〈番外編 川上音二郎(5)〉
以上のように音二郎は僅か1年の問にシェイクスピアの3つの作品を立て続けに上演した。しかも3作品とも本邦初演であった。
しかしこれらの上演に対する批評は、興行上の成功とは関係なく、必ずしも音二郎の努力に対して好意的なものばかりではなかった。
坪内逍遙は『オセロ』について「自体今度のは時代物を世話も世話、生世話に直した格ゆゑ、頭(てん)で原作の雄大な質は消えてしまった。… …ハムレットは下手がやっても不思議に見物の同情は引くが、オセロは余ほどの腕ききがやっても嫉妬煩悶の辺があぶなく悪落に流れるか、さなくも同感は得にくいらしい。そのむつかしい奴に真先に取っかかった川上の意気は例の遠州灘乗切式とでもいはうか」と始めて、各人物の細部に至るまでその難点を数えて立て(「オセロ批評集」(『歌舞伎』34号)),『ヴェニスの商人』についても翻訳の文体の問題、着付及び道具類の不適切、登場人物の解釈などについて遠慮のない言葉を用いて批評している(「『マアチヤント・オブ・ヱニス』に就て」(『歌舞伎』38号))。
もちろん逍遙のこれらの批評は逍遙自身のシェイクスピア解釈に基いてなされたものではある。しかし森鷗外・上田敏なども直接の攻撃は避け、一応の意味を認めながらも、結局はその言葉の裏に音二郎の『オセロ』への不満が感じられる点を考えれば必ずしも逍遙の一人よがりとは言えないであろう。
鷗外は「真の翻訳が出たからといって、それが直に今の東京の劇場で興行せられるといふ訳にはゆくまいから、江見君のやうな達者な人が今度の『オセロ』のような脚本を書かれるのも感謝すべきことに相違ない」といい、「丁度今の東京の観客に適した脚本を、丁度東京の観客に適するやうに演ずるのも、多とすべきだ」とその価値を認めながら、一方では,ヴェニスが駿河台に変えられた点について「これはた団場所のみの上であるが、時代も人物も萬事それだけの相違があるのだ」と述べて、原作との比較が無意味に近いことを暗示し(「オセロ批評集」(『歌舞伎』))、上田敏は「川上一座の益々進んで斯の如き挙をしばしばなさんことを希望するがどうか今後はなるべく白(せりふ)に重きを置き、高尚の作を演ずる時は、単に場面の賑かなる事、又見物に見馴れた現代の事のみを演ぜず、所謂時代物を演じて,これまでの壮士劇より蝉脱せん事を望む」と将来への希望に託して腕曲な批判を述べている(「オセロ批評集」(『歌舞伎』34号))
しかしこれらの学識豊かな文学者の評言は、音二郎のシェイクスピア作品上演の動機を考えれば、当然と言える。音二郎には新しい趣向を求める以外にシェイクスピアを取り上げた積極的理由はないと言ってよい(「『オセロ』を採った理由」(『歌舞伎』34号))。
日清戦争の電報を見るとすぐに朝鮮に渡って戦場に近づき、帰って来て『川上音二郎戦地見聞日記』を上演するというようなところが音二郎にはあった。柳永二郎はこの音二郎の性格について「何か奇矯なことによって、世間の耳目を自分に集めようと常に考へ、それによって自分を有名なものにしようとするためには、大ていな手段は選ばなかったといふことは見逃してはならない」と述べている(柳永二郎著『新派の六十年」)。
こうした性向が音二郎をオッペケペー節に始まる書生芝居、前述の戦争劇、前後4回の洋行、シェイクスピア劇、革新興行などへ駆り立てたのである。しかし音二郎のこれらの仕事を演劇史の中において現在の立場から振り返った時には、その1つ1つが当時の人々の知り得なかった特別の意味を持ってくることを見逃してはならない。
1903(明治36)年以前に日本の舞台に上せられたシェイクスピア劇は『何桜彼桜銭世中』(『ヴェニスの商人』をラムのシェイクスピア物語より翻案、明治18年)『該撒奇談』(逍遙訳『ジュリアス・シーザー』より2場面のみ、34年)及び『闇と光』(『リア王』翻案,35年)の3作のみであった。ところが、この36年を境にして、シェイクスピア劇の上演回数演目数は急激に増加して行く。この点を考えれば、故河竹繁俊教授が「私は思う、この明治36年という年は、日本におけるシェークスピヤ上演史上、画期的な年だったと。… … こんな冒険に類することは、この後とても、あまりないのである。この壮挙に押されて、37、38、39とシェークスピヤの上演は、なかなか盛んで、ついに坪内逍遙の指導する文芸協会の実際運動となり、それがひいて、新劇運動への火蓋を切ることともなるのであ る」(「日本におけるシェークスピヤ上演史」(中野好夫他著『シェイクスピア研究」所収))と述べ、秋葉太郎氏が「正劇を後のわが新劇の幼年時代とみることができ、そこに正劇運動の意義があった」(秋葉太郎著上掲書)と論じているのは、音二郎のシェイクスピア劇上演を歴史的に見た場合、当然のことであり,正当な評価である。
たとえ単なる興行上の思い付きに始った上演であるにしても、それは「当時ぼつぼつあらわれはじめていたシェイクスピア流行の兆しと、新しい様式をもとめる機運とを機敏にとらえた結果といえよう」(河竹登志夫著上掲書)。その機敏さが音二郎の奇を好む性向と相俟って次々に新しい実験を試みさせ、音二郎をシェイクスピア上演の分野においても先駆者の位置に据えることになったのである。
明治36年の音二郎の活躍は華やかであったがその後の役者としての音二郎は徐々に活気を失って行く。それは31年から約5年間、舞台を留守にしている問に新派劇の演技が音二郎の壮士劇とは異った方向に発展したためである。
明治39年10月の明治座における『祖国』(ヴィクトリアン・サルドウ作田口掬汀訳)を最後に音二郎は興行師に転向すると宣言し、更に翌40年には新派の大同団結を提唱したが、伊井蓉峰、河合武雄らの反対にあって不成功に終ると、大阪帝国座建設の調査という名目で4回目の海外旅行に出た。
翌41年5月帰朝したが,「帰朝後に於ける川上晩年の活動の第1は帝国女優養成所の設立、第2は川上革新劇の興行、第3は大阪帝国座の建設であった」(秋葉太郎著上掲書)
しかしその大阪帝国座の落成直前に音二郎は腹膜炎を発病、腹水病になって、落成興行には貞奴が代って挨拶を述べなければならない状態で、ついに明治44年11月11目、不帰の客となった。開場して間もない帝国座の舞台は「故川上音二郎葬儀場」となり、新派の全俳優が会葬して新派葬が行われたが、波瀾に富んだ華やかな過去を持つ音二郎にしては、どちらかと言えば不遇な最後であった。享年47才である。
〈番外編 川上音二郎〉おわり
かなりの部分を、
に依りました。

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