33年、鉄幹が雑誌「明星」を創刊すると、陰に陽にそれに力を添える。
つづく

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