2011年10月12日水曜日

延暦4年(785) 大伴家持(68)没 藤原種継暗殺事件

*
延暦4年(785)
・桓武朝の班田収授。
班田収授制度の崩壊の傾向に抗してこれを堅持する方針。
桓武の治世25年間に、班田の前提をなす土地調査(校田こうでん)を3回強行、班田は少なくとも2回実施。
特に、校田に力を入れて田図を作製。
延暦4年(785)の田図は、天平14年(742、墾田永世私有法公布の前年)、天平勝宝7年(755、大仏開眼の3年後)、宝亀7年(773、山部親王立太子の年)の田図とあわせて4証図といわれる。

この年の土地調査が暴露した口分田の実態
全国で、貧民・一般農民は、国司・郡司によって痩せた土地、荒廃しかかった土地に取り替えられ、交換され、押し付けられていた。
しかも、この実態は既に天平元年(729)の法令で指摘されていた。
その半世紀後の桓武初政の段階では、それは公地制の致命的な歪みとして露呈し、その根本的要因は政治支配に連なるもの(国司・郡司)によってひきおこされていた。
従って、国司・郡司は、校田や班田収授に消極的である。
班田実施への強い要望は、この歪みの中に放置された一般農民の間から起り、桓武とその政府が、その声にいくらか答えようとして2回の班田を実施した。
しかし、桓武の班田は天平元年のように全面的分割は行えず、農民たちの土地の保証は不十分。
桓武朝では、班田収授そのものがなかば半身不随の制度になっている。
*
・桓武の浮浪人対策
農民は、「班田のさいには、いつわって不課(税金がかからない老人・子ども・女)と届けて口分田をもとめ、さて召役のときには姿をくらましてしまう」と延べ、光仁朝と同じく浮浪人についての調査報告を中央に提出させる。
また、この法令では、国・郡司らが他国に浮浪する農民を匿って私利を図るのはけしからぬと厳しく非難。
聖武天皇による天平8年(736)の制法によって措置するよう命じる。
当地の戸籍につけないで浮浪人の名簿をつくり、それによって調・庸その他の税を課するやりかた。
*
4月
・参議兼皇后宮大夫(こうごうぐうのたいふ)の佐伯今毛人が、桓武天皇に対し赤雀1隻(せき)が皇后宮に飛来したと報告。
桓武はこれを祥瑞とし、翌月、詔を下してひろく有位の人々に恩典を施す。
また、右大臣是公らは百官を率い天皇に慶瑞表を奉呈。
一連の仰々しい宮廷行事は、皇后乙牟漏と桓武との間の子で桓武の嫡長子であり皇太子でない安殿(あて)親王の存在をクローズアップするための秘計と推測できる。
*
5月
・この月、桓武は、父光仁の諱(いみな、身分の高い人の実名)である白壁(もと部民「白髪部」のこと、乳母の出身した部名に因むか)を「真髪(まがみ)部」に、自分の諱の山部を「山」に変更させる。
(これを避諱=ひき、という)。
天皇など身分の高い人物の実名を避ける、中国の影響を受けた制度。
*
5月24日
・この日付け官符で、粗悪品を貢進した場合、専当国司を解任して再任用せず、他の国司は節級連坐、運搬の直接責任者の綱領郡司は決罰の上解任、子孫を任用しない、との厳罰主義を打ち出す(『続日本紀』)。
しかし、専当国司は政府との折衝に追われ、その挙げ句に任国の同僚にも見捨てられることになる。
そこで、延暦8年(789)5月15日の官符では、未進があれば、懲罰として専当国司と在国の国司との全ての公廨(くがい、公廨稲と呼ばれる本稲を出挙して得られた利稲を国衙財政の補填に充て、残りを国司の地位に応じて配分するもの。一種の給与)を奪うこととされた(『延暦交替式』)。
しかし、これは処罰としては厳しすぎ、処罰と補填の混同という問題が残る。
さらに、延暦14年(795)7月27日の官符では、未進の場合の補填問題に関しては、国司の史生(ししよう)以上が、公廨の配分比率をそのまま補填義務の比率として填納することとした(『延暦交替式』)。
史生は国司四等官の下にいるが、四等官と同様に中央から赴任し、公廨の分配にも与かるので、奈良時代から国司並みに扱われている。
この命令は、国司全員に補填の責任を負わせ、守(かみ)以下がランクに応じて公廨の取り分を割いて未進分に充てよ、とするもの。
*
8月23日
・大秦宅守(うずまさのやかもり)、太政官院(朝堂院)の垣を築いた功を称えられる(『続日本紀』延暦四年八月二十三日条)。
*
6月28日
大伴家持(68)、没。延暦3年の征夷計画は自然消滅する。
*
9月
・大伴家持は造長岡宮使の藤原種継を除くことを望んでいたという(『日本紀略』延暦四年九月丙辰条)。
*
9月23日
中納言兼式部卿(造長岡宮使)の藤原種継暗殺
この日夜亥の刻(夜10時頃)、長岡京造宮の陣頭指揮をしていた中納言兼式部卿で造長岡宮使の藤原種継(49歳)が2本の矢で射貫かれ、翌日死亡(「日本紀略」)。

種継は藤原氏式家の祖宇合(うまかい)の孫、清成の子、百川の甥で、「天皇はなはだ委任し、中外の事皆決を取る」と言われ、桓武の最も信頼する寵臣。母は秦氏の出身。

種継は、「宮室草創(そうそう)するも百官未だ就(つ)かず、匠手(しようしゆ)・役夫、日夜に兼作す」(皇居は出来あがったが、役所の方はまだなので、大工も人夫も日夜作業を続けている)なかで、「炬(ともしび)を照らして催検(さいけん)するに、燭下(しよくか)に傷を被りて、明日第(てい)に薨」じる(松明を掲げて工事を監督していた時に傷を負い、翌日自邸で亡くなる)。

桓武天皇は徹底捜査を命じ、翌日には実行犯として近衛の伯耆桴麿(ほうきのいかだまろ)と中衛(ちゆうえ)の牡鹿木積麿(おしかのきつみまろ)、陰謀に加わった人物として大伴氏や春宮妨(皇太子の家政機関で、その長官が春宮大夫)の官人ら約20人が逮捕され、直ちに斬刑・流刑に処せられる。

犯人の首魁とされた左少弁大伴継人(おおとものつぐひと)。
鑑真を連れ帰るという殊功を挙げながら、橘奈良麻呂の変の際に拷問で殺された大伴古麻呂の子、後に応天門の変で政界から追放される伴善男の祖父。
この事件直前に没した中納言大伴家持は、連坐して死後除名(官僚としての名誉剥奪)という恥辱を受ける。
継人やともに捕縛された佐伯高成の白状によれば、そもそもは家持が大伴・佐伯両氏を糾合し、皇太子早良の了解を得た上で事に及んだとも言う(『日本紀略』)。
家持こそが首魁との筋も出来上がる。
(「故中納言大伴家持相謀りて日く、よろしく大伴佐伯両氏に唱え、以て種継を除くべし。因(よ)りて皇太子(早良)に啓(もう)して、遂にその事を行なう」)

当夜長岡宮には、留守を預かる立場として、種継の他に皇太子早良、右大臣藤原是公がいた。
大伴家持は、春宮大夫として皇太子の傍に仕えていたし、逮捕者の中には春宮坊の官僚が多く、更に、普段から早良と種継とは不仲でもあったとされ、事件が早良に波及するのは避けられない情勢となっていく。

事件に関与したとされた者たちは、斬首や配流となる。なかには、種継の枢の前で罪状を告げられ斬刑に処された者もいる。    

東宮を出た早良親王は、9月28日夜中、乙訓寺に幽閉され、10日余の間、食を断ち、淡路への移送途中、淀川に架かる高瀬橋の付近で絶命。遺骸は淡路に持ち込まれてそこに葬られる(『日本紀略』:『続日本紀』にはなく、これを抜き書きした『日本紀略』のみがこれを伝える)。
実際は、大安寺の記録によると、幽閉された親王は、7日7夜「水漿(すいしよう)を通ぜず」(水分を摂らせない)という状態に置かれ、10月17日、衰弱死したらしい(西本昌弘「早良親王薨去の周辺」)。

早良親王と藤原種継との反目(次期天皇を巡る対立と長岡京遷都を巡る対立)
後の「薬子の変」の関係記事の中に、正史の地の文として記されている。
早良は南都と関わりが深く、種継は南都を捨て長岡遷都を主導。
種継は、良継・百川の後を継ぐ藤原氏式家を支え、良継の娘乙牟漏(桓武の皇后、安殿親王の母)や、百川の娘旅子の庇護を以て任じ、早良親王(皇太子)への皇位継承には不満を持っていた(としても不思議ではない)。
また、早良へは藤原氏から差し出された女性はいない。
これらからして、皇太子早良と種継の不仲は信憑性が高い。
この状況で、乙牟漏立后(桓武の嫡妻)があり、早良支持側の危機感が直接行動に繋がったとの推測が成り立つ。
但し、皇太子早良親王の関与は不明。

早良と南都と関わり
早良親王は桓武の同母弟。若い頃は僧侶として平城京の東大寺・大安寺で活動し、親王禅師と呼ばれていた。桓武の即位に伴い、父光仁天皇の意向により皇太子となる。しかし、桓武は長子の安殿親王(後の平城天皇、皇后乙牟漏との間の子)の立太子を望んでいる。

種継暗殺事件は
長岡京造営にとっては痛手ではあるが、
大伴氏らの反対勢力を一掃し、
安殿親王を皇太子とすることにも成功する。
但し、この後、桓武は死ぬ間際まで早良の怨霊に悩まされることになる。

大伴家持邸の家宅捜査の際に、『万葉集』の諸巻が発見され、朝廷あるいは官司の有に帰したという。
『万葉集』はかろうじて平安朝の貴族らに伝えられるが、大伴家持の名と作風は殆ど忘れられる。
家持自身が罪人として国史に録せられ、その一門・後裔も、承和の変、応天門炎上の事件などで藤原氏からさんざんな目にあわされ、大伴家は全く衰える。
万葉歌人大伴家持の復権は、後世人による『万葉集』再評価の時を待つことになる。
*
10月
・近江国の勝益麻呂(すぐりのえきまろ)は、この年2月~10月、役夫3万60余人を独力で雇用して長岡造宮に提供し、しかも食料をも提供。彼は、この功績により外従五位下に昇叙される。
*
10月8日
・天智・光仁・聖武の三山陵に早良親王の廃太子の件が報告される。
*
11月10日
・桓武天皇、「宿禱(しゆくとう)を賽(つぐな)う」(大願成就のお礼)ため、交野の柏原で郊祀祭天(こうしさいてん)の儀を挙行。
郊祀祭天の儀:
中国の皇帝が、冬至に都の南郊外に設けた天壇で天帝を祀るもので、『大唐開元礼』によれば、その際王朝の始祖(高祖李淵)を合わせて祀ることと規定されている。」
延暦6年11月5日、再びこの祭儀を執り行う。祭文(『続日本紀』)によれば、唐では「高祖神尭(しんぎよう)皇帝」と記されるところに、王朝の始祖として父光仁天皇を掲げて祀る。
それまでは、代々の天皇はその死後天皇霊として現天皇を保護してくれるというプリミティブな守護霊観念が当然視されていた。桓武は、天武系の皇統の歴史を抹殺するべく、中国風の論理で武装された新奇な祀りを挙行し、父光仁に始まる王朝を受け継ぐ天帝の子(天子)として自己正当化を行なった。
郊祀はその後文徳天皇が斉衡3年(856)に一度行ったが、日本では定着しなかった。
*
11月25日
・安殿(あて)親王(12歳)立太子の儀、挙行。
*
*

0 件のコメント: