2011年10月29日土曜日

川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(3) 「二 老翁、俗を脱したり - 「老人」への共感」

東京、江戸城東御苑(2011-10-25)
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川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(3)
「二 老翁、俗を脱したり -  「老人」への共感」
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荷風は老人趣味を持つだけでなく、実際にも老人が好き。
寡黙で律義な職人的な老人や、生ま生ましい現実から降りてしまった世捨人的な老人が好き。

昭和10年10月25日午後
電車で浅草に行き、公園を歩く。千束町で偶然、以前家で働いていた派出婦に会い、誘われるままに彼女のアパートに行く。
そのあと夕暮れの待乳山にのぼり、聖天町、猿若町を歩き、山谷堀に沿って日本堤の方へ歩き、そこで路地裏に小さな古本屋を見つける。

「日本堤東側の裏町を歩み行く時、二間程の間口に古雑誌つみ重ねたる店あるを見たれば硝子子戸あけて入るに、六十越したりと見ゆる坊主の亭主坐りゐて、明治廿二三年頃の雑誌頓智会雑誌十冊ばかりを示す」

「禿頭の亭主が様子話振りむかしの貸本屋も思出さるゝばかり純然たる江戸下町の調子なれば、旧友に逢ひたる心地し、右の雑誌其他二三種を言値のまゝにて購ひ、大通に出ればむかしの大門に近きところなり」

この光景は、のちに「濹東綺譚」冒頭でさらに好ましく描かれる。

「わたくし」は、浅草の帰りにわざわざ回り道をして、この日本堤の裏町にある古本屋を訪ねる。
「然しわたくしがわざわざ廻り道までして、この店をたづねるのは古本の為ではなく、古本を鬻(ヒサ)ぐ亭主の人柄と、廓外の裏町といふ情味との馬である」

そして荷風は、古本屋の老主人を、江戸時代の職人か市井の生活者に見立てて、
「主人は頑を綺麗に剃った小柄の老人。年は無論六十を越してゐる。その顔立、物腰、言葉使から着物の着様に至るまで、東京の下町生粋の風俗が、そのまゝ崩さずに残してゐるのが、わたくしの眼には稀観の古書よりも寧ろ尊くまた懐しく見える。震災のころまでは芝居や寄席の樂屋に行くと一人や二人、かういふ江戸下町の年寄に逢ふことができた----」

荷風は下町の陋巷に控え目に生きる老人の姿に、生活者の確かな生きようを重ね合わせる。
荷風が下町を愛したひとつの理由は、路地のなかに一歩でも入れば、そこに、こんな律義な老人、「江戸下町の年寄り」の清々しい姿を見ることが出来たからに違いない。

現実社会への違和感が強まれば強まるほど、荷風は実社会との接触が相対的に少ない老人たちに思い入れををする。
老人たちは社会の周縁にいるからこそ、逆に俗界の生ま生ましさにも汚染されていない。
荷風の老人への愛情は、現実社会への違和感と表裏の関係になっている。

昭和17年11月24日午後
大石医師の中洲病院に行く。いつものように滋養注射をしてもらう。そのあと浅草まで足を延ばす。観音堂に詣で、おみくじを引くと吉と出る。そのあと路地裏に入り、そこで好ましい老人を見る。

「辯(ママ)天山下の路地を過るに竿敏と障子にかきたる釣竿屋の店先に白髪禿頭の一老翁、餘念なく釣竿をみがさゐたり。
其風貌今の世には見る可らざる程俗を脱したり
歩を停めて眺むること暫くなり」

荷風は俗臭には目をつぶり、下町の老人を、古き良き過去にひっそりと殉じようとする清潔、清貧の古老と描き出そうとする。
荷風は古本屋の主人や釣竿屋の主人を、時代に汚染されていない良き古老に見立てていく。
荷風は、客の自分と古本屋の老主人を人情本の登場人物であるかのように仮構している。

「日乗」大正13年4月22日。
「一昨日小石川を歩みてなつかしき心地したれば、今日もまた昼餉を終りて直に家を出で、小日向水道町日輪寺に往き老婆しんの墓を吊ふ。
おしむ婆吾家に在りてまめまめしく働きしこと二十餘年なり」

「老婆しん」の墓参り
市井に生きる無名の老人に対する愛情。

「老婆しん」とは? 「日乗」大正8年5月30日。
「昨朝八時多年召使ひたる老婆しん病死せし旨その家より知らせあり。
この老婆武州柴又邊の農家に生れたる由。
余が家小石川に在りし頃出入の按摩久斎といふものゝ妻なりしが、幾ばくもなく夫に死別れ、諸処へ奉公に出で、僅なる給金にて姑と子供一人とを養ひゐたる心掛け大に感ずべきものなり。
明治二十八九年頃余が家一番町に移りし時より来りてはたらきぬ。
爾来二十餘年の星霜を経たり。
去年の冬大久保の家を売払ひし折、余は其の請ふがまゝに暇をつかはすつもりの処、代るものなかりし為築地路地裏の家まで召連れ来りしが、去月の半頃眼を病みたれば一時暇をやりて養生させたり。
其後今日まで一度びも消息なき故不思議の事と思ひゐたりしに、突然悲報に接したり。
年は六十を越えたれど平生丈夫なれば余が最期を見届け逆縁ながら一片の回向をなし呉るゝものはこの老婆ならむかなど、日頃窃に思ひゐたりしに人の寿命ほど測りがたきはなし」

「新橋夜話」の一篇「見果てぬ夢」(「中央公論」明治43年1月号)の老車夫「助造」
父から譲り受けた古い家屋敷を手放さなければならなくなった高等遊民の男の感慨を語ったもの。父の期待に応えなかった荷風自身の思いが重ねあわされている。
最後まで若主人に仕えようとする「助造」という老車夫には「老婆しん」の面影を見ることが出来る。

この主人公の思い。
「つまり彼は眞白だと称する壁の上に汚い様々な汚点を見るよりも、投捨てられた襤褸(らんる)の片(きれ)に美しい縫取りの残りを發見して喜ぶのだ。
正義の宮殿にも往々にして鳥や鼠の糞が落ちて居ると同じく、悪徳の谷底には美しい人情の花と香しい涙の果實が却(かへて)て澤山に摘み集められる・・・」

荷風の審美感

時折り、諦念のような感慨が市井の人に向けられるところがあり、狷介孤高の荷風の別の一面を感じさせる。

大正15年1月3日
「四鄰今宵は寂然として蓄音機ラヂオ等の響も聞えず、崖の竹林には風の音絶えて、初更の静けさ蚤(ハヤ)くも深夜の如くなるに、忽然門外に怪しき声す。
聞馴れぬ人は山羊の鳴く声かと思ふべし。
是向側なる某氏の家の小児にして、齢十歳ばかり、白痴にて唖者なるが、寒さをも知らぬとおぼしく、毎夜門巷を徘徊するなり。
昼の中は近鄰の児童この唖児を嘲り、石など投るもあり。
二三年前までは母親ともおぼしき老女、附添ひて、稀に門外に出るのみなりしが、この頃は看護るものもなく、昼夜晴雨を分たず彷徨するなり。
今宵の如き寒夜または霖雨しとしととわびしく降る夜など、唖児の何を叫ぶとも知れぬ声一際気味わろく物哀に聞ゆ。
親なる人の心いかゞと思遣れば又更に哀なり

昭和2年4月25日
偏奇館近くを盲人の納豆売りが12、3歳の女の子に手をひかれて朝夕、納豆を売り歩く姿を書きとめている
「又去年あたりより盲人の納豆売十二三歳なる小娘に手をひかせ市兵衛町より飯倉仲ノ町邊を朝夕売り歩く、冬の雨ふりしきる夕暮などには其声殊にかなしく聞ゆるなり

偏奇館にこもり現実社会と距離を取るに従って荷風の目には、世を降りたような老人たちや社会の周縁にいる人々の姿が目に入ってくる。

中心が遠去り、周縁が近づいてくる。

明治42年(29歳)「新小説」に発表された「すみだ川」、若い主人公長吉の幼ない恋を見つめる俳譜師松風庵蘿月。年齢60歳近く。世間から降りて、隅田川の向こう、向島小梅町あたりに侘び住まい。文明開化の時代に背を向けて古い江戸情趣の世界にひたろうとする過去追慕者。

反時代的人物。
時代遅れの人間。

大正5年「文明」に発表の短篇「うぐひす」の老人「小林さん」。
家庭を持たなかったこの老人は、「(一人暮しは)折々不自由な事もありますが、然し何しろ静でよう御座います。獨りで暮したいのは申さば私の年来の望みなので・・・」といい、鴛の鳴合せというような風雅な楽しみに喜びを見出す。

私は王政復古の際に薩長の浪人どもが先に立って拵へた明治の世がいやで成らないのです

私の悪(にく)むのは薩長の浪人が官員となって権勢を恣(ほしいまま)にし一国上下の風俗人情を卑陋(びろう)にさせた事を申すのです

「私はかうして獨身で暮してゐるかぎりには鯰や鰌の世の中に交る必要がない。
門を閉ぢ客を断れば狭しと雖もわが家は城郭です。
木と花と鳥とが春夏秋冬を知らせるばかりです」

荷風の旧幕臣好みの心情。
敗れ去っていったものに詩情を見る。
その敗北の美をもっともよく体現してくれるのが、世を捨てた一人暮しの老人である。

荷風の老人へのこだわりの裏には、薩長の作り上げた明治という実利文明に対する反発がある

荷風にとって老人とは、つねに、そういう良き世捨人であり、風流人である。
明治の文明に対して江戸の文化を体現した、古き良き文人である

「新橋夜話」の一篇「松葉巴」(「三田文学」明治45年7月号)の「多町の隠居」(多町は神田の町)と「(神田)明神社内の待合千代香の親方」も「うぐひす」の「小林さん」と同じように「明治の世」にさらりと背を向けた老人。

実利実学尊重の文明開化に反発し、他方で、フランス語の原書を読む先端的な明治の知識人でありながら、それゆえにこそ皮相な西洋文明の受容に反発し、時代遅れと見られていた江戸情趣の古い世界に入っていく。


先端と後方、明治文明と江戸文化、実利と無用。
その二律背反が荷風のなかに複雑に入りくんでいる

アメリカとフランスに留学した明治の先端的知識人である青年荷風が、日本の皮相な西洋文明受容のさまに絶望したからといって、それをあからさまにいいたてることは、恵まれた知識人の倣慢でしかない。

啄木「きれざれに心に浮んだ感じと回想」(「スバル」明治41年11月号)が荷風の「新帰朝者日記」を批判したように「東京で遊んで帰ってきた金持の道楽息子が田舎芸者を笑うようなもの」である。

明治文明の豊かさを享受して西洋に留学し得たエリートの「明治の二代目」が、帰国後、西洋文明を模倣しようとして必死になっている日本の現状を、高見の見物的に嘲笑することは、倣慢であり、嫌味である。
荷風は、それに気づき、「老人」というフィクションを使い、「老人」という衣裳を着た

荷風は、文明批判のためのひとつの手法として「老人」を前面に出してきたのである


しかし、文明批判のための技法として「老人」を使ったとはいえ、本来の気質として、老人趣味、老人好みがあったこともまた事実。


大正5~6年の花柳小説「腕くらべ」の、新橋の芸者置屋、尾花屋の老主人、木谷長次郎。

「つゆのあとさき」(昭和6年)の世捨人的な老人、清岡老人。
東京帝国大学教授(専門は漢学)で、妻に先立たれ、退官を機に、東京郊外の世田谷、豪徳寺あたりに引込み、読書と庭いじりの静かな日々を送っている。

「ひかげの花」(昭和9年)の塚山老人。
私娼の娘で、親戚などの家をたらい回しにされて育ち、やがて自分も私娼になるたみ子というひかげの女に同情を寄せる。
昔は実業家だったが早々に身を引いてしまった世捨て人。

丸谷才一。
「彼(荷風)の長編小説の片隅にほとんど常に置かれてゐる東洋的な老人の姿は、その抒情的な沈黙によって画面を安定させているのである」(『言論は日本を動かす』第3巻解説、講談社、昭和61年)

(「わが荷風」)
「荷風は、明治維新後の性急な近代化を嫌った。
古い世界を壊して突き進んでいく文明を嫌った。
にもかかわらず自らも文明の子であることを自覚していた。
だから、その嫌悪感をなまの形で出すこともできなった。
そのとき荷風は、「老人」という存在に注目した。
現実との関わりが少ない老人たちのなかに清潔さを見た。
江戸文化の名残りを見た。
そして荷風は、「現実が嫌いだ」という否定的な思いを、「老人が好きだ」という肯定的な思いに変えていった。
「老人」という理想型を造形することで、現実嫌悪や文明批判の生ま生ましい感情を冷却させていったのである。」

この江戸粋人の流れをくむ衰残の老詩人ともいうべき余計者の典型である蘿月は、荷風ごのみの存在で、『新橋夜話』中の一篇である『松葉巴』の多町の隠居、『うぐひす』の小林、『腕くらペ』の倉山南巣と講釈師の楚雲軒呉山などにも再現三現される。
そして、『つゆのあとさき』の老漢学者・清岡熙や『ひかげの花』の元電気工場主・塚山のような人物をも造型させているが、『すみだ川』は蘿月が小梅の自宅を出て対岸の今戸に住む妹のお豊をたずねて行くところからはじまる。
以上は(「わが荷風」)から。
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