2011年10月23日日曜日

永禄9年(1566)4月1日~8月31日 三好三人衆に担がれた足利義栄が摂津上陸 義昭は若狭武田氏を頼る [信長33歳]

東京、江戸城東御苑本丸跡付近(2011-10)
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永禄9年(1566)
4月
・本多平八郎忠勝、騎士52騎を付けられ3万6千石の旗本・青年騎馬隊隊長となる。
岡崎城黒御門内・平馬屋敷に侍屋敷を拝領。母と乙女が転入、結婚。
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上旬
・信長、美濃国各務野へ侵入。
斎藤龍興も井口を出て新加納に布陣。地勢が悪く軍の進退が難しいため信長は交戦断念、その日のうちに帰陣。
この年は木曽川を越えて一進一退が続く。(「信長公記」)
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・ヴイレラ、トルレスの命により豊後に戻る。
日本人修道士ロレンソも一時九州に下り、アルメイダに従い五島へ伝道行脚。
フロイスのみが堺で京畿の信者達の面倒を見る。
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4月2日
・ブリュッセル、オラニエ公ウィレム1世(33)やエグモント伯(44)を中心とする同盟貴族400人、宮廷に押しかけ執政パルマ公妃マルガレータ(44)に請願書提出。
フェリペへの忠誠を誓いながらも、宗教裁判廃止と全国議会開催を求める。
翌日、「乞食」貴族たちの勢いに恐れをなしたマルガレータは、請願書のフェリペへの取り次ぎを約束、その場を取り繕う。
マルガレータのあいまいな対処に、カルヴァン派信徒達は事実上迫害停止と考え、公然と集会を開く。
亡命貴族も次々に帰国、カルヴァン派組織は急激に進展。
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4月3日
・今川氏真、富士大宮の市を楽市とする。  
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4月3日
・信玄、白井城を攻める
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4月10日
・三好三人衆2万、大和侵攻。筒井順慶も合流。
翌日、奈良付近の五本松まで迫る。
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4月11日
・信長、朝廷に物を献上。
「尾張から御うま、御たち、三千疋」(「御湯殿上日記」)。
21日、足利義秋(後の義昭)に物を献上。
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4月12日
・北條氏政、蔭山新四郎に下総臼井城での籠城を賞する
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4月18日
・足利義秋(後の義昭)、細川藤孝・和田惟政に宛てて、信長の参洛承知を喜び、信長誓紙を調へ帰るのを待つと書簡。
実際には、信長は未だ逡巡。
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4月21日
・足利義秋(後の義昭)、「従五位下」・「左馬頭」に叙任。
「吉田兼右が伝奏を通さずに隠密に取りはからう」(関白近衛前久・万里小路惟房が協力)、元服前でもあり納得できないと述べる(「言継卿記」)。
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4月21日
・松永久秀、和議にて美野庄城を筒井氏に明け渡す。 
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4月22日
・三好長逸、京都余部図子中へ買得地を安堵(「余部文書」)。
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4月26日
・三好三人衆、大安寺の陣を払い、筒井城攻略へ向かう。
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5月
・毛利軍、富田城内七曲口で交戦。
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5月13日
・フィレンツェ、コジモ大公の愛人エレオノーラ、男児出産。
この頃、コジモの関心は新しい愛人カーミラ・デ・マルテッリに移る。
エレオノーラ(18)はコジモ末子ピエロ(12)と不倫関係に。  
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5月9日
・足利義秋(後の義昭)、相国寺万松軒で足利義晴17回忌法会。
19日、相国寺光源院で義輝1周忌法要。
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5月19日
・上杉輝虎(謙信)、武田信玄を討伐し北条氏政と和睦した後に上洛し三好氏・松永氏を滅ぼし、京都と鎌倉の公方を復興することを祈願
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5月15日
・大友宗麟、島井宗叱に博多織20端、織立を依頼。
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5月19日
・松永久秀5千、多聞山城脱出、摂津欠郡野へ移動。
24日、松永久秀(軍勢6千となる)、三好義継らを高屋城に攻める。
敗れ、29日、堺へ退く。
30日、三好義継ら三好三人衆1万5千、堺に松永久秀を攻める。久秀、逃走。
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6月
・神保長職、永禄5年に家臣水越勝重が寄進した本覚寺の寺領を安堵。
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・ブリュッセル、スパの協議。ル・クレルク、ルードヴィヒ、ド・ハメス、マルニクス兄弟。
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6月1日
・松永久秀・三好勢、堺外での決戦約定。
堺会合衆の要請。久秀、軍を解散し逃亡。
この日、大安寺南大門前で郡山衆(筒井方)と多聞山衆による合戦。両軍数名の戦死者が出る。
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6月5日
・パミエ(ピレネー地方)のユグノー、修道院を襲い修道士・神父を殺害。
カトリーヌ、ラングドック総督アンリ・ド・モンモランシー(ダンヴィル伯、モンモランシー大元帥次男)にユグノーに対する報復を指示。
1年後、牧師タシャール(虐殺の扇動者)及び24名を処刑。
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6月8日
・筒井順慶、大和・筒井城を奪還。
後、順慶は攻撃に転じて久秀の諸城を落としていく。
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6月11日
・阿波勝瑞城篠原長房、将軍跡目として義秋の従兄弟足利義栄を淡路筑紫に移し、1万5千余で兵庫上陸。
義栄が富田に前進した時、フロイスはバテレンに好意を持つ篠原長房に義栄への謁見取成しを求めるが実現せず。
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6月11日
・足利義秋(後の義昭)、和田惟政へ、尾張にいる細川藤孝からの報告を伝達。
藤孝は信長の要請を受けて早急に和田惟政を尾張へ派遣するよう要請あり、改めて和田惟政へ尾張下向を命令。
また、信長に義秋参洛のため馳走するよう通達すること、信長の出勢を急ぎ実現させることなど通達・命令。
尚、信長が尾張守任官にこだわるなら、自分は許すつもりであると伝える(「和田家文書」)。
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6月17日
・仏、ミシェル・ド・ノートルダム(ノストラダムス)、遺言状を作成。
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6月19日
・スコットランド、女王メアリー・スチュワート、エディンバラ城にて王子(後、スコットランド王ジェームズ6世・イングランド王ジェイムズ1世)出産。
3日後にグリニッジ宮殿にいたエリザベス1世のもとに知らせ。
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7月
・足利義秋(後の義昭)、畠山義綱(能登国七尾城主)へ出陣命令(「本多文書」)。
11日、十市遠勝(大和国人)へも出陣命令。
来月22日、信長が出陣し義秋動座に供奉すると通達(「多聞院日記」)。
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・アントウェルペン、ガン、トゥルネー、ヴァランシェンヌ、カルヴァン派の野外説教開始。
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7月2日
・仏、ミシェル・ド・ノートルダム(ノストラダムス、62)、サロン(プロヴァンス)で没(1503~1566)。現金だけで3,444エキュの大金。
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7月5日
・木下藤吉郎、墨俣に城を築き始める。信頼できる史料にはない。
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7月13日
・三好三人衆、摂津淀城を攻略。
14日、摂津より入洛、庶政を裁決(「言継卿記」)。  
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7月13日
・松永久秀方小泉城(京都郊外西院、元三好長慶被官小泉氏)、三好三人衆に攻められ陥落。
「今暁西院の小泉、城を渡し大津へ落ち行くと云々。二百計りこれ有り」(「言継卿記」7月13日条)。
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7月13日
・細川昭元、松室重清に神領を惣安堵(「松尾月読神社文書」)。
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7月17日
・「多門院日記」に、8月、信長(33)は足利義昭を奉じて上洛予定と伝えられる。
この頃、上総介から尾張守を自称。
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8月
・上杉謙信、関東出陣、離反した金山城(群馬県太田市)の由良成繁を攻める。
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8月2日
・津田宗達、没。
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8月3日
・三好勢3千、足利義秋が身を寄せる矢島攻めのため近江坂本に迫る(義秋を匿う六角氏に内応者あり)。
義秋は甲賀和田惟政の館から野州郡矢島少林寺に移動していた。
義秋、信長・島津・相良(肥後)・大友(豊後)・毛利(安芸)に御内書送る。
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8月5日
・オスマン朝軍、ハンガリー、シゲト・ヴァール包囲。
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8月9日
・三好三人衆1千余、片岡まで出陣。
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8月10日
・ベルギー、アントウェルペンの暴動(フランドルの反乱)、 各地(ヘントやフランドル各地)に14週間に渡り飛び火。
カルヴァン派による「聖像破壊運動」。カトリック教会の破壊や略奪。カトリック僧侶は教会から追い出され,礼拝も中止される。      
エグモント伯爵が、新教徒指導者オラニエ伯爵、その弟ヴィレム・フォン・ナッサウと手を組む。
ネーデルランド北部7州によるブレダ協約。
フェリペ2世、アルバ公をネーデルランデンに派遣。
スペイン軍、フランス領内近くを通過、フランス新教徒は危機感を高める。
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8月23日
・ブリュッセル政府マルゲリータの譲歩。「盟約」解体。中央派ウィレム、ホールネ、エフモント。  
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8月23日
足利義栄、摂津越水城入城
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8月24日
・三好長逸(三人衆)、松永久秀の京都居宅を没収(「言継卿記」)。
禁裏六町における検封事件。
この時、広橋家雑掌速水武益と松永久秀内者楠正虎が松永党であるとの理由で、持ち家5間を三好長逸が検封(住屋の検封)。町衆は抵抗せず(「言継卿記」8月24日条)。
40年前の大永7(1527)年、堺公方府の住宅破却に対し町衆は果敢に抵抗。
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8月25日
・北條氏照、正木時忠に宇都宮・由良・成田諸氏の帰属を伝える。
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8月25日
・北条氏政、細川藤孝へ、足利義秋(後の義昭)が提示した上杉輝虎(謙信)・武田信玄・北条氏政の同盟督促に関して、武田信玄に下知することが先決であると通知。
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8月29日
・足利義秋、近江六角氏・矢島同名衆の謀叛が顕然としたため、夜陰にまぎれて、近江矢島を発ち、細川藤孝・一色藤長・三淵藤英ら10騎ばかり従え、琵琶湖を渡り若狭守護武田義統(義秋の妹婿)を頼る。
父子が不仲のため、9月8日、越前(敦賀金ヶ崎)朝倉義景を頼る。
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8月29日
信長、大軍率い美濃攻め、木曽川河野島(羽島郡)上陸
30日、織田信長・斎藤龍興、両軍対峙。      
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8月29日
・京都御霊通で大火。知恩寺などが炎上。(「言継卿記」)    
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