2011年10月10日月曜日

延暦3年(784) 大伴家持を持節征東将軍とする  長岡京へ遷都

延暦3年(784)
2月
大伴家持を持節征東将軍に、文室与企が副将軍に、入間広成と安倍猿嶋墨縄(あべのさしまのすみただ)を征東軍監(ぐんげん)とする(『続日本紀』延暦三年二月己丑条)。

2年前(延暦元年6月)、大伴家持(春宮大夫、従三位)に陸奥按察使・鎮守将軍を兼任させ、入間広成を陸奥介に、外従五位下の安倍猿嶋墨縄を鎮守権副将軍に任じている。
征夷に向けての周到な準備ぶりが窺える。

しかし、翌年延暦4年8月28日、家持が68歳で没し、この延暦3年の征夷計画は自然消滅する。

大伴家持は、従三位、中納言兼春宮大夫・陸奥按察使・鎮守将軍、
文室与企は、従五位上で相模介(翌月に相模守に昇進)、
入間広成は、外従五位下で陸奥介、
安倍猿鳴墨縄は、外従五位下で鎮守権副将軍。
前年11月12日に常陸介の大伴弟麻呂が征東副将軍を兼任。
従って、相模介と常陸介が副将軍となり、坂東の豪族2人が軍監となっている。
征夷が行われる陸奥国と、その人的・物的基盤である坂東との一体化を図った人事。

大伴家持(67歳)
大伴氏は武門の家柄で、家持も兵部少輔・大輔、衛門督を務めた経験はあるが、家持が特に武力に優れていたことはない。持節将軍は前線で指揮することはなく、後方で全体を統括する役割なので、高齢であっても差し支えはない。
しかし、副将軍の文室与企は、武官や陸奥・出羽の官人の経験がなく、同じく副将軍の大伴弟麻呂は、衛門佐(すけ)、左衛土(さえじ)佐の経験があり、延暦13年には征東大使〈征夷大将軍)となっているが、東北政策に関わるのは今回が初めて。
軍藍の入間広成と安倍猿嶋墨縄は征夷の経験がある。
全体としては強力な布陣とは言い難い。
*
3月
・この月、丸子石虫(本薄地不明)が軍粮を献上して外従五位下を授けられる。
『続日本紀』の征夷に関する記事は、この月の軍粮進上以後しばらく見えなくなり、5月からは長岡村の視察など造都関連の記事が急激に増加し、延暦5年7月の太政官院(朝堂院)の完成まで続く。
*
5月
・この月の太政官人事。
藤原種継(百川の甥、母は秦氏)・藤原小黒丸がともに参議から中納言に昇進。  
*
5月7日
・摂津職蝦蟇(がま)の行列が報告される。
難波に体長4寸(約12cm)ほどで、黒い斑をした蝦蟇の大群(2万匹)が現れ、3町(約327m)の大行列をつくり、南に進み四天王寺の境内に入ってどこかへ消え去ったとの報告(「続日本紀」)。
*
5月16日
・桓武天皇、長岡京造営の準備のため、山背(やましろ)国乙訓郡長岡村の視察を命じる。
視察には、中納言藤原小黒麻呂(おぐろまろ)、同種継、佐伯今毛人(さえきのいまえみし、有能な実務官僚)、坂上苅田麻呂(田村麻呂の父)などが加わる。
尚、小黒麻呂の妻と種継の母は秦氏の出身
*
6月10日
・中納言藤原種継ら18人が造長岡宮使(司)に任じられ工事開始。他に、左大弁佐伯今毛人、参議紀船守・石川垣守など。
参議紀船守は、勅使として賀茂社に赴き、長岡遷都のことを報告して神助を乞う。

桓武天皇は、格(法令)を諸国に下し、この年の調・庸と、「宮を造る工夫の用度の物」を長岡に進納させる。

長岡京の造営は前後二時期に分かれる。
①前期造営:
遷都に伴う造営で、延暦3年6月~5年7月頃、主に難波宮の解体・移築によって内裏・大極殿・朝堂院(太政官院)などを造営。条坊の施工も行う。
平城宮に手を着けず、難波宮を解体・移建したのは、平城京廃止への抵抗を警戒しながら、一刻も早く遷都を行うため。
②後期造営:
延暦7年9月頃~10年9月頃、内裏を東方へ移建するなどの本格的な整備が行われる。
また、平城宮を解体し、その資財を搬入する。
*
下旬
・桓武天皇、新京に邸宅を造らせるために右大臣(藤原是公、南家)から参議までの太政官執政部と内親王・夫人らに諸国の正税6万束を給し、また百姓の私宅が新宮の敷地に取り入れられた57町の分に対し、山背国の正税4万3千余束をその主に与え移転を急がせる。

長岡京の位置:
現在の京都市の南、桂川と西山に挟まれた律令制下の乙訓郡(京都市・向日市域)にある。
長岡丘陵を中心に、東に淀川に注ぐ桂川、中央に小畑川が流れる沖積地にあり、大極殿と朝堂院はこの丘陵の南端近くの高所にある。

長岡京への遷都の理由(なぜ平城京を棄てたか、なぜ長岡の地か):
①王朝交替・皇統転換による革命気分の醸成
桓武は、父光仁の即位を天武系から天智系への王朝の交替と認識し、新王朝には新都の造営が伴うという中国思想に基づいて、天武系の王都である平城京を捨て、新王朝の王都として長岡京を造営。
干支では、桓武即位の天応元年(781)が辛酉(しんゆう)年、長岡遷都の延暦3年(784)が甲子(かつし)年で、中国の讖緯説(しんいせつ)によれば、辛酉は革命の年、甲子は革令の年に当たる(『革命勘文』)。
革命とは天命(天帝の命令)が革(あらた)まること、革令とは政令(政治を行うための法令や命令)が革まることで、いずれも国家的な重大事が起こると信じられていた年。
桓武は辛酉年に即位し、甲子年に遷都することによって、自己の即位と長岡遷都が天帝の意思にかなうことを強く主張しようとしていた。

②水陸の交通の便が良い
『続日本紀』には「水陸の便あるを以て、都を茲(こ)の邑(ゆう)に遷す」(延暦六年一〇月条)、「水陸の便有りて、都を長岡に建つ」(七年九月条)などとある。
平城京の外港は木津川の泉津であるが、奈良山を越えなければならないという問題がある。また、造都・造寺のための森林乱伐、瓦用の粘土採掘により、淀川・大和川から大量の土砂が大阪湾に流れ込み、難波津が機能不全に陥り瀬戸内海の水上交通路に大きな障害となっている(難波宮廃棄の可能性もある)。
しかし、長岡京は桂川に面し、宇治川・木津川の合流地点とも近接し、淀川の山崎津・淀津からの交通路もあり、遷都翌年の三国川(神崎川)開削によって淀川水系と直結し、難波津や瀬戸内海とも直結することになる。また、この地には山陽道や山陰道も通り、西国への陸上交通の上でも要衝である。

③奈良の寺院勢力の排除
平城京および外京には、東大寺・西大寺などの官大寺、興福寺などの氏寺が多く、玄昉や道鏡の例のように政治と寺院・僧侶との癒着や反目が政治上の大きな障害となっていた。
桓武は、長岡京には、平城京からの寺院の移転、新たな建立を許さず、平安京でも東寺・西寺といった官立寺院を除けば同様であった。
平城京では、ヤマト朝廷以来の豪族たちの根拠地が奈良盆地に分散している(京に居宅を持ち、京外に荘園、別荘、農業経営の拠点を構えている)。
天皇への求心性が未完成で、彼らを根拠地から切り離し、天皇への求心力を確保するためには、奈良盆地を離れることが有効。また、遷都のイニシアチブを取る事自体が、桓武の指導力を見せつける好機でもある。

④渡来系氏族の支援
長岡京は、古い渡来系の氏族で土木技術に優れる秦氏が勢力を持つ地域で、桓武を支える藤原小黒麻呂・種継との姻戚関係もあり、造営にあたり秦氏の協力が得られる。
また、淀川を挟む南岸の河内国交野は、桓武の母に繋がる百済王氏の一族が勢力を張っている。桓武は渡来人には親近感をもっている。
*
10月
・この月、治安維持のため平城京に左右鎮京使(さうのちんけいし)を置く。
長岡遷都を控えて平城京で掠奪や放火が横行
*
11月
長岡京へ遷都
造営のために雇用した諸国の百姓延べ31万4千人という(『続日本紀』延暦四年七月二十日条)。
*
11月11日
・桓武天皇、長岡宮への遷居。
遷都にあたって、遷都の詔は出ていない
また、長岡京が所在する国の表記も、大和国から見て山の背後を意味する「山背国」のまま変更されていない(平安遷都の際に「山城国」に変更)。
この頃の桓武天皇には、まだ天皇として十分な権威が備わっていない。
*
12月18日
・山背国葛野(かどの)郡の秦足長(はたのたりなが)ら、長岡宮造宮の功を賞せられる(『続日本紀』延暦三年〈七八四〉十二月十八日条)。
また、栗前広耳(くりくまのひろみみ)と但馬国気多団軍毅(けたぐんぐんき、軍団の幹部)川上部広井(かわかみべのひろい)は、それぞれ多数の役民に食料を提供したり、私物を官司に寄付したりしている。
*
*

0 件のコメント: