昭和16年(1941)10月23日
十月廿三日。小春の日和つゞきて勝手口に洗流しの米粒あさりに来る雀の聲もたのし気なり。
門外は折々防空演習の人聲さはがしきことあれど吾家の庭は夜毎の露霜に苔いよいよ深く、山茶花のしげみに鶯の笹啼絶えずいつもより静にさびしく暮れ行きぬ。
黄昏の光消えやらぬ中にと急ぎて夕餉の支度をなし窓に黒幕を引きて後燈火の漏れはせずやと再び庭に出でゝ見るに、向側なる崖の上に四五日頃の片割月落ち残りて空あかるし。
飯後夜具敷きのぺ宵の中より蓐中に陶集をよみて眠の來るを待ちぬ。陶淵明が詩を誦せんには當今の時勢最適せし時なるぺし。
(略)
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10月25日
十月廿五日。快晴。雲翳なし。庭に残蝶の飛ぶを見る。
晩食の後淺草に徃く。煮豆ふくませ罎詰葛等を得たり。
市中の散歩も古書骨董を探るが為ならず餓饑道の彷徨憐れむべし。
オペラ館楽屋に少憩してかへる。・・・(略)
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10月26日
・十月廿六日 日曜日 昨日に劣らぬよき日なり。家に在りて陶集を讀む。晩間出でゝ芝口に飯す。
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10月27日
十月廿七日、晴れて風あり。
牛後散歩。
谷中三崎町坂上なる永久寺に仮名垣魯文の墓を掃ふ。
團子坂を上り白山に出でたれは原町の本念寺に至り山本北山累代の基及大田南畝の墓前に香花を手向く。南畝の基は十年前見たりし時とは位置を異にしたり。南岳の墓もその向變りたるやうなり。
寺を出で指ケ谷町に豆腐地蔵尚在るや否やを見むと欲せしが秋の日既に暮かゝりたれは電車に乗りてかへる。
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10月28日
十月廿八日。晴。風邪心地なり。・・・。
日の暮るゝを待ち芝ロの金兵衛に至るに宵のロまだ七時にならざる中配給の魚介少きため料理出来ず客をことわり居たり。
盬鮭と味噌汁にて茶漬飯を食す。
歌川氏來る。紀の國屋倅田之助來る。十年ぶりにて逢ひしなり。この頃役者連自動車なきためいづれも遠方より雑沓の電卓に乗りて木挽町へ通ふと云。
かみさん紙筆を持出し賣切の札かけと言ひければ、
酒肴みな賣切に鳴海潟
汐もそこりて干物さへなし
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10月29日
十月廿九日。晴。
谷町電車通の焼芋屋久しく休みゐたるに芋俵の配給ありしとて早朝よりふかし芋を賣出す。買はむとするもの行列をなしたり。
それ焼けたとわめき集る人のむれ
芋屋のさわざ火事場なりけり
ふかし芋ふかす藁火も飢る子の
うれし涙に消ゆるわびしさ
釜のふたあけて取り出す焼芋は
地獄の鬼の角とこそ見め
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10月30日
十月三十日。晴。
伊太利亜友ノ會白鳥敏夫と云ふ人突然同會の評議員に余を推挙したりとて、役人くさき辞令書の如きものを書留郵便にて送り來りたれば、直に拒絶の手紙を添へて右の辞令を返送したり。
不快の感を一掃せむとて牛後淺革公園に徃きオペラ館踊子大勢と森永に夕飯を喫し汁粉屋土筆に汁粉を食す。
砂糖の不足を補はむとて西瓜糖また蜂蜜などを用ゆるためにや、汁粉の甘味一種異様なるも可笑し。
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10月31日
・十月卅一日。
夜八時頃淺草より歸る時、地下鐡道の乗客中に特種の風俗をなしたる美人を見たり。
年廿歳ばかり、圓囲顔にて色白くきめ細にして額廣く鼻低からず、黒目勝の眼涼しく少しく剣あり。
髪は後にて束ね角かくしの如き黒地のきれを額に當てたり。
紺地のあらき絣の着物に黒の半纏をかさね帯は幅せまき布をぐるぐる巻きにし、はでなる染物に黒地のきれにて縁を取りし前掛をしめ、結目を大きく帯の上に見せたり。
着物半纏ともに筒袖なり。着物のきこなしより髪の撫付様凡て手綺麗にて洗練せられたる風采、今日街上にて見る婦女子に(ママ)比にあらず。おぼえず見取るゝばかりなり。琉球の女にあらずばアイヌの美人ならむ歟。
二三年前銀座通にて同じ風俗の女二人連にて歩めるを見しことあり。其時は夏なりし故髪かざりの布は白地にて細かき刺繍を施したり。半纏はなかりし故巻帯の後ざま能く見えたり。着物はその時も絣なりき。いづこの風俗ならむ。
色彩の調和よく挙動の軽快なること日本現代の服装の俗悪野卑なるに似ず遥に美術的なり。
淺草松屋の下より乗りて京橋にて降りたり。同伴の者なく一人なり。履物は普通のフェルト草履に白足袋をはきたり。この圖の如し。
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谷中の永久寺はココにあります
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本念寺はココです。
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