東京・北の丸公園(2011-10-20)
*延暦10年(791)
7月13日
・大伴弟麻呂(おとまろ)が征東大使に、百済王俊哲・坂上田村麻呂・巨勢野足(こせののたり)・多治比浜成が、征東副使に任じられる。
のち、征東使は征夷使に改称される。
征東大使大伴弟麻呂:
従四位下、61歳。延暦2年に征東副将軍に任じられ陸奥に赴任したが、征東将軍大伴家持の死去によって征夷が中止されたため、実戦経験はない。
持節将軍は前線で実戦指揮するのではなく、後方で征夷軍全体を統括するので、高齢で実戦経験がなくとも不都合ではない。
征東副使の百済王俊哲と多治比浜成は従五位上、坂上田村麻呂と巨勢野足は従五位下。
田村麻呂以外の3人は、征討使或いは鎮守府官人を経験し、陸奥按察使・国司・鎮守府官人を兼任していた。
征討使と現地官人の兼任は、これ以降の特徴で、現地官人を征討使の組織の中に取り込み、指揮系統を明確化したものと評価されている。
延暦8年の胆沢の征夷で、征東副使と鎮守副将軍の連携がうまくいかなかったことを踏まえた改革である。
・百済王俊哲は、長く鎮守副将軍・鎮守将軍などを務め、実戦経験が豊富なベテラン。
この年正月18日に閲兵のため東海道に派遣され、4日後には下野守に任命され、東海道の閲兵を終えた後は、東山道の下野国府にいたと思われる。
革甲や糒の準備にも関わったと思われる。同年9月には鎮守将軍を兼任(延暦6年に解任されて以来の復任)。
・多治比浜成は、延暦8年の第1次征討で征東副使を務め、唯一軍功を認められた人物。
延暦9年3月に陸奥按察使兼陸奥守となり、敗戦後の体制の立て直しを行っていたとみられる。
・巨勢野足は43歳で、延暦8年征夷の胆沢の敗戦の勘問が行われた直後の延暦8年10月に、鎮守副将軍となり、延暦11年には陸奥介を兼任する。
のち嵯峨朝では藤原冬嗣と共に最初の蔵人頭となるが、中衛少将・左衛士督・左兵衛督・左近衛中将・右近衛大将といった武官の要職を歴任している。
延暦8年の敗戦後、陸奥に鎮守副将軍として派遣されたのも、武人として優れていたからであろう。「人となり鷹・犬を好む」という(『公卿補任』弘仁7年条)。
第2次征討の大使・副使は、田村麻呂以外は陸奥国への赴任経験があり、実戦経験者も2人いる。実戦経験のない巨勢野足も武人として優れているし、田村麻呂も優れた武人である。
経験と武力に裏打ちされた強力な布陣で、桓武の意気込みと期待が窺える。
田村麻呂起用の意味
坂上氏は渡来系氏族の東漢(やまとのあや)氏の一族。
坂上田村麻呂の薨伝(『日本後紀』)に、「家世武を尚び、鷹を調へ馬を相る。子孫業を伝へ、相次ぎて絶へず」とあるように、代々武芸を以て朝廷に仕えた(『日本後紀』弘仁二年(811)五月丙辰条)。
父の苅田麻呂は授刀少尉であった天平宝字8年(764)、恵美押勝の乱の鎮圧に活躍し、その功績によって従四位下の位階と大忌寸(いみき)の姓(かばね)を与えられ、中衛少将に任じられた。桓武即位の翌月、右衛士督(うえじのかみ)となり、延暦4年(785)には従三位の位階と大宿禰(すくね)の姓を授与されている。
苅田麻呂は、東漢氏の祖である阿智使主(あちのおみ)が後漢霊帝の子孫であると主張し、東漢氏の支族の姓を忌寸から宿禰に変えることに成功している(『続日本紀』延暦四年六月癸酉条)。
東漢氏は実際には朝鮮半島から渡来したとみられるが、新たな主張を展開し東漢氏全体の地位を向上させた。
田村麻呂は、武門の坂上氏の伝統を受け継ぎ、父の栄達と彼自身の武人としての才能によって、桓武天皇の信任を得る。
宝亀11年(780)に23歳で近衛将監となり、30歳で近衛少将、42歳で近衛権中将、44歳で近衛中将、49歳で中衛大将、翌年中衛府が右近衛府に改組されると初代の右近衛大将となる。
近衛府の官人は天皇側近の武官であり、その要職を歴任した田村麻呂は、天皇の信任が特に厚かった。
田村麻呂の薨伝には、「田村麻呂、赤面黄鬚にして、勇力人に過ぐ。将帥の量あり。帝これを壮とす」、「頻りに辺兵を将ゐて、出づる毎に功あり。寛容にして士を待ち、能く死力を得たり」とある。
顔が赤く鬚(あごひげ)が黄色で、勇気と腕力が人に勝り、将軍としての力量があったので、天皇はそれを頼もしく思っていた。
一方で、寛容で士卒を大切にしたので、よく部下の死力を得ることができたとの評価である。
今回の征東使の中では最年少34歳で参加。
これまでの征東使が逗留して進軍しなかったり、無断で軍を解散するなど、天皇の意に反する行動をとることがあったので、腹心の武官を征東副使に任じることによって、征夷に天皇の意思を反映しやすくしたと思われる。
田村麻呂は桓武にとっての勝利の切り札として起用された。
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8月
・この八月、夜間に群盗が伊勢大神宮に侵入、正殿一宇・財殿二字に放火し、門三間・垣一重を焼く。桓武天皇は直ちに参議紀古佐美らを派遣して、幣帛を捧げて出火を謝し、再建の措置を講じる。
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9月16日
・八ヶ国に命じて平城宮の諸門を長岡宮に移建させる。平城京廃都が決定的になる。
平城宮の諸門を長岡宮に移築せよとの命令を、越前・丹波・但馬・播磨・美作・備前・阿波・伊予の諸国に下す。これらの国々の多くは、後に平安官の美福(びふく)・偉鑑(いかん)・藻壁(そうへき)・待賢(たいけん)・陽明(ようめい)・談天(だんてん)・郁芳(いくほう)の諸門の造営を命じられているので、この時長岡宮に移し建てられたのも、これらの諸門に相当する門だったのだろう。
この措置は、もはや平城京に帰ることは無い、という意思表示である。
しかし、遷都から7年になろうというこの時点で、宮を取り囲む諸門がまだ出来上がっていない状況である。
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10月
・前年元服したばかりの安殿皇太子に不例の日々が続き、なかなか快癒せず。
10月27日、小康状態になって、皇太子は自ら伊勢大神宮に参拝。
皇太子の心身の異状はその翌年にまで及ぶ。
朝廷の陰陽師は、はっきりと早良親王の怨霊がとりついているのだと言う。
桓武天皇は、諸陵頭を淡路国に遣わし、かさねてその亡霊に陳謝の意を表す。
桓武は、皇太子時代に伊勢神宮を訪れた経験がある。安殿の伊勢参拝も父桓武の指示であろう。
この他、遷都や征夷に関して伊勢への奉幣記事が頻出する。
桓武が伊勢を深く信仰していたことがわかる。
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10月25日
・東海道・東山道諸国に征箭(そや、矢)3万4,500余具を作ることを命じる。
矢は兵士1人が胡簶(ころく)に入れて背負う50隻を1具と数えるので、これは172万5千余隻という膨大な数である。
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11月3日
・桓武天皇は、坂東諸国に対して軍粮の糒12万余斛の準備を指示。
前年閏3月にも糒14万斛の準備を命じている。
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