2011年10月29日土曜日

延暦14年(795) 富豪層の成長 里倉負名 公出挙と私出挙

東京、江戸城東御苑(2011-10-26)
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延暦14年(795)
この頃
富豪層の成長
公出挙は、元来、公民の経営支援のための国衙(国の役所)による稲の低利貸付制度で、国衙はその運用益(利稲=りとう)を財政運営の財源としていた。
しかし、公出挙が強制貸付けとなると、農民にとっては租以上の負担となっていた。
このため、この年、桓武は、利稲を5割から3割に引き下げた(但し、死者の債務をもとりたてることにした)。
すると、これまでは公出挙稲を忌避してきた土豪・有力農民はこれを借り入れ、高利で貧民に貸し付けるようになった。

また、従来郡衙(郡の役所)の正倉(しょうそう)に一括保管していた正税稲(しょうぜいとう=公出挙稲=くすいことう)を郷ごとに郷倉(ごうそう)を作って分散移管することとした。
この正税稲の郡から郷への移管は、公出挙事業を郷レベルの有力農民に移管することでもあった。

やがて国司は正税稲を彼らの倉庫(里倉=りそう)に預けるという名目で、その経営能力に応じて正税稲を分配し、利稲部分だけを回収するようになる。
正税稲を預かった有力農民は 「里倉負名(りそうふみよう)」と呼ばれた。
彼らは分配された正税稲を私稲(しとう)に合体させて、私的な高利貸付である私出挙(しすいこ)に投入して経営を拡大し、公出挙利稲相当分を国衙に納入するようになっていった。

この出挙政策は、国衙による、利稲相当分の確実な回収を条件とする有力農民に対する経営支援であるが、低利の公的貸付を受けられなくなった貧窮農民の切り捨て政策である。
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・この年、国司の地位に応じて差をもうけ、貢納未進の数に準じて彼らの公廨(くげ)を割いて、中央に納入させることにする。
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1月16日
・この日の踏歌節会(とうかのせちえ)では、群臣たちが、「新京楽、平安楽土、万年春」という合いの手を入れながら、新京を言祝いで歌い踊ったと伝えられ、天皇と侍臣が遷都の成功を祝っている(『類聚国史』巻72踏歌)。
平安京は、桓武天皇にとっては、早良親王の崇りを乗り越え、胆沢の蝦夷に勝利することによって得た「平安楽土」であった。
このときには、まだ大極殿は完成しておらず、内裏前殿で宴が行われている。
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1月29日
・征夷大将軍大伴弟麻呂が節刀を返却。
長岡京東院を出発した大伴弟麻呂は、この時に初めて平安京に入り、将官を引き連れて朱雀大路を凱旋。
戦勝報告にある「虜百五十人」も、「捷(かちもの)」(戦勝の証拠)として入京し、天皇に進上されたと思われる。
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2月7日
・征夷大将軍以下に叙位。
『日本紀略』には記述ない。
坂上田村麻呂は従五位上から従四位下に昇叙(『公卿補任』延暦24年条)。
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7月27日
・この日付け官符では、貢納未進の場合の補填問題に関して、国司の史生(ししよう)以上が、公廨の配分比率をそのまま補填義務の比率として填納することとした(『延暦交替式』)。
史生は国司四等官の下にいるが、四等官と同様に中央から赴任し、公廨の分配にも与かるので、奈良時代から国司並みに扱われている。
この命令は、国司全員に補填の責任を負わせ、守(かみ)以下がランクに応じて公廨の取り分を割いて未進分に充てよ、とするもの。
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閏7
・雑徭(ぞうよう=国司の権限で年間60日間までの労働に従事させる力役)を半減して30日間とする。
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8月
・桓武、朝堂院の建設現場を視察。
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8月7日
・鎮守将軍百済王俊哲、没。
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11月22日
・防人司を廃止。
東国から派遣していた防人を止め、西海道(九州諸国)の人々に肩代わりさせる。
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12月26日
・征夷軍から逃亡した諸国の軍士340人が、死罪を許され、陸奥国の柵戸(移民)とされる(『日本紀略』)。
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