京都、詩仙堂(2011-09)
*永禄9年(1566)
閏8月3日
・若狭小浜の住人や熊谷統直(義統の子の元明の擁立を企てる)が蜂起(「多聞院日記」同日条)。
義統支持の遠敷郡の武田信方や大飯郡の逸見昌経・武藤友益らが出陣、幕府奉公衆本郷信当の参陣もあり、反乱はどうにか鎮圧。
しかし、若狭国内は、武田氏家臣の離反・分裂が続き戦闘が繰り返されるという混乱。
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閏8月8日
・河野島の戦い。
斎藤龍興方大垣城主長井道利が攻撃しかけ、信長、大敗。
退却始めたところ、水嵩を増した木曽川に多くの兵がのまれる。
この頃から、信長の美濃攻めの舞台は西美濃に移る。
河野島の戦いが記されているのは、山梨県の中島家に伝わる『中島文書』のみ。
発給人は斎藤家の奉行人4人、宛先は不明。但し、宛先は武田氏関係者であることは確かで、この5年前に美濃の崇福寺から甲斐恵林寺(えりんじ)に移住した快川紹喜(かいせんじょうき)だという見方もある。
手紙の概要
「信長が義昭を擁立して上洛することを引き受けたので、義昭は織田・斎藤の停戦を仲介した。こちら(斎藤側)は義昭上洛のためを思って承知し、誓書を使者の細川藤孝に渡した。
こうして近江への通路も整ったので、藤孝が尾張に下り、急いで参陣するよう信長を催促したが、信長は動こうとしない。
義昭はたいへん機嫌をそこねている。
畿内で三好三人衆が義昭の上洛を妨げる画策しており、信長は躊躇しているようだ。
このままでは、義昭は矢島(現滋賀県守山市)にも止まることができず、朽木(現高島郡朽木村)か若狭あたりに移らなくてはならないという。
信長は天下の笑い物になっている。龍興は義昭を軽んずるつもはないが、しかたがない。」
「この八月二十九日、信長は尾張・美濃の境目まで出張してきた。その頃、木曾川は増水していたが、川を渡って河野島に着陣した。
すぐに龍興が軍を率いてそれに向かったが、信長は戦わずに軍を引き、川のふちに移動した。美濃軍も川を隔てて陣を布いた。
翌日、風雨が激しく、両軍とも戦いを仕掛けられなかった。ようやく水が引いて、美濃軍が攻めかかろうとしたところ、今月(閏八月)の八日の未明になって、にわかに信長軍は川を渡って退却を始めた。
ところが川は増水していたので、大勢が溺れてしまった。
そのほかの兵も、美濃軍に襲われて討ち取られたり、兵具を捨てて逃げていった。そのていたらく、前代未聞の有様である。」
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閏8月12日
・長尾輝虎、関東出陣を上野小泉城(群馬県邑楽郡小泉町)城主富岡重朝に報ずる。
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9月
・三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)、松永久秀制圧。
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9月5日
・上野金山城(群馬県太田市)城主由良成繁、長尾輝虎(謙信)に背き北条方に通ずる。
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9月6日
・オスマン朝スルタン・スレイマン1世(71)、ハンガリー、シゲト・ヴァール要塞を攻撃中に病没(1494~1566、位1520~1566)。
30日、スルタンにセリム2世が即位。
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9月9日
・霧島山噴火。
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9月11日
・木下藤吉郎(30)、州俣築塁開始。総勢2,500。斎藤勢の攻撃。3日で築塁、7~8日で城郭できる。
24日、築城成功。木下藤吉郎、墨俣を本拠として斎藤竜興の軍勢を破る。
「信長公記」などの資料の裏付けない。
秀吉が蜂須賀正勝を中心とする野伏(のぶし)たちを動員して、木曾川の向う岸に橋頭堡を築いたという記事を最初に載せたのは『太閤記』であるが、『太閤記』も、その場所が墨俣であるとは記していない。
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9月18日
・十市氏、筒井方に同心、田城に陣を置き柳本を攻める。
25日、筒井藤政(順慶)5千、奈良へ入る。西手掻で多聞山衆と山田・井戸衆の間に合戦、多聞山衆が少々討ち取られる。
28日、筒井藤政、成身院にて得度、陽舜房順慶となる。
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9月20日
・足利義秋(後の義昭)、武田家内紛により越前朝倉義景を頼り敦賀金ヶ崎に入る(「朝倉始末記」では9月晦日)。
既に、朝倉家に仕える明智光秀は、ここで義秋の近臣細川藤孝と邂逅。
義秋、上杉輝虎(後の謙信)へ大覚寺門跡義俊(義秋の母方の叔父)を派遣し上杉氏・北条氏の和平斡旋を促し出陣を要請(「上杉文書」)。
義俊・義秋は早くから朝倉義景・若狭武田義統・尾張織田信長に協力要請するが、越後上杉輝虎に期待するところ大といわれる。
義秋は輝虎上洛を促進するために相模北条・甲斐武田との3者和睦を命じ、本願寺顕如に加賀一向一揆と越前の和睦を命じる。
朝倉氏内部では、同10年3月に坂井郡の有力国人堀江氏が加賀一向一揆と結び義景に謀叛をおこすなど安定を欠いていたが、同年冬、加賀一向衆と朝倉氏の和睦が実現する運びとなり、11月21日義秋は敦賀から一乗谷へ移る(「越州軍記」)。
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9月29日
・武田軍、箕輪城(群馬県群馬郡箕輪町)を攻略(勝頼の初陣)、城主長野業盛は自害。
これを機に、上野金山の由良氏、上野小泉の富岡氏はじめ、上野の諸将が北条方に寝返る。
下野の皆川氏・佐野氏、常陸の小田氏、宇都宮氏も北条方に旗色を変える。
6月末、上杉謙信は籠城衆の小暮弥四郎に竜印状を与える。信玄は事前に調略を進めている。
以降も西上野での武田氏の侵攻は続く。
翌永禄10(1567)年3月末、白井城、5月惣社城(前橋市)を攻略し、西上野全域支配を完成。これと並んで同月(3月)、駿河・遠江国境付近で緊張高まる。
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10月20日
・本願寺顕如、加賀一向一揆と朝倉義景の講和を命令した足利義秋(後の義昭)へ拒絶の意思を通知(「顕如上人御書札案留」)。
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10月21日
・足利義秋、越前府中竜門寺入り。
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11月
・宝満城督高橋鑑種、毛利元就の調略に応じて反大友の挙兵を約束。鑑種の決起に秋月・筑紫・宗像・原田・麻生氏らも同調。
毛利元就は山陰の尼子氏を打倒し、永禄7年の和議の必要性がなくなった上での九州勢調略作業の再開。
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11月7日
・三好長逸、京都真乗院に深草の地を安堵(「真乗院文書」)。
9日、三好三人衆、京都仙翁寺村百姓に年貢納所を命令(「鹿王院文書」)。
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11月9日
・若狭守護武田義統、没。
長子の元明が家督相続。名目だけの存在、家臣の多くはもう元明に従わず。
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11月21日
・毛利元就、富田城の尼子義久を降伏させる。
11月28日、尼子義久兄弟、退城。
12月14日、尼子義久・倫久・秀久3兄弟を安芸高田郡円明寺(高田郡向原町)へ幽閉。
後、志路(広島市安佐北区白木町)に領地を貰い移住。
後、尼子義久は毛利家へ属し朝鮮や関ケ原に従軍、「尼子の切り取り千石」と評される武将となる(後、出家)。
山中鹿之助、戦傷を癒すため杵築で治療、翌永禄10(1567)年、湯治のため有馬温泉へ向かうが、以降の足取りは不明。一説では、京都に上り、尼子再興のための軍法などを学ぶため武田・上杉・北条・朝倉などの各地を廻り、3年後京都に戻る。
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11月21日
・足利義秋(後の義昭)、敦賀金ヶ崎から一乗谷へ赴き、朝倉義景に出兵を説くも応諾得られず。
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12月2日
・多聞山衆、吐田郷を焼き払う。
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12月5日
・この日付の武田信玄の厩橋城主北条高広で、今後の入魂を求める。
高広は、9月29日の信玄による箕輪城攻略の結果を見て、北条氏康の調略により、上杉氏から離反。
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12月7日
・足利義栄、摂津富田普門寺入り。
28日、「義栄」と改名、「従五位下」・「左馬頭」に叙任。
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12月8日
・利休息子(実子)道安(21)の記録上の最初の茶会。
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12月9日
・家康(25)、三河守を拝領。
11日、左京大夫を拝領。
29日、徳川姓を名乗ることを許される。山科言継が家康の徳川改姓のため奔走。
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12月20日
・長尾輝虎(謙信)、関東に出陣し沼田城に入り、佐竹義重に参陣を促す。
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12月21日
・三好長逸・三好政康ら、六角義賢と近江国坂本で会談。
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12月29日
・細川昭元、3月に次いで再度洛中洛外へ撰銭令を発す(「兼右卿記」)。
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