2011年10月9日日曜日

永禄8年(1565)10月1日~12月31日 堺津付近で激戦の三好義継・松永久秀両陣営からキリスト教信者共同で降誕祭儀式を行う  [信長32歳]

永禄8年(1565)
10月
・一乗院覚慶(後の義昭)・大覚寺坊官・薬師寺弼長・柳本秀俊・内藤貞治・旧幕府奉行人ら、洛中洛外寺社へ禁制を発す(「東寺百合文書」)。
*
信玄嫡男義信の謀反事件
武田信玄譜代の家臣飯富虎昌、義信謀反事件の首謀者として処断。
「甲陽軍鑑」によると、義信は、譜代家臣(守役)飯富虎昌・側近長坂源五郎・曾禰周防守らと謀反。
事前に、虎昌の弟昌景が信玄に通報、虎昌以下は切腹、義信付属の家臣80騎は追放、義信は甲府の東光寺に幽閉となる。

義信:
天文7(1538)年信玄正妻三条夫人の子に生まれ、天文21年、3国同盟の一環として15歳で今川義元の娘を妻に迎える。
天文22年将軍義輝の偏諱を与えられ義信を名乗る。
永禄元年正月義輝から准三管領(三管領に準ずるの意)の称号を与えられ、翌2年3月の川中島での謙信との和談調停では義輝から父子宛ての御内書を受ける。この時点では、内外共に信玄の後継者とされる。
しかし、永禄3(1560)年5月の桶狭間で義元が没し、対今川氏戦略で父子間で対立が生じる。
翌4年9月の川中島の戦いでも戦略上の対立があったと云われる。
翌5年、側室諏訪御料人の子で4男勝頼が高遠城主となり、伊那郡域支配体制も強化され、永禄7年6月には木曽郡から飛騨へも出兵。
この頃になると、信玄の戦略転換(北進⇒西進)は明らかになり、義信との対立もまた明確になる。
これを決定づけるのが、この年9月に信長から提案された信長養女と勝頼の婚姻。この年11月13日の婚儀の式。

永禄10年(1567)10月、信玄は義信に自害を命じる。
先立つ8月には、占領地域を含む全家臣団より信玄に忠誠を誓わせる起請文を提出させ、小県郡下郷の生島足島神社に奉納。  
*
10月4日
・一乗院覚慶(後の義昭)、上杉輝虎(謙信)へ北条氏康との和睦と上洛を促す。
28日、島津貴久・島津義久へ援軍要請。同日、相良義陽へも援軍要請。  
*
10月5日
・大友宗麟、箱崎八幡宮の豊筑の社領を安堵。
7日、大友家年寄が連署し、箱崎八幡遷宮の勧進に上筑後衆の協力を乞う。
*
10月8日
・丹波の波多野・須智・柳本氏ら、荻野直正方に寝返り山城長坂口に出陣。
松永久秀、多聞山城より竹内秀勝を差し向ける。
11日、竹内秀勝、京から大和へ戻り釜口に布陣。
15日、小夫城が開城、小夫氏は多田(東山内)へ逃れる。
18日、竹内秀勝が帰陣。夜、再度、京都へ向けて出陣。十市氏が訴訟のため多聞山城に入る。
*
10月11日
・一色藤長・細川藤孝・飯河信堅、京都清水寺成就院・大徳寺へ禁制を下す。
*
10月20日
・朝廷、京都賀茂郷民に警衛を命令(「御湯殿上日記」)。
*
*
11月
・この頃、秀吉は「木下藤吉郎秀吉」と署名。
*
・西上野の嶽山城(中之条町)の池田佐渡守ら、真田幸隆(53)の仲介により武田氏に帰属。17日、落城。
永禄6年(1563)10月、幸綱により岩櫃城を追われた斉藤憲広が嶽山城に籠っているが、家老池田氏が幸綱により調略。
同城落城により、吾妻郡域での上杉方拠点は長尾憲景の白井城(渋川市)のみとなる。
*
・備中・三村家親、高田城(三浦貞勝)攻撃。1ヶ月後、陥落。城主貞勝(28)自害。妻・お福(20)は落延びる。    
*
11月1日
・信長、佐藤紀伊守らを援助し関城を攻略した美濃の斎藤新五郎へ新知行の宛行状を下す(「備藩国臣古証文」)。  
*
11月2日
・秀吉(29)、鵜沼城主大沢基康誘降に功のあった坪内喜太郎利定に宛てた信長の知行宛行状の副状を発給(秀吉文書の初見)。
その他、年代不明(同11年の上洛以前の年の6月10日付)で、秀吉・丹羽長秀・島田秀順・村井貞勝・明院良政と連名で、佐々平太・兼松正吉に30貫の地の給与を奉じた文書あり(「兼松文書」)。

秀吉が、信長上洛以前に秀長ら宿老クラス家臣と肩を並べていることが注目される。
美濃攻略の功績。
*
11月13日
・武田信玄と織田信長が同盟。
信長、信玄次男伊那高遠諏訪四郎勝頼に美濃中津川苗木城城主遠山勘太郎(信長の妹婿)の娘(信長養女とし)の縁組実現。
永禄10年に嫡男信勝誕生するが妻病死。
*
11月16日
・三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)3千、深夜、河内飯盛城攻撃。
松永久秀属将金山長信殺害。長慶後継者義継、拉致、久秀との絶縁強制。
三好三人衆、松永久秀と関係を絶つ
*
11月18日
・松永久秀、筒井順慶(17)の立て篭もる大和筒井城を攻略。
*
11月18日
・筒井藤勝、布施城へ入る。
19日、阿部山・ナベ塚城が落城。十市郷南部が焼き払われる。また布施城に入った筒井方に細井戸・南郷両氏が同心。
26日、布施氏が高田郷を焼き払う。
*
11月21日
一乗院覚慶(後の足利義昭)、近江甲賀郡の和田惟政居館より和田惟政に守られて伊賀・甲賀路を下り、江州矢嶋へ出て、近江野洲郡矢島少林寺に移動。
六角氏属将矢島越中守に匿われる。近江守護六角氏当主六角義秀の母は義昭の姉。
永禄10年、さらに越前へ下向。  
*
11月27日
・北条氏康・武田信玄、関東の上杉方諸城への攻撃始める。
上杉輝虎は出陣要請を受け関東に出陣(6度目)。
27日、館山城(千葉県館山市)城主里見義弘が参陣。
上杉輝虎は、この年も関東で越年。
*
*
12月
・朝倉義景、有力商家(衣料の商い)の慶松家慶松太郎三郎に定書を与える(諸役免除、当知行地の安堵、国中諸関渡の荷物通行の保証などの従来の特権を確認し、三か荘分の蔵方要脚の運上や催促使について規定)。
越前の有力な衣料の商う商家は慶松家と橘家。
慶松家は永正12年2月の朝倉孝景の判物から、この頃には足羽三か荘の一つの社荘内神宮寺に居住と推定。
慶松家は足利義稙庶子慶松丸を中興の祖とする。大永年間に苗字を小武に改める。
朝倉氏に保護され三か荘の有力商人の筆頭に成長するが、朝倉氏滅亡後は信長方に属し、天正元年10月8日小武氏一族は本知10石余を信長から当知行安堵される。
*
・三好義継、京都大徳寺へ全5ヶ条の「禁制」下す(「大徳寺文書」)。
*
・ネーデルランド、ブリュッセル、貴族20名による「盟約」。ルードヴィヒ、ド・ハメス、ブレーデローデ、マルニクス兄弟。
オランダ独立運動の胎動
*
12月1日
・六角義賢(承禎)、上杉輝虎(謙信)へ、「公方様」の「御内書」を携帯した大館藤安が派遣されるから「上意」に応ずるよう指示(「歴代古案」)。
*
12月5日
信長(32)、細川藤孝へ、覚慶「御入洛」の「御内書」を拝閲した、度々了承したとおり「上意次第」即時「御供奉」する意思を表明
更に朝倉義景・武田義統へも早速出兵命令下すよう督促。
使者の大草大和守公正・和田惟政より申し上げるため「御取成」を依頼(「高橋義彦氏所蔵文書」)。使者2人は尾張で信長に面会。
21日、覚慶、和田惟政に宛てて、今後ぬかりなく信長を誘うための尽力を命じる。
*
12月19日
・中坊駿河守(松永方)2千、筒井より出陣、井戸城に入る。
松永久秀2千、河内・山城口へ出陣、相楽(南山城)に布陣。
*
12月20日
・郡山辰巳氏、松永方につき、大安寺・辰市へ出兵。
*
12月20日
・三好義継、京都阿弥陀寺に地子銭を寄進(「阿弥陀寺文書」)。
*
12月21日
・三好長逸ら三好三人衆の軍勢3千余、筒井党への援軍として河内から大和入り。
松永久秀、多聞山城から出兵、大和乾脇に交戦、大事に至らず。  
*
12月24日
堺津付近で激戦の三好義継・松永久秀両陣営からキリスト教信者共同で降誕祭儀式を行い、終了後、戦い再開
*
12月26日
・三好三人衆、撤退。多聞山勢、宝来・西京を焼く。
28日、多聞山勢が西京へ押し寄せるが、兵を少々損ねる。
*
12月27日
・三好長逸、勧修寺領百姓に年貢寺納を命令(「勧修寺文書」)。  
*
*
「★信長インデックス」をご参照下さい。
*  

0 件のコメント: