2011年10月24日月曜日

延暦10年(791)1月~6月 坂上田村麻呂、桓武の配慮で百済王俊哲と出会う 

京都北白川から市街を望む(2011-09)
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延暦10年(791)
1月18日
・第2次征夷のため、東海道・東山道に閲兵のための使者を派遣。
「正五位上百済王俊哲・従五位下坂上大宿禰田村麻呂を東海道に、従五位下藤原朝臣真鷲を東山道に遺して、軍士を簡閲し、兼ねて戎具を検ぜしむ。蝦夷を征するがためなり。」(『続日本紀』延暦十年正月己卯条)
延暦5年5月の時と同様、征夷に先立って東海道・東山道諸国の軍士を簡閲し、武器・武具を点検させる。

注目すべき点。
①延暦6年閏5月に日向権介に左遷され、同9年3月に許されて日向から帰京した百済王俊哲が派遣されている。
百済王俊哲は、宝亀5年(774)の38年戦争開始以来、鎮守副将軍・鎮守将軍などを歴任し、左遷中に行われた延暦8年の征夷以外の全ての征夷に参加している。
征夷に関する実戦経験の豊富さでは、当代随一の人物。

②後に征夷大将軍として活躍する坂上田村麻呂(34歳)が、初めて東北政策に関わり、百済王俊哲と共に東海道に派遣されている。
田村麻呂は、実戦経験の豊富な百済王俊哲から、征夷に関わる戦術や、蝦夷や彼らの住む東北について多くを学ぶ。
2人は半年後に征東副使に任命され、延暦13年の征夷で行動を共にする。
田村麻呂と征夷との関わりが、桓武の配慮で百済王俊哲との出会いから始まる
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3月
・国忌の対象が天智以降の歴代天皇(大友皇子〈弘文〉と大炊王〈淳仁〉は除く)ら16名になり、この月、太政官が国忌の整理を奏上。

「謹んで『礼記』を案ずるに曰く「天子七廟、三昭・三穆(さんぼく)と太祖の廟とともに七なり」と。また曰く「故きを舎(す)てて新しきを諱(い)む」と。注に曰く「親冬の祖を舎てて、新死の者を諱む」と。今国忌稍(やや)多く、親世もまた尽く。一日万機、行事多く滞る。請うらくは、親冬の忌、一に省除に従わん。」
宗廟(「おたまや」)で祀る対象を示す中国の古典『礼記』を参照している(一族(宗族)の初代とされる者を恒久的に残し、祀る本人の父系直系の先祖のうち近い方から、父・祖父・曾祖父と6人まで祀る方式)。

この時に残された国忌は、天智、施基とその妻(光仁の母)紀橡姫、聖武、光仁とその妻(桓武の母)高野新笠、現天皇たる桓武の妻藤原乙牟漏であろうと推測されている。
但し、聖武の国忌は、平城天皇の大同2年(807)には除かれる。
これにより、王朝の始祖は天智とされたことが確認される。

「国忌」は、過去の特定の天皇・皇后の命日のことで、この日は国家的な忌日(きじつ)とされ、政務を休み、追善の行事を行うことが、儀制令に規定されていた。

国忌の初見は『日本書紀』持統天皇元年(687)9月9日条の天武天皇一周忌だが、『続日本紀』大宝2年(702)12月2日条によれば、天武ばかりでなく、12月3日の天智の命日も国忌とされている。
山陵の取り扱いや不改常典(ふかいのじようてん)に関して同じく、天武系の皇統は、天智をその初代と認識していた
天武系の皇統のもとで編纂された『日本書紀』には、天智がいったん大海人皇子(後の天武)に譲位しようとしたという挿話を載せている(天智10年〈671〉10月17日条)。これを載せることで、大海人皇子には天皇として即位する資格が備わっていると天智が認定していた、という論理を組み立てようとした。
天智が初代、その正統な後継者としての天武が二代目、というのが奈良時代の公認歴史観であった。

その後、国忌とされた命日は、次第に増えてゆく。

慶雲4年(707)4月には、天皇になっていない草壁皇子の命日、天平宝字4年(760)12月には、文武夫人で聖武の母の藤原宮子(みやこ)と、聖武皇后の藤原光明子の命日、宝亀2年(771)5月には光仁の父の施基(しき)親王の命日、同年12月には、施基親王の妻で光仁の母に当たる紀橡姫(きのとちひめ)の命日が、それぞれ国忌に入れられる(以上『続日本紀』)。

この外、延暦8年(789)12月に死去した高野新笠(光仁の妻で桓武の母)、延暦9年(790)閏3月に死去した桓武皇后の藤原乙牟漏(平城・嵯峨の母)の命日も、国忌に入れられる。
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3月17日
・右大臣以下、五位以上の貴族を対象に甲(革甲)を造らせ、五位の富裕者には特にその数を増して、20領を造らせると定める。
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6月10日
・諸国に対し、鉄甲3千領を新様式で修理することを命じる。
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