10月28日「朝日新聞」に掲載された作家川上弘美さんのインタビュー記事。
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私はずっと「日常のことを書きたい」と思って小説を書いてきました。
それも一見些末なこと。
お酒を飲んだり、散歩をしたり夜空を見上げたり。
「生きている」ということは日常を過ごすことだ、と思っているからです。、
福島の原発事故で大量の放射性物質がまき散らされたことは、私たちの日常に強い影響を与えました。
日の光が当たる何でもない一日が、今回の事故でどう変わってしまったか。
9月に出版した小説「神様 2011」は、それを確認する、というよりも「どうしてこんなことが起こってしまったのか」という思いで書きました。
(略)
自分たちが選挙をしてつくってきた国で、こういうことが起こるってしまった。
たまらない思いです。
どこに向けていいか分からない、最終的には自分自身に返ってくる怒りがあります。
「利権の甘い汁を吸い続けてきた原発推進派を裁くべきだ」という意見もありますが、私には違和感があります。
裁くべき相手はどこにいるのか。
構造を解明することは必要です。
ただ、政府も電力会社も一枚岩ではなく、「いい方」「悪い方」という単純な区別ができない。
悪い方がいたとしても、どこかで自分につながっている感じがします。
■手に余る原子力
最初は、この小説を発表するつもりはありませんでもた。
あの事故を言語化するやり方として適切かどうか、自分でも分からない。
あえて出版したのは、「原子力は人間の手に余る」ということを、私自身にできるやり方で、どうしても訴えたかったからです。
45億年前、地球ができた当初は今よりもずっと多くの放射性物質がありました。
長い長い年月の間に放射性物質が自然に崩壊し、少ずつ減っていったことで、複雑な生命が住める環境がようやく整ったのです。
せっかく放射線の少ない環境になったのに、なぜ今になって残りわずかな「ウラン235」という放射性物質をかき集めて核分裂させ、さらには自然界に存在しなかったプルトニウムとい放射性物質をつくり出すのか。
発表前に、放射線の専門家の方に作品の内容を確認していただきました。
その方が「福島ではもっと恐ろしいことが起こっています」とおっしゃったのが、強く印に残っています。
私は理系出身でSFに親しんできました。
そのせいか、「人類はいつ、どんな風に滅びるのか」ということをいつも考えます。
生物の「種としての寿命」は数百万年程度と言われています。
人類もいつかは種としての終わりを迎える。
放射性物質の利用は、自分たちの手でわざわざ終わりを早める可能性を広げる行為ではないか。
みんなが持っていた「核戦争で世界が滅びるかも」という思いは冷戦の終結では少し緩みました。
でも、実は原爆も原発も原理は同じ。
今回の事故でも、広島の原爆の168倍もの放射性セシウムがまき散らされた。
世界が滅びる脅威は少しも緩んでいなかった。
希望と絶望は常に同居していると思います。
人類って大したものじゃない。
技術力は高くて核兵器や原発をいっぱいつくったけど、それを制御するカはない。
そうした面では非常に絶望的です。
でも、生物としてみれば「生きているだけですごい」と思います。
日常がどんなに変わってしまったとしても、生の本質を味わう自由なのびのびしたひととき、生きているよるこびはありますし、それを手放すことは決してしたくない、そう思っています。
(聞き手はいずれも太田啓之)
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