2011年10月4日火曜日

天応元年(781)5月~天応2年1月 宝亀11年の征夷(38年戦争第2期)終了  氷上川継の変

天応元年(781)
5月27日
・紀古佐美、大伴益立に替わって陸奥守となる。
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6月
・桓武天皇、十分な戦果がないまま軍を解散し、入京を申請した持節征東大使藤原小黒麻呂を叱責
伊佐西古・諸絞・八十嶋・乙代らの「賊中の首にして、一を以て千に当たる」人物の首を一つも斬らないまま軍を解散し、「賊」4千人余に対して、首を斬ったのは僅か70人余である。
にもかかわらず、凱旋(戦勝報告)を献ずるために早く入京したいと申請したことは、「たとへ旧例ありとも、朕取らず」と厳しく譴責。
征東副使の内蔵全成または多犬養を入京させ、「軍中の委曲」を報告するよう命じる
(『続日本紀』天応元年六月戊子条。全成と犬養は後から補充された征東副使とみられる)。

前年6月28日、光仁天皇が持節副将軍大伴益立を譴責した時には、軍監以下を入京させて委曲を報告せよとしており、それよりも厳しい内容。

桓武が、「賊中の首にして、一を以て千に当たる」として名指しするのは、「伊佐西古(いさせこ)、諸絞(もろしめ)、八十嶋(やそしま)、乙代(おとしろ)」らである。
この謀反(むへん)を始めたのは呰麻呂であるが、呰麻呂の行方は依然不明。しかし、呰麻呂を血眼になって捜している形跡はない。

「伊佐西古」は、宝亀7~8年の征夷に伴う論功行賞で、伊治公呰麻呂とともに外従五位下を授けられた吉弥侯伊佐西古(きみこのいさせこ)のこと。
「一を以て千に当たる」ほどの武力を持ち、俘軍を率いて国家に協力していた蝦夷の豪族たちは、ことごとく国家から離反している

続いて行われる桓武朝の征夷では、もはや俘軍の参加は確認できず、呰麻呂の乱を契機として、征夷は律令国家対蝦夷の全面戦争の様相を呈してくる
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・この月、右大臣大中臣清麻呂の致仕(ちじ=引退)、
大納言石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)の没(6月24日)。
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7月
・この月、富士山噴火により火山灰が降ったことが報告されている。
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8月25日
・この日、持節征東大使藤原小黒麻呂らが帰還。
伊治公呰麻呂の乱に端を発する宝亀11年の征夷(38年戦争第2期は、十分な戦果を上げることなく事実上終了


記録が無いため戦闘の終了時期は不明。
藤原小黒麻呂は、「征伐事畢入朝(征伐事業を終えて朝廷に戻った)」と『続日本紀』にある。
但し、「遺衆猶多」とあり、残党がなお多くいたという。

8月25日に入京した藤原小黒麻呂は、正四位下から特に正三位に叙され、
9月22日には、紀古佐美(征夷副使)・百済王俊哲(鎮守副将軍)・内蔵全成(征東副使)・多犬養(征東副使)・多治比海(陸奥介)・百済王英孫・阿倍猿嶋墨縄・入間広成ら10人が「征夷之労」によって叙位される。

この年6月、戦果が不十分なまま凱旋することを「朕取らず」と述べた桓武が、この月に征夷関係者を褒賞しているのは奇異。
内蔵全成か多犬養の説明を聞いて納得したか、2ヶ月の間に再度軍士を集めて征討を行わせたかのいずれかと推測できる。

9月26日には、大伴益立を譴責して位階を剥奪する一方で、小黒麻呂については事実に反して「到りて即ち軍を進め、亡ふところの諸茎を復す」と絶賛している。
征夷が遅れた原因を大伴益立一人に背負わせることで、他の将官たちは罪を免れた。
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9月26日
・大伴益立、従四位下を奪われる処分を受ける。
征東副使として出発するに際し、従四位下を授けられたにもかかわらず、征討の時期を誤り、逗留して進まず、いたずらに軍粮を費やした。
新たに大使藤原小黒麻呂を派遣したところ、ただちに進軍し、呰麻呂の乱で失われた諸塞(城冊)を復旧することができた。
益立は進軍しなかったことを譴責され従四位下を奪われる(『続日本紀』天応元年九月辛巳条)。

益立の子の野継は、父は讒言に遭ったと訴え、承和4年(837)5月25日、父の名誉回復に成功。
益立は従四位下に復される(『続日本後紀」承和四年五月丁亥条)。
副使紀古佐美らとの間に何か確執があったのかもしれないが、事の真相は不明。
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12月
・太上天皇となった光仁(73)、没。
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天応1年(782) :8月「延暦」改元
1月
氷上川継(ひかみのかわつぐ)の変
この年初め、氷上川継の従者大和乙人(やまとのおとひと)が武器を手に宮中に乱入し捕らえられる。この男の白状によれば、閏正月10日を期して平城宮に押し入り、新帝桓武を廃して、川継を皇位に即けようとする陰謀があるという。
桓武は直ちに川継を逮捕し、光仁太上天皇没後1年を経ていないとの理由で死一等を減じ、妻とともに伊豆に配流。

川継は、祖父が天武の皇子新田部(にいたべ)親王で、かつて皇太子候補になったこともある塩焼王(しおやきおう)の子で、母は聖武天皇の娘不破内親王(従って井上内親王の妹)。
血統から見れば桓武に遜色ない。
父母ともに天武系(生母が聖武の娘)で、川継は、光仁・桓武父子の王朝の成立には不満を持っていたと推測できる。

川継の妻は、京家の藤原麻呂(まろ)の子の浜成の娘。
浜成は参議兼侍従として台閣に座を占めていたが、事件の前年、赴任先の大宰府での勤務状態に問題ありとして、大宰帥を解任されている。
川継の周辺には怨望、不平、反発、謀反の空気が満ちており。桓武らも、川継の出方を監視していたと思われる。

事件の結果、参議藤原浜成が参議・侍従の地位を奪われ、三方(みかた)王・山上船主(やまのうえのふなぬし)・左大弁参議大伴家持・右衛士督(うえじのかみ)坂上苅田麻呂以下、連坐する者も多い(家持・刈田麻呂はすぐに復位)。
三方王、弓削女王、山上船主は、天皇を呪い殺そうとしたという理由で、かさねて官の追及をうける。

また事件との関連は不明ながら、この年5月、左大臣大宰帥藤原魚名(藤原北家、永手の弟)とその一家が、解任・左遷される。
魚名は翌年に没し、浜成は延暦9年の没年まで太宰員外帥(いんがいのそち)のままおかれ中央復帰はない(藤原京家の没落)

■桓武の負いめと猜疑心(北山茂夫)
桓武の父の血筋は、天智の一庶腹の系統とはいえ、桓武は天智の孫という誇りを抱いていた。
しかし、母系は渡来人系で、生母の高野新笠は、百済からの亡命民の後裔、和乙継(やまとのおとつぐ)の女。父白壁王(光仁)が聖武の朝廷に仕えていたの天平9年(737)、山部王(桓武)をもうけた。
山部王は、父白壁王の異腹の諸子のなかで長子である。
父白壁王(光仁)が井上内親王を妃としたのはそれ以後のこと。    

山部(桓武)が従五位下に叙せられたのは28歳のときで非常に遅い。それでもこれは、父が中納言に起用されたことに負うところが極めて大きい。
そしてこれ以後、彼は力量を示す機会を多くつかみ、諸王のなかでも頭角を現わしてくる。また、野心家の百川なども早くから山部の器量に注目している。

山部が34歳の時、父白壁王は光仁として即位。山部は直ちに侍従に任ぜられ、ついで親王宣下をうけ、さらに要職、中務(なかつかさ)省の卿(かみ=長官)に起用される。

しかし、山部の前には異母弟の他戸皇太子という大きな壁がある。他戸の母は、聖武の娘の井上皇后である。たじろぐ山部を励ます藤原百川は、山部を皇太子につける野望を持っている。

井上皇后も百川の動きを知って焦っていたのか、彼女は皇太子他戸の安泰を願って侍女たちにある種の呪術をやらせた。

百川は、その情報を入手して、それを光仁への讒訴の材料として、井上皇后・他戸皇太子の追い落としに成功する。
かくして、山部親王は皇太子となり、その第二の人生が始まるが、この残酷な事件は、二つのものが山部(桓武)の生涯にまつわりつくことになる。
一つは井上皇后と他戸皇太子の怨霊(その後すぐに異母弟早良の怨霊が加わる)
一つは藤原氏への負い目と。
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