1908(明治41)年
10月10日
清国、江蘇諮議局成立。
10月10日
東京麻布板倉の南紀文庫、一般公開式を挙行。
10月10日
木曽興業株式会社創設。資本金60万円。
10月10日
バルカン諸国に圧力をかけバルカン危機解決のための会議開催強要。
12日、露イズヴォリスキー外相、英にバルカン情勢に関する会議参加を承認させる。イズヴォリスキー、9日~14日ロンドンに滞在し自らの海峡(ダーダネルス、ボスポラス)構想支持を英に説く。英が海峡解放支持の条件としてトルコの同意を挙げたため露の構想は挫折。会議開催を求める交渉、継続。
10月12日
南アフリカ制憲会議。南アフリカ連邦化のための国民集会。ダーバン(~11月5日)とケープタウンで開催(~1909年2月3日)。ケープ、ナタール、オレンジ、トランスバール4州の連邦制度案起草。新議会制度発足。アフリカーンス語と英語が公用語。州政治権限制限、連邦政府に従属(~1910年5月31日)。
10月12日
タブリーズ立憲派、王朝軍部隊の総攻撃を撃退。
10月13日
9日に公布された条約改正準備委員会官制で、委員ら任命される。
10月13日
戊申詔書と地方改良運動。
日露戦争後、農村の疲弊の為、新たな農村・農民の創出を目的として発布。「上下心を一にし、忠実業に服し勤倹産を治め・・・。」。そして、これを指導理念とした行財政改革である地方改良運動が展開。
行政村と自然村の二重構造を解消し、部落有林を統一し、運営の方針を提示した町村是を定めることがいわれ、農村を支える階層(中小地主・自作農上層)を作り出そうとする。
産業組合・農事改良組合が設立され、二宮尊徳に由来し農村再建をめざす報徳社が着目され、農業生産力増進が目的とされる。
第2次桂内閣内相平田東助は、県-郡-町村の指示系統強化を図り、地方改良事業講習会をさかんに開く。静岡県稲取村、千葉県源村、宮城県生出村はた模範村として表彰される。
10月14日
第2琵琶湖疏水開削工事、大津で起工式。1912年6月15日竣工。
10月14日
(漱石)
「(十月十四日(水)、鈴木三重吉、小宮豊隆を訪ね、明日成田に行くと伝える。(私立成田中学校の英語教師になる。年俸八百円)夜、鈴木三重吉と小宮豊隆は共に「朝重」を聞きに行く。)
十月十五日(木)、小宮豊隆来る。林久男が持って来た小説を小宮豊隆に読ませる。小宮豊隆は面白くないと云う。林久男に戻すように頼む。(午後一時、鈴木三重吉は日幕里停車場から成田に出発する。小宮豊隆見送る。)
十月十六日(金)、午後、小宮豊隆帰る。小宮豊隆、林久男に小説を戻し批評を加える。
十月十七日(土)、午前寺田寅彦訪ねて来る。第二回文部省美術展覧会に誘う。人力車で行く。寺田寅彦は自転車に乗っていく。受賞した和田三造の『煒燻』の拙劣にあきれ大いにけなす。昼、宝亭で昼食を馳走する。
十月十八日(日)、猫の三十五日忌。鏡、鮭一切と鰹節飯一椀を猫の墓前に供す。
十月十九日(月)、エイ、四、五日四十度の原因不明の熱続く。
筆、中島六郎からヴァイオリンを習い始める。
十月二十日(火)、加計正文宛手紙に、「仰の如く千駄木から西片町へ移り西片町から此處へ變つて小供はもう五人ある其上此暮か来春早々又一人生れる。鬢の所に白髪が大分生える。」と書く。
(上田敏、外国留学から帰る。十一月、京都帝国大学文科大学講師になる。)
(和田)吉田博の『雨後の夕』と共に、二等賞に選ばれる。一等賞なし。
寺田寅彦は、十月十六日(金)午後、東京帝国大学の恩師や同僚たちと共に第二回文部省美術展覧会を見ている。十月十七日(土)に漱石を訪ねたのは、所用を済ませ他に廻る途中に立ち寄ったところ、漱石から誘われたので、再び行ったのである。なお、宝亭へは他の人物に同行し、馳走されたとも思われる。「寺田寅彦日記」には、「神田を散少し信盛堂にて鳥打帽を買ふ。」と記されている。これは、漱石と共に行ったとも解釈されるし、また、寺田寅彦が一人で行ったとも解釈される。「信盛堂」は、西洋小間物店である。
(ヴァイオリン)鏡は、琴を勧めたらしい。」(荒正人、前掲書)
10月15日
国画玉成会、展覧会開催。観山『大原御幸』、紫紅『時宗』、靫彦『守屋大連』、青邨『囚らはれたる重衡』など。
10月15日
第2回文展。~11月23日。栖鳳「飼はれたる猿と兎」、春挙「雪松図」、中川八郎「北国の冬」、山本森之助「曲浦」、満谷「車夫の家族」、鹿子木「ローランス画伯の肖像」、黒田「春の名残」、山崎朝雲「大葉子」、荻原守衛「文覚」など。
「昨日も上野へ行つて見ると、展覧会の賑ひは意想外である、その賑ひをなせる観覧者の要素の啻に美術学生等の専門家ばかりでなく、あらゆる職業の人を集めてゐるのには、一驚を喫せざるを得なかつた、やがてこれは美術思想の普及を示すものである、兎角の批評は擱いて、文部省が一臂の力をこの方面に仮〔ママ〕した為に明治美術の存在が世人に知られた一事は徳としなければならぬと思ふ」(「美術展覧会の顛末(上)」(『万朝報』1908年10月18日、一面))
10月16日
徳田秋声「新世帯」(「国民新聞」~12月6日、1909年9月刊行)。この作により自然主義作家に加わる。
10月16日
司法省、監獄局、初めて全国の監獄に、受刑者(満期接近の者)の指紋徴取を指示。
10月16日
秋になって冬の準備が必要な頃になっても、啄木よりの送金はなく、上京の見込みはなかった。妻の節子はやむなく経済的に自立することを決意し、啄木の友人吉野白村の妻貞子の世話で、この日付けで函館区立宝尋常高等小学校の代用教員となる。彼女は袴を着用し女教師として19日より教壇に立つ。月給は12円。
10月17日
「十月十七日
(略
午後三時頃、フト思立つて千駄ヶ谷に行つた。栗山君が来てゐた。昨夜金尾文淵堂が来て、“昴”を引受けることに定つたといふ。そして、僕のかいた広告文が気に入つたからと言つてゐたと晶子さんが話した。バイブルを借りて五時帰る。
と、藤岡玉骨(長和)といふ、新詩社の社友で今大学の政治科にゐる男が初めて訊ねて来た。大和の雑誌“敷嶌”へ正月号の原稿くれることに約束した。
イヤな顔な男だつた。それで九時頃に帰つてからも興が乗らずにしまつた。
神嘗祭だつた為か、電車には美人が乗つてゐた。
外出してみると、矢張時々外出しなくちやいけないと思ふ、が、家にゐると、外出するのが憶劫だ、憶劫といふも少し過ぎるが、出ようと思はぬ。
十月十八日
日曜日。昼餐は金田一君と共に。
今日米国の廻航艦隊が横浜に入港するのだ。これからの一週間は、東京も賑かだらう! 然しそれが自分と何の関係がある………何かしら侘しい様な感じがする。
(略)」(啄木日記)
10月18日
米太平洋艦隊、横浜に来航。
10月18日
ベルギー議会、ベルギー領コンゴ(元コンゴ自由国)を承認。
11月15日、正式併合。
つづく

0 件のコメント:
コメントを投稿