2011年10月28日金曜日

延暦13年(794)6月~12月 遷都と征夷を同時に成功させる桓武天皇の周到な演出

東京、北の丸公園 千鳥ヶ淵のもみじ(2011-10-27)
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延暦13年(794)
6月
・諸国から徴発した役民5千人によって平安京の新宮が清掃される。
皇居の大半は落成している様子だが、大極殿以下の工事は進んでいない。
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6月13日
征夷副将軍坂上田村麻呂らの蝦夷征討が始まる
『日本紀略』が欠失しており、
その記述は、
「副将軍坂上大宿禰田村麿巳下、蝦夷を征す」(『類聚国史』)
というのみで詳細は不明。

征夷大将軍ではなく副将軍以下が蝦夷を征討したこと、
副将軍4人の中で最年少の坂上田村麻呂が唯一史料に名が残っており、
田村麻呂が主導的役割を果たしたことを窺わせる。
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7月
・この月、東西市を新京に移す。
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9月28日
・遷都と征夷の成功を祈願するために、諸国の名神(由緒正しく霊験の優れた神)に奉幣。
桓武は、先の父祖の霊と皇祖神に続いて、全国の名神に遷都と征夷の成功を祈る。

『日本紀略』は、奉幣の目的を
「新都に遷り、及び蝦夷を征せんと欲するを以てなり」
と記す。
6月に続いてこの頃にも再度激戦が行われたのであろう。

遷都と征夷の成功を同時に祈願しているのは、この二つの事業がともに最終段階を迎えたからであろう。  
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10月5日
・桓武天皇、新京に移るため、装束司・次第司を任命。
行幸に際して任命される臨時の官司で、装束司は衣服・調度・設営などの準備、次第司は行列の前後で整列や進路の管理を行う。
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10月22日
・桓武天皇、皇太子以下公卿百官人をしたがえて、長岡京から新京に遷都
この日は60日に一度訪れる辛酉の日。
辛酉革命による大変革を日の干支によって印象づけようとしている。
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10月28日
・この日、桓武は、戦勝報告が到達するや、新京の内裏に官人を集めて遷都の詔を発す
当日の『日本後紀』の記事は欠失。

これを圧縮した『日本紀略』の記述は、
「征夷将軍大伴弟麻呂奏すらく、「首四百五十七級を斬り、虜百五十人を捕らえ、馬八十五疋を獲、落(村落)七十五処を焼く」と。鴨・松尾の神に階(位階)を加ふ。郡(都の誤りか)に近きを以てなり。授位、任官。遷都の詔に曰く、「云々。葛野の大宮の地は、山川も麗しく、四方の国の百姓も参り出で来る事も便にして、云々」と。」(延暦13年10月丁卯条)

まず征夷将軍から戦勝報告があり、続いて神階の授与と官人に対する授位・任官が行われ、最後に遷都の詔が発せられる。

大伴弟麻呂の節刀返却は翌年正月なので、この時は弟麻呂本人の戦勝報告ではなく、軍藍か軍曹に文書を持たせて奏上したと思われる。

桓武天皇は戦勝報告を受け取った後、授位・任官のため内裏に人を集め、そこでおもむろに遷都の詔を発した。
遷都と同時に戦勝報告がもたらされるという奇跡を自ら起こし、二度目の遷都を劇的かつ周到に演出した。
征夷と遷都をワンセットで考えていた桓武の思想を明確に示している。

戦勝報告(蝦夷側の被害)
「虜百五十人」
征夷では、交戦中に捕獲された者と、自ら投降してきた者とが区別され、前者は天皇に進上される。
この時の征夷に伴い、蝦夷の諸国移配が空前の規模で行われ、ほかにも多数の蝦夷が投降して身柄を拘束され、諸国に移配されたと推定される。

「首四百五十七級を斬り、・・・落(村落)七十五処を焼く」
いずれも延暦8年の第1次征討の5倍強。桓武は、前回の斬首89級を少ないと言って征東使を責めたが、今回は満足いく戦果であった。しかし、阿弖流為は捕まっていない

今回の征夷では蝦夷の切り崩し作戦が功を奏したが、それに関わった蝦夷も命を落としている。
かつて蝦夷爾散南公阿破蘇らの服属を仲介した俘囚吉弥侯部真麻呂が親子で殺害され、延暦14年5月10日、犯人の俘囚大伴部阿弖良と妻子親族66人が日向国に流されている(『類聚国史』巻190)。

大規模な叙位・任官
桓武朝では公卿の数が制限され、とくに藤原氏に対して厳しかったが、今回の叙任では、7人の公卿の内5人が対象となり、新たに藤原内麻呂(うちまろ)・真友(まとも)・乙叡(たかとし)が公卿に列せられる。

桓武に平安京遷都を勧めた和気清麻呂は民部卿造宮亮(すけ)の菅野真道(すがのまみち)が民部大輔(たいふ)造宮判官に清麻呂の子広世(ひろよ)が、造宮主典(さかん)には民部少録飛騨国造青海(ひだのくにのみやつこおうみ)が任じられる。
いずれも民部省関係か清麻呂の血縁関係にある人物。清麻呂は長岡京造営時には難波京があった摂津国の大夫に任じられていた。
こうした遷都の経験が評価されたのと、財政支出を円滑にするため、清麻呂が重要なポストにつけられた。
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11月8日
・この日、新京に「平安京」という名称を付ける。
同時に山背国が山城国に改称され、国土の中心が大和国から山城国に移ったことが明確に示される(『日本紀略』)。

遷都の詔を発し、新京の名称を定め、山城国を諸国の筆頭に置くことができたのは、それができなかった長岡遷都の頃より、桓武天皇の権威が格段に高まっていることを示す。
(「山背国」の「背」にはそれまで都があった大和からみて背後という意がある)    

10月22日の桓武自身の遷都の直後に発せられた詔には、
「葛野の大宮の地は、山川も麗しく、四方(よも)の国の百姓(おおみたから)の参出来(もうでく)る事も便(びん)にして、・・・」
とあり、

またこの日の詔には、
「山勢実(まこと)に前聞にかなう、と云々。この国は山河襟帯(きんたい)し、自然に城を作(な)す。この形勝に因(ちな)んで新号を制すべし。宜しく山背の国を改めて山城の国と為(な)すべし。」
とある。

この月、遷宮使は、桓武の求めに応じて、京中の大小の路・築垣・堀・溝・条坊などの規格を天皇に奏上。
桓武自らが平安京の規格・設計に積極的に関与したことがうかがえ、巡見の多さとともに、平安京にかけた彼の執念が見える。
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