1903(明治36)年
12月17日
(漱石)
「十二月十七日(木)、晴。東京帝国大学文科大学で、午前十時からき Macbeth を講義する。最近日本の未熟な学者たちが、西洋通を気取って、外国の新しい文学を批評している事実を指摘する。
十二月十七日(木)、午後四時四十分、または十八日(金)午前十一時二十分(極めて不確かな推定)、地震あり、縁から飛び出る。鏡から、子供たちの心配をしなかったことを非難される。(『道草』九十三)」(荒正人、前掲書)
「十二月十七日には午前中、地震があり、漱石は一人で庭に飛び出し、鏡子から子供の心配をしなかったというので非難された。「あなたは不人情ね。自分一人好ければ構わない気なんだから」というのが『道草』のなかの妻のセリフである。
このころ虚子高浜清がたまにたずねてくるようになった。漱石の親友正岡子規に兄事していたから、漱石にも若いころから親しんだ。このころの事を「その時分は後のように沢山の人が漱石の家に出入りしていたわけではなくて、寺田寅彦という人が漱石の熊本時代の門下生として出入りしておったくらいでありました」 (『俳句の五十年』)と書いている。」(森まゆみ『千駄木の漱石』)
12月17日
米、ライト兄弟、飛行機(エンジン付き複葉機)発明。史上初の動力飛行をノースカロライナ州キティ・ホークで行う。飛行時間は59秒。
12月18日
臨時閣議、日露交渉妥結望みなし、戦争決意。
満洲問題については徹頭徹尾外交的解決をはかるも、韓国間層についてわが要求がいれられなければ、干戈に訴えてもその貫徹を期すとの方針。
以後、日本の対露外交は妥結にむけての外交でなく、決裂をも予測のうちにいれた外交となり、急速に戦争準備を推進した。
桂・小村、上奏。
桂は、閣議決定につき天皇の裁可を得ると、「日露交渉」の妥結は望みうすである、今後の外交は戦争準備の性格をおびる旨を述べ、
「陛下、今此ノ事ニ允裁ヲ賜フ。而シテ異日恐ラクハ国家非常ノ難局ニ立タン。陛下予メ其ノ決心ヲ腸へ」と、戦争決意の要請を進言。
天皇は無言でうなずき、首相と外相は拝礼して退出した。
12月19日
啄木のエッセイ「無題録」(「岩手日報」)。啄木の雅号の由来について語る。
12月20日
幸徳秋水・堺利彦の木下尚江評。
「『平民新聞』第六号の「同志の面影」に幸徳はこう評している。
▲君は雄弁家である。君の演説はその組立でも修辞でも大いに心を凝らしたもので、決して一語一字も苛(いやし)くもしない……。
▲……常に君の演説を聞く者は、時には巧妙な浄瑠璃を聞くが如くに面白く、時には危険な軽業を見るが如くにハラハラ思つたことであらう。古人の「擒縦(きんしよう)自在」の一語は、君の演説を評して余りがある。
堺は同じ記事の中でこう評した。
▲……君は演壇に立って自在に聴衆を笑はせるの術を知っている。その術たるや実に巧妙を極めたもので、人をしてほとんどその術たることを感ぜしめぬ。
▲ある時、君はその演説について予に語ったことがある。ああして笑はせておいて、その開いたロの中にヒョイと苦い丸薬を投げ込むのだと。……さきに甚だ多くの滑稽を弄していた君が、忽ち厳粛の態度をとつて、その丈高き身軀を直立せしめて、その長き両手をもつてその胸を打ちたたきながら、燃ゆるが如きその腹中の感情を吐きつくす時、聴くもの覚えずその声と色とに酔はされて賛嘆帰依の心を起すに至る。」
つづく

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