東京、北の丸公園(2011-10-28)
*延暦15年(796)
1月
・坂上田村麻呂(39歳)を陸奥出羽按察使(両国を兼任する按察使がはじめて出現)兼陸奥守に任じる。
10月には鎮守府将軍を兼ねさせる。
ここに、田村麻呂は、平時における東北の行政・軍事を一身に体現するポストに就任。
田村麻呂は、まず玉造塞(さく)と伊治城との中間に新しく駅を開設した。
*
1月1日
・ようやく完成した大極殿で朝賀の儀を行う。
*
7月
・造宮職の官位を中宮職に準じることにする。
*
10月
・1月に陸奥出羽按察使兼陸奥守となった坂上田村麻呂(39歳)に鎮守府将軍も兼ねさせる。
田村麻呂は、まず玉造塞(さく)と伊治城との中間に新しく駅を開設した。
*
11月
・伊治城の強化のため、相模・武蔵・上総・常陸・上野・下野・出羽・越後国から移民9千人を伊治城に移配(『日本後紀』延暦15年11月戊申条)。
*
12月
・平安京造宮の作業に従う飛騨工の逃亡があいつぎ、この年の暮れ、政府は諸国に命を下してこれを逮捕させる。
*
*
*
延暦16年(797)
この年
・この年、勘解由使が設置される。
前任国司から後任国司への国務の引き渡しを監視し、国司の不正を摘発することも行われる。
また、国司の監察だけでなく、諸国の財政状況の可視化を促し、造都や征夷への財政出動を増やすことも目的であったようだ。
延暦22年(803)年、菅野真道等がその集大成として『延暦交替式』を編纂し国司交替制がマニュアル化される。
*
・不三得七(ふさんとくしち)の法を改める
奈良時代以来、民部省の慣例として、一国の租を通計し、その額の7分以上の徴収をめどとし、残り3分は国司の処分に任せていた。これを不三得七(ふさんとくしち)の法という。
国司たちは、自らの裁量に委ねられているのにつけこんで私腹をこやすようになっていた。
この年、桓武の政府は、戸ごとの町段をはかり、その租の8分を徴収し2分を免じることに改め、増収を図りまた国司の不正を封じようとした。
*
・天台教学を修めた最澄(32歳)、この年、宮中で天皇の安寧を祈る内供奉(うちのぐぶ)十禅師の1人に選ばれる。
最澄:
神護景雲元(767)年、近江国滋賀郡古市郷(現滋賀県大津市付近)生まれる。父は三津首百枝(みつのおびとももえ)。三津首氏は渡来系氏族。
12歳で近江国分寺の行表(ぎようひよう)に師事し出家、延暦3年に15歳で得度、19歳で受戒。
その年、比叡山で山林修行を始める。山林修行は、神秘主義を重視する密教と重なる部分も大きい。
その後、天台教学を学び始める。
天台教学は6世紀に中国で生まれた宗派だが、唐僧鑑真がもたらした天台教学に関係する典籍を学び、天台教学に目覚める。
彼は、仏家の間で注目される存在となり、内供奉(うちのぐぶ、宮中に勤仕する僧)の寿興(じゆこう)との交際が始まり、この年延暦16年(797)、内供奉十禅師の1人に加えられる。
最澄はこの頃から一切経の書写に着手し、南都の諸大寺そのほかの援助をえてその業を完成させる。
延暦17年には、初めて山上で法華十講をおこし、延暦20年(801)には、南都六宗七大寺の十人の著名な学僧を比叡山寺に用いて、天台の根本の経である法華経についての講筵をひらく。
この頃には、最澄は、桓武天皇の仏教政策を、十分考慮した上で、仏家として独自な立場を外に向かって宣揚するという積極的態度を明確に示す。
この頃、和気広世(ひろよ、清麻呂の息)というパトロンをもっており、広世は和気氏の寺である高雄山寺に最澄を招いて法華の大講筵をひらく。
最澄は、和気氏をこえて桓武天皇への接近を狙っている。
最澄の天台法華宗の樹立の企ては、桓武朝の仏教対策の波に乗るところがあり、最澄にとって、桓武の恩顧をうけていた和気氏は天皇への有力な橋わたしである。
この高雄山寺での講筵を機に、最澄は朝廷にたいして入唐請益(につとうしようえき)の表を提出する。
*
2月13日
・菅野真道ら、『続日本紀(しよくにほんぎ)』を撰進(40巻)。
文武天皇即位~延暦10年(791)。
自分の治世の10年を対象に入れたところに桓武の自信のほどが窺える。
上表文の中で、桓武(60歳)は、
「威は日河の東に振るい、毛狄をして息を屏めしむ。前代の未だ化せざるを化し、往帝の臣とせざるを臣とす」(『日本後紀』)
と讃えられている。
桓武の威厳が及んで蝦夷が息を潜めたとされる日河(日高見川=北上川)の東は、第1次征討で惨敗を喫した場所であり、第2次征討の戦勝が桓武の権威を高めたことを示す。
しかし阿弖流為はまだ降伏しておらず、この地域に律令制支配を行うために必要な城柵もまだ設置されていない。
そこで桓武天皇は第3次征討に踏み切る。
自分の在位中にその治世の様子を記した史書を編纂させたことは、大きな失態を招く。
藤原種継暗殺事件および早良親王廃太子に関し、
「『続日本紀』に載(の)する所の崇道天皇(早良親王)と贈太政大臣藤原朝臣(種継)との好(よ)からざるの事、皆ことごとく破却し賜いてき。
しかるに更に人言(ひとごと)によりて破却の事もとのごとく記し成す。
これもまた礼無きの事なり。今、前のごとく改正す」(『日本後紀』弘仁元年(810)9月10日条)
とあるように、桓武朝の末年に、『続日本紀』の関係部分を削除させた。
しかし平城天皇は、種継の子である薬子と仲成の意向を受けてその記事を復活させた。
ここではそれを「無礼」と評しているが、これは薬子の変の直後に薬子・仲成そして平城上皇側を悪役に仕立てたい嵯峨天皇側の言い分である。
この記述から、桓武による史書改鼠を批判する平城が、復旧に積極的に関与したのではないかと読みとる説もある。
その後、嵯峨天皇の意向により、ここにあるように再び早良親王と種継の記事は削除された。
ただし、削除された記事の一部は、『続日本紀』などの正史を抜き書きした『日本紀略』によって復原が可能である。
*
3月
・この月、遠江・駿河・信濃・出雲などから雇夫2万余を徴発。
翌々年12月にも伊賀・伊勢・尾張・近江・美濃・若狭・丹波・但馬・播磨・備前・紀伊などに役夫を差しださせている。
いずれも平安宮を造るためである。
平安京内裏の建造物は、まだ完成していないものがある。
*
8月
・浮浪人への課税を命じる
浮浪人は親王・王臣の庄に流入し、調・庸を免れている。
官人(国・郡司)はそれらの庄に踏み込んで、そこに寄住する不浪人の実数をよく調べ、毎年「浮浪人帳」に記載し、それによって調・庸などを徴収するように命じる。
拒んだり1人でも漏らした場合は、その庄長を捕らえ、言上すれば、違勅の罪を科すると言明。
庄長らはその庄の内外に彼ら自身の農業経営を行っているが、政府はそれを禁止している。
これら王臣家の庄の庄長は在地の土豪か有力農民で、彼らは関係した庄を足場として、王臣家の威勢を利用して、私田を営んでいる。
また、庄は、浮浪人だけではなく、多くの周辺農民の力が必要で、庄長はその人手を揃えた。それらの人は寄人(よりうど)といわれる。
親王・王臣家・寺社をはじめ土豪・有力農民にいたる階層までが、浮浪人や周辺農民をかり集め、山林原野を囲い込んだり、荒廃田を活用したりして土地を切り開いている。
農民の疲弊、浮浪や逃亡によって口分田は荒廃しており、優勢者はそれに目をつけた。
桓武は、荒廃田・空閑地を差し押さえ、これを勅旨田の名称で確保した。
開墾して良田にするための方式であったが、天皇はそれを親王や権臣に分与した例も多い。
桓武とその政府は、延暦3年(784)、延暦17年(798)、延暦20年(801)に、幾度も王臣家らの山野占拠を抑制したが、殆ど効なく、開墾ブームは、平安京の貴族から地方の豪族にいたるまでの全支配階級をとらえた。
有力農民もそのおこぼれにありついた。
一般農民の疲弊の深刻化とは対照的に、王臣家ないし土豪の農業経営は活気を呈している。
*
11月15日
・坂上田村麻呂(40歳)、征夷大将軍に任じられる。
桓武朝第3次征討のため。前回の征討では副将軍を勤めた。
副将軍以下も任命されているが、『日本紀略』は副将軍以下の人名を省略しており不明。副将軍の1人は、小野永見と推定されている(『日本三代実録』貞観2年(860)5月18日丁卯条)。
田村麻呂は、前年正月に陸奥按察使兼陸奥守、10月に鎮守将軍となって、東北の軍事・行政を一身に担っている。
その後、近衛少将を兼任、延暦18年に近衛権中将、延暦20年12月には近衛中将に昇任。
鎮守将軍の前任者である百済王俊哲は、田村麻呂に征夷の戦術や蝦夷のことなどを教え、第2次征討での田村麻呂の活躍を見届けた後、翌延暦14年8月7日、鎮守将軍のまま没している。
*
*
0 件のコメント:
コメントを投稿