2025年4月24日木曜日

大杉栄とその時代年表(475) 〈番外編 川上音二郎(4)〉 「オセロ」「ヴェニスの商人」に続いて「ハムレット」上演、好評 「入場客は大半、大学生、女学生の新人、教員、学者、ジャーナリスト、金持ちの若旦那夫婦といった風の人々であって、老人株の者は殆ど一名も居らなかった。(略)ちょうど、私達が夏目先生から『マクベス』の講義を聴いてゐる時に、ともかくシェークスピアー劇を川上一座が日本式に上演してくれたのは私達英文科の学生に大きな幸福であった。私のクラスの者は沢山見物に来てゐた。」(金子健二『人間漱石』) 

 

川上貞奴

大杉栄とその時代年表(474) 〈番外編 川上音二郎(3)〉 ボストンでアーヴィングの『ヴェニスの商人』に感銘を受ける 英国王に招かれる パリ万博で公演 次いで第三回目の海外公演 フランスでオフシェー・ド・アカデミー三等勲章叙勲 明治座で「オセロ」上演 貞奴の日本初舞台 逍遥も評価する より続く

〈番外編 川上音二郎(4)〉


1903(明治36)年9月29日の帝大における漱石の講義(「マクベス」)は聴講者で満員となる。


「月二十二日の火曜日、金之助の学年最初の講義がおこなわれた日は雨で、教室は冷えぴえとしていた。学生たちの心もまた冷え切っていた。彼らは依然として金之助の分析的な講義に反感を持ち:自負心を傷つけられるような屈辱感を覚えていたからである。

しかしそれから一週間後の九月二十九日、彼が各科共通の一般講義として『マクベス』の評釈を開講したとき、文科大学で一番大きな二十番教室は聴講生で立錐の余地もないほどになった。これはひとつには前年の秋に欧州巡業から帰朝した川上音二郎・貞奴の一座が、この年の二月明治座で『オセロ』を上演して大当りをとり、シェイクスピアに対する関心が知的青年のあいだにたかまっていたためである。早稲田大学では明治二十三年以来坪内逍遥がシェイクスピアを講じて評判になっていたから、金之助はいわば逍遥の向うを張るかたちになった。彼がこの第一議に力を入れたのは当然である。学生の反響は至極良好で、第二講のときには法科や理科の学生まで評判を聞きつけて聴きに来るようになった。金之助はこの一般講義で『英文学概説』の不評を一挙に挽回し、にわかに文科大学随一の人気者になったのである。」(江藤淳『夏目漱石とその次第2』) 

11月1日、音二郎は本郷座で3たびシェイクスピアと取組み、『ハムレット』を上演した。


「・・・歌舞伎劇場に対立して、新劇樹立の宣言の下に西洋劇の上演を試み、その鑑賞者の標的を学徒及文化人に措いた結果、凡ゆる点に於て大改良を企図し、差当り下足料其他の伝統的陋習を根本的に改めた為、未だかういった訓練に慣らされてゐない今夜の見物客は徒らにまごつくはかりであった。入場客は大半、大学生、女学生の新人、教員、学者、ジャーナリスト、金持ちの若旦那夫婦といった風の人々であって、老人株の者は殆ど一名も居らなかった。入口は、是等の健康な肉体の持主である上に、英国人式の紳士道の修養が全く欠けてゐる人々が、力づくで我れがちに入場しようとするので、山賊の大群が一時に殺到したやうな修羅の巷を現した。中には、乱暴にも前に立ってゐる人々の頭をはらばひして入口に迫る者すらあった。・・・ハムレットの亡父が青山墓地に幽霊の姿よろしく現はれて来て、その昔シェークスピアー自身が其の役割りを勤めたといふ亡霊の、あの幽かなものすごい口調で、「怨めしや」「怨めしや」の言葉を吐くあたりは、誠に感傷的の気分をそゝるに十分なものがあった。しかし、ハムレットの母の出来栄えは非常に悪かつた。それから、私の同伴者の一人が余り文芸趣味を持ってゐなかった為か、可憐な乙女オフエリアが既に狂人となって全身を花でつゝみなから、ものさびしげな口調でうたひながらステージに現はれて来るのを見て、声を出して不謹慎にも笑ったから、私は彼に「笑ふところの場面ではないぢやないか、泣いて見るべき深刻なシーンだよ」と注意した。・・・ちょうど、私達が夏目先生から『マクベス』の講義を聴いてゐる時に、ともかくシェークスピアー劇を川上一座が日本式に上演してくれたのは私達英文科の学生に大きな幸福であった。私のクラスの者は沢山見物に来てゐた。私はこれ程迄に知識層の、しかも、若い学徒が群を成して観劇した例を今逸見たことはなかった。・・・」(金子健二『人間漱石』ー「私の日記ところどころ」)


『ハムレット』上演に至る経緯についての音二郎の言葉は直接には記録がない。しかしこの舞台の装置を担当した洋画家山本芳翠が「伊藤侯爵の北堂が亡って葬式の時… … 道具立の事で一寸話」があり、「その後川上から新橋の花月へ呼ばれ… …沙翁のハムレットを来春するから是非頼むといふ事であったのです。… … すると先月の23日に川上が私の宅へ来て、先達って話をしたハムレットを急に本郷座で演る事になったから、何分頼むといふのです。私はとてもさう早急では出来るものでないと云った処が、それでは出来るだけやって貰ひたいと云ふのでしたから、青山の墓場を一つやらうと云ふと、それでは王宮の場も一つやって貰ひたい、西洋の演劇をやる処だからといふので、つまりこの二場を私が引受けたのでした」(山本芳翠「本郷座の道具」(『歌舞伎』43号)と語っていて、計画は前回の『マーチャントオヴェニス』の頃からあったとしても、実際の上演は興行上の理由で急に決ったものと考えられる。


この『ハムレット』も翻案で、翻案者は前回の訳者土肥春曙と作家の山岸荷葉である。「大概は荷葉さんが筆を執られたのでした。これをまた役者の方で、時間や何かの工合があって、多少脚色の上から削減して舞台 にか けることにな った」のだ とい う(藤沢浅次郎「ハムレットについて」(『歌舞伎』43号)) 。


洋画家に装置を依頼したのも音二郎らしい改革であった。音二郎はこの公演を大革新と号し開幕時間及び開演を午後5時30分より同10時迄4時間半とする事観劇料は従来の3分の1に減額し凡て通券法にする事飲食は運動場及び芝居茶屋に限り観劇の場所に於ては厳禁する事舞台道具は西洋画家を主任とする事人力車は請負人を定めて観客が便利のため閉場前に場内に於て乗車券を発売する事の5ケ條を励行し… … 木戸銭下足料蒲団代等を全廃し尚興行に関しては大道具小道具電気油絵衣裳等に充分力を入れ革新の名に背かざらん事を努」めたという(田村成義編『続々歌舞伎年代記』)。


音二郎はこの『ハムレット』でクロディアスの葉村蔵人と亡霊の葉村前公爵との二役を演じた。他の配役はオフィリアの堀尾令嬢おりゑが川上貞奴、ハムレットの葉村年丸が藤沢浅二郎、レアティーズの堀尾令橘が佐藤歳三、ボレーショの原庄次が藤川岩之助、ポローニアスの堀尾直之進が福井茂兵衛、フォーチンブラスの伯爵織津民部が中野信近、などであった。一国の王城での物語が翻案のために公爵家の相続争いとなり、世界は小さくなったが、セリフなどは原作に忠実であったために(河竹登志夫著『比較演劇学』)舞台は非常に好評「連日売切れの好況を示した」という(田村成義編『続々歌舞伎年代記』)。

芹影女子(岡田八千代の筆名)が「此日は川上が始めて木戸前の彼景気を見て、何百と云ふ人が押しつ押されつ我も我もと入場券を求める様子は丁度餓饉年(ききんどし)の施行に米を貰ひに来る人達の様で、是程迄に此改良に同情を寄せて下さるかと思ふと私は最早と言ひ差して舞台で泣いた日ですから珍しい日なので御座居ませう」「本郷座のハムレット」(『歌舞伎』43号))という言葉でその劇評を書き始めている事からも、気の程は推察できよう。「入場客は大半大学生、女学生の新人、教員、学者、ジャーナリスト、金持の若旦那夫婦といった風の人々」であった(金子健二著『人間漱石』7)。しかし「新聞でソップの出し殻だと云はれ」たことがなかったわけではない(藤沢浅次郎「ハムレットについて」(『歌舞伎』43号))。

この『ハムレット』は翌年、京都明治座、神戸大黒座、大阪春日座及び中劇場、博多教楽座で再演された。


つづく

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