昭和16年(1941)
10月3日
・十月初三。銀座教文館にて倉拂ひの古本を陳列即賣する由きゝたれば午後に徃きて見る。買ふべきものなし。電車にて淺草に徃く。観音堂の横手銀杏の樹の下に露店商人馬鈴薯を見事に細く切り蕎麦のやうにする秘傳の薬を賣る。見るもの堵をなせり。
來年より麵麭にも蕎麦饂飩にも馬鈴薯を混ずるやうになると商人の口上なり。
米作に晩餐を喫してかへる。十三日の月鏡の如し。思ふに明後日は良夜なるぺし。
*
10月5日
十月初五 日曜日 晴れて蒸暑し。気候の不順甚し。中秋の月を観むとて淺草に徃く。夕方六時過月は吾妻橋の眞上に在り。
公園に入るに日曜日の人出多く酔漢亦少からず。仲店の敷石に嘔吐するものもあり。日本ならでは見られぬことなるぺし。
オペラ館晝間より大入にて大入袋一圓八拾銭の由踊子の語る所なり。
〔欄外朱書〕中秋
*
10月6日
十月初六。陰。残暑再來る。晩間土州橋に至る。
慰問袋のはなし
一老人のはなしに日露戦争のころまでは今日の如く戦地の軍隊へ各戸より慰問袋を送るが如き事なかりき。慰問袋といふ名称もなかりしなり。
然るに今回の戦争も去年あたりより慰問袋の献上全く強請的となり、袋の中には物品のみならず各戸各人一通づゝ慰問状を差入れねばならぬ事とはなれり。
女学校にては若き女生徒に慰問状をかゝせ住所姓名をも記入せしむる由。
これにつき良家の父兄は娘の将来につき憂慮するもの尠からずと云ふ。
未婚妙齢の女子その親の知らぬ間に出征の兵士と手紙の徃復写真の交換をなすものあり、又甚しきは戦地より帰還し除隊となりし兵士の中には慰問状の住處姓名をたより良家の女子を訪問し、銀座通りにて会合するものさへあるに至りたればなり。
又待合の女中銘酒屋の女カフヱーの女給等は帰還後の兵士を客にせむとて、それとなく慰問状を利用して誘惑する者もありと云ふ。
これは商賣にかけて抜け目なきものと謂ふべし。
*
10月11日
十月十一日。快晴。石蕗山茶花開く。風邪。終日蓐中に在り。
夕飯食はむとする時前上歯一本抜落ちたり。蜀山人調布日記に落歯を歎ずるの條(くだり)ありしを思出し之を讀む。
今朝右の上齶の歯落ちたり。のこる所わづかに上に三ツ下にニツなり。八九年ばかりさきに難波にありてしぱしば歯の落る事ありしが其後長崎にありし時には落る事なかりき。
とにもかくにも老ひにける身のいかゝはせん。
男児生無所為頭皓白牙歯欲落眞可惜といひし老壮も五十九歳にてうせぬ。六十あまり一のとしをへてふたゝび生れし華甲にめぐりあひぬる事も又かたかるぺし云々 調布日記下巻文化六年二月九日
*
10月15日
・十月十五日。晴。防空演習にて近鄰の家は皆其準備をなし水桶高箒などを門口に並べたり。然るに此の用意をなさざる處余が家唯一軒のみ。余一人にて何事をも為すこと能はざればなり。
本年は防空令達犯にて厳罰に處せらるゝやも知れずと胸中甚不安を感ず。
牛後丸ノ内より淺草に至り見るに小春の天気好きが故にや、人の出盛ること日曜日の如し。
徃來の人の中には投島田に素袷半纏引掛帯といふが如き風俗の女もあり。博徒遊人のかみさんなるべきか。淺草ならでは見られぬ風俗の女を見れば何ともなく一種の慰安をおぼゆるも可笑し。オペラ館楽屋に少憩し薄暮芝口に夕飯を喫して家にかへる。
*
10月17日
十月十七日 余数年前より陶淵明の集を座右に備置かむと欲し江戸板の良本を探り居たりしが今朝突然神田の山本書店より文政板のものを郵送し來れり。此日快晴。虫尚鳴く。
*
10月18日
十月十八日。九段の祭禮なれば例年の如く雨ふり出して歇まず。
此日内閣變りて人心更に恟々たり。日米開戦の噂益盛なり。
*
*
このところ、荷風散人、穏やかな日々を過ごされているのか、実に静か、である。
中秋の名月、前歯が欠けた・・・云々、を書き続けている。
また、浅草は賑わっているとか。
実は、
この頃、15日にゾルゲ事件で尾崎秀実が検挙され、16日第三次近衛内閣総辞職、
そして、
18日には東条内閣成立なのである。
これまでの「軍人政治」に対する批評(毒づき)を考えると、政治的な動向への意識的なムシ(シカト)、としか考えられない。
*
「★永井荷風インデックス」をご参照ください。
*
0 件のコメント:
コメントを投稿