2011年10月23日日曜日

延暦9年(790) 桓武天皇、第2次征夷の実施を表明 相次ぐ身内の不幸(生母と后妃3人を相次いで没す) 坂東の疲弊

江戸城二の丸池(2011-09)
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延暦9年(790)
2月
・延暦8年の征夷で征東副使であった入間広成、従五位下に叙される。
3月には常陸介に任じられる。
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3月
・延暦8年の征夷で征東副使であった多治比浜成、陸奥按察使兼陸奥守に任じられる(延暦九年三月丙午条)。浜成は延暦8年の征夷では1人だけ戦功を賞されていた。
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閏3月4日
桓武天皇、第2次征夷の実施を表明

「勅して、蝦夷を征するために、諸国に仰せ下して、革の甲二千領を造らしむ。東海道は駿河以東、東山道は信濃以東、国別に数あり。三箇年を限りて、並びに造り訖らしむ。」(『続日本紀』延暦九年閏三月庚午条)。
蝦夷を征するために、駿河以東の東海道諸国と、信濃以東の東山道諸国に命じて、革の甲(よろい)2千領を3年間で造らせるという勅。当時は年数を足かけで数えるので、「三箇年を限りて」は、納品期限は延暦11年となる。

従って、桓武朝第2次征討は延暦11年か12年に行われる予定であり、この勅はそれを表明したもの。

既に、宝亀11年(780)8月、諸国で製作する年料の甲冑を鉄製から革製に変更することが指示されている。理由は、革製の甲は鉄製の甲に比べて丈夫で錆びず、身に付ければ軽く、矢に当たっても貫通し難いことである(『続日本紀』)。これを征夷でも積極的に使用すべく、東国にその製造を命じる。
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閏3月10日
・桓武の皇后の藤原乙牟漏(31)、没
乙牟漏は百川の兄・良継の娘で、皇太子安殿親王(後の平城天皇)、神野(かみの)親王(後の嵯峨天皇)の母。
母を失って3ヶ月後のこと。

相次ぐ身内の不幸に、桓武天皇は恐れを懐き始めたらしく、閏3月16日、「国の哀(かなしみ)相尋(つ)ぎて、災変未だ息(や)まず」との理由で天下に大赦を行う(『続日本紀』)。

旅子・乙牟漏の死去は、種継の暗殺と相まって、藤原式家の没落をもたらし、代わって藤原氏本来の嫡流である南家が継縄(つぐただ、豊成の子)を代表として勢力を伸ばす。
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閏3月29日
・桓武天皇は、蝦夷を征するため、相模以東の東海道諸国と、上野以東の乗山道諸国に、軍粮の糒14万斛を準備することを命じる。
翌年11月3日にも坂東諸国に対して軍粮の糒12万余斛の準備を指示する。

これを合計すると、坂東諸国は26万余斛の糒を作って陸奥国に運ぶことになる。前回の征夷で東海・東山・北陸道諸国に用意させた糒が2万3千余斛であるから、桁違いの量である。
第1次征討において、軍粮の補給が大きな問題であったことを踏まえた措置であろう。
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7月21日
・乙牟漏と同じく皇太子時代から桓武に連れ添っていた坂上又子、没
又子は坂上苅田麻呂の娘、田村麻呂の姉か妹。年齢不明(田村麻呂は33歳なので、30歳代であろう。)
桓武天皇は、2年間に生母と后妃3人を相次いで失う

この頃、延暦9年秋~冬、長岡京と畿内を中心に天然痘(裳瘡もがき)・豌豆瘡(えんどうそう)が流行し、特に30歳以下の若年層が発病し死者も多いという(『続日本紀』延暦九年是年条)。
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9月3日
皇太子安殿親王が病気になり、桓武天皇は長岡京内の七つの寺に読経を命じる(『続日本紀』)。
病気は「風病」といわれる精神的な病で、翌年10月、翌々年6月にも病気が悪化している。
平城天皇となったあと、退位する原因も風病である。

桓武は、一連の不幸の原因が早良親王の崇りである可能性を考えたようで、この年、淡路にある早良親王の墓に墓守1戸を置き、付近の郡司に管理を担当するよう命じる(『類聚国史』巻25延暦11年6月庚子条)。
但し、この時点では早良親王の崇りは可能性の域に留まっており、正式には認定されていない。従って、長岡京造営は続行されている。
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10月19日
延暦8年の征夷に伴う論功行賞(最大規模の論功行賞) 
有功者4,840余人に対して、天応元年(781)の例に従って、功績の軽重に応じて勲位を授け位階を進めるという、これまでで最大規模の叙位・叙勲(『続日本紀』延暦九年十月辛亥条)。
桓武は、前年9月19日の勅で、「少しでも功績のある者には、その軽重に随って評価」すると述べている。
将官は処罰されているので、叙位・叙勲に預かったのは主に軍士であったとみられる。
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10月21日
・征夷の負担が坂東諸国に偏っていること、富裕者の徴兵忌避が続いていることから、左右京・五畿内・七道諸国の国司に命じて、甲を造る財力を持っている者を今年中に調査・報告させるという太政官奏が出される。

坂東の疲弊
「坂東の国、久しく戎場(じゆうじよう、戦場のこと)に疲れ、強壮の者は筋力を以て軍に供し、貧弱の者は転餉(てんこう、兵粮の運搬のこと)を以て役に赴く」
「富饒の輩は頗るこの苦(戦場の苦しみ)を免れて、前後の戦に未だその労を見ず」(『続日本紀』延暦九年十月癸丑条)。

「不論土浪人」政策の初見
諸税(軍事費)を負担させるのに、その対象が居住地の戸籍に登録されている者(土人)であるか、どこかからの流れ者で戸籍には登録されておらず、「浮浪人帳」などといった特別な帳簿に登載されている人々(浪人)であるかを区別しない、という政策。

同様命令は、翌延暦10年3月17日にも出される。
これらの「甲」は革甲であり、革甲の製造を、東国の民衆だけでなく、都の貴族や、「不論土浪人」を含む全国の富裕者に均等に負担させようという政策である。
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