2011年10月27日木曜日

延暦12年(793)~延暦13年(794)5月 桓武天皇、征夷と遷都の準備を進める

東京、江戸城東御苑(2011-10-25)
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延暦12年(793)
1月1日
・前年閏11月に辞見した征東大使大伴弟麻呂が「征夷大将軍」としてあらためて節刀を授けられる。
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1月15日
藤原小黒麻呂・紀古佐美(2人とも征東大使経験者)を山背国葛野郡宇太村に派遣し、遷都予定地を視察させる。
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1月21日
・桓武天皇、「宮を壊たむと欲するに縁って」(長岡宮を解体するため)、「東院に遷御」。(「日本紀略』)。
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2月2日
・桓武、遷都候補地葛野郡の地主神(じぬしのかみ)である賀茂神に遷都の報告を行う。
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2月17日
・「征東使を改めて征夷使となす」と決定。
宝亀11年(780)以来用いられてきた「征夷使」の呼称をやめて、「征夷使」の呼称が採用される(『日本紀略』)。

この頃、平安遷都が具体化しつつある時期で、これまでの「征東使」が引きずってきた光仁朝の征夷の継続という性格を払拭し、征夷が造都と並ぶ桓武朝独自の事業であることを内外に印象づける意味があったと推定される。

征夷と遷都を組み合わる構想は、新京造営が具体化した延暦12年正月頃に始まる。
征東使から征夷使への改称も、この構想に連動するもの。
征東大使・征東将軍がこれ以後「征夷大将軍」と呼ばれるようになる。
胆沢制圧のための再度の征夷は、この時点で次の遷都を演出する政治的役割を担わされる。
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2月21日
征夷副使坂上田村麻呂が辞見(謁見と辞別、赴任の挨拶)。
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3月
・桓武自身が現地を巡検。
宮に取り込まれる百姓(おおみたから、公民)に恩恵を施し、伊勢大神宮に遷都の旨を報告した上で、五位以上あるいは諸官衙の主典(さかん)以上の者に造宮に従事する役夫(えきふ)を進上させる。
新京の宮城の内にとりこまれる百姓地44町にたいして3ヶ年の価直(あたい、耕地の収穫の代金)を給することにする。
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6月
・新宮の諸門を造らせる。
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7月
・遷宮使等を褒賞
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9月
・官人たちに京の宅地を班給
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延暦13年(794)
・延暦13年は『日本後紀』の欠失部分に当たる。
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・桓武天皇は、菅原古人(ふるひと)の侍読の労を追懐して子の清公(きよきみ)らの奨学のために衣類を給す。
この年、越前国の水田102町余(さきに朝廷が没収した大伴家持の家産の一部)を大学に付して勧学田とする。
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1月1日
・桓武、「東院」(長岡宮解体のために引っ越した仮の内裏)で、征夷大将軍大伴弟麻呂(64)に節刀を与える。正月1日の節刀下賜は例がなく、桓武の意気込みを示す。    

 征夷軍編成
『日本後紀』弘仁2年(811)5月壬子条に、
「去ぬる延暦十三年の例を検ずるに、征軍十万、軍監十六人、軍曹五十八人」とある。
征夷軍10万、征夷大将軍1人・副将軍4人の下に、軍監16人・軍曹58人という多数の軍監・軍曹がいた。

延暦8年(789)の征夷では、「別将」と呼ばれる多くの下級指揮官が実戦部隊に配置されていたが、彼らの地位の低さが敗戦の主因でった(桓武自身が指摘)。
彼らは軍毅・郡司・郡司子弟などの地方豪族であったと思われるが、今回の征夷では、彼らの多くを征討使の軍監・軍曹に任用し、征討使という一つの官制体系の中に位置づけ、指揮系統を明確化したとみられる。
軍監・軍曹の増加は、これ以後の征夷軍編成においても踏襲される。
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1月16日
・征夷の実施を山階陵(やましなのみささぎ)と田原(たわら)陵に告げる。
山階陵は天智天皇(桓武の曾祖父)陵、田原陵は光仁天皇(桓武の父)陵でである。
征夷に関わって山陵祭祀が行われたのはこれが唯一であり、しかも自分の直系父祖に戦勝を祈願している。
前年3月25日にも、山階陵と後田原(のちのたわら)陵(光仁天皇陵)・先田原(さきのたわら)陵(施基親王=春日宮天皇陵、桓武の祖父)に遷都の由を告げているが、遷都に伴う山陵祭祀も他に例がない。
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1月17日
・征夷のため参議大中臣諸魚を伊勢神宮に派遣して奉幣。
前年3月10日に、参議壱志濃王を伊勢神宮に派遣して奉幣し、遷都の由を告げていることに対応する。
桓武は、遷都と征夷を組み合わせて行うという難事業を、父祖の霊や皇祖神の加護を得ながら成功させようとしている。
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5月
・安殿皇太子の妃藤原帯子(たいし、百川の娘)が早逝
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