2011年10月26日水曜日

延暦11年(792) 軍団兵士制廃止 蝦夷集団の服属 長岡京洪水 桓武天皇は和気清麻呂の助言により平安京遷都を決意

京都、銀閣寺の庭園(2011-09)
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延暦11年(792)
・この頃、(長岡京では)大極殿・朝堂院は、次第に日常の政務に用いられなくなり、儀式や儀礼を行うハレの空間に変化し、代わって政務は内裏で行われるようになる。
内裏には南殿(後の紫宸殿)や寝殿(後の仁寿殿)など多くの殿舎があり、本来は天皇が生活するプライベート空間であった。
この年、公卿は新堂への出仕だけでなく、内裏への出仕も含めて、上日(じようじつ、勤務日数)に数えることが許される。
長岡京に都が置かれた時代には、既に公卿たちは朝堂院では政務に差し障りがあり、日頃から内裏に伺候するようになっていたと推測される。
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1月
・かつて阿弖流為と共に抵抗していた斯波(志波)村の蝦夷族長、胆沢公阿奴志己が、戦禍を避けて移住していた斯波村から国家への帰陣を願い出る(『類聚国史』同年正月丙寅条)。
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6月5日
安殿皇太子の病状が再び悪化
10日、卜(うらな)わせたところ、早良親王の崇りであるという明確な答えが出た。
直ちに諸陵頭(しよりようのかみ)の調使王(つきつかいおう)を淡路に派遣して早良親王の霊を慰め(『日本紀略』)、6月17日には勅を発して、墓の回りに濠(ほり)を設けて清浄を保つように指示し(『類聚国史』巻25)、崇りの終息を願う。

しかしその5日後、雷雨が発生、長岡京が洪水に襲われ、式部省の南門が倒れるという被害が出る(『日本紀略』)。  
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6月7日
・陸奥・出羽・佐渡・大宰管内諸国を除いて、軍団兵士制(総兵力20万)を廃止する(『類聚三代格』巻18)。大軍縮の実施。
(光仁朝末年には、軍団兵士制の縮小化が実施され始めていた)

理由
貧窮農民による兵士の弱体化
集められた兵士は国司・軍毅の土地経営のために私役されている実態
唐の衰退による国際的緊張緩和(対新羅軍事侵攻放棄)
兵士の庸の免除、征軍から帰郷した後の国内上番の免除などによる国家財政上の問題
一方で征夷政策が継続しているが、征夷戦に対しては、軍団の枠を超えて富裕農民層から広範な動員を行う。
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7月25日
・胆沢以北の蝦夷集団の服属。桓武は次の征夷の勝利を確信する。
この日、蝦夷爾散南公阿破蘇(にさなんのきみあわそ)が入朝を希望しているとの情報が陸奥国から入る。桓武は、長岡京までの路次の国々に対し、壮健な軍士300騎を出して国境で迎接し、国家の威厳を示すよう指示(『類衆国史』)。

11月3日、爾散南公阿破蘇は宇漢米公隠賀(うかんめのきみおんが)と共に長岡宮の朝堂院で饗され、桓武から爵第一等と大御手物(天皇自ら手渡す品物〉を与えられる。
その際桓武は、今後も誠実・勤勉に朝廷に仕えれば、ますます優遇する旨の詔を発す(『類聚国史』巻190延暦11年11月甲寅条)。

爾散南公・宇漢米公は胆沢より北の蝦夷集団で、陸奥国の俘囚吉弥侯部(きみこべの)真麻呂・大伴部宿奈麻呂・吉弥侯部荒嶋らが彼らの服属を仲介した。
彼らはその功績により、無位から地方豪族としては最高位にあたる外従五位下を与えられる〈『類聚国史』巻190延暦11年10月癸未条・11月甲寅条)。
彼らは、陸奥按察便兼陸奥守の多治比浜成や、鎮守将軍の百済王俊哲ら現地官人の要請のもとに仲介の努力を払ったとおもわれる。
第1次征討失敗以後、蝦夷の懐柔策が強化され、蝦夷集団の切り崩しに成功したのであろう
胆沢の背後の蝦夷集団が国家側に就いたことは、征夷を進める上で有利な状況をもたらした。
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8月
・長岡京に洪水(6月にも発生している)。
桓武は赤日崎(あかひざき、京都市伏見区羽束師(はづかし)古川町赤井前)に行幸して被害状況を視察。

水上交通の便の良さは、洪水の発生と隣り合わせで、桂川や小畑川が氾濫すれば、直ちに京は冠水し、水害に襲われた。
長岡京の構造的問題。

桓武は、安殿の病状悪化2年前の身内の不幸(旅子・新笠・乙牟漏の死去)や疫病と併せ、この洪水早良親王の崇りと認識した。

崇りをなす霊の存在が確実視されると、大雨や洪水は、天皇や皇太子ばかりでなく、社会全体に襲いかかる崇りと認識されるようになる。
洪水が頻発する立地問題(構造的欠陥)に加え、それが怨霊による崇りと組み合わされると、長岡京は放棄せざるを得なくなる
桓武は、長岡京を廃し、新しい清浄な地に遷都することを決断する。

革命思想に基づく新王朝の都は既に長岡京で実現しており、古来からの歴代遷宮の慣行も二度目の遷都には適用できない。
平安遷都は「理念うすき遷都」になるため、桓武は、遷都と征夷の組み合わせを思いつく。
遷都と同時に戦勝報告を新京にもたらし、二度目の遷都を劇的に演出し、天皇の権威を飛躍的に高める構想である。    

いつ頃平安京遷都が計画されたか。
延暦12(793)年正月、桓武は藤原小黒麻呂・紀古佐美に山背国葛野郡を下見させている。
但し、和気清麻呂が没した際の伝記には(『日本後紀』)、
「長岡新都、十載を経るとも未だ功成らず。費(つい)え勝(あげ)て数(かぞ)うべからず。清麻呂潜かに奏す上(桓武)遊猟に託して葛野の地を相(み)せしめ、更に上都に遷す。」
とある。
清麻呂が狩猟にかこつけて、桓武に新都の地相を下見させたという。
延暦11年、桓武は15回以上、狩りや行幸に出かけており、計画時期は延暦11年に遡ると推測できる。
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閏11月28日
・この日、征東大使大伴弟麻呂が一旦辞見(謁見、辞別)し、陸奥に出発。
しかし、大伴弟麻呂は延暦13年元旦に節刀を与えられ再び陸奥に出発している。
おそらく、延暦11年閏11月以降に、征夷実施が延期され、大伴弟麻呂は一旦帰京し、延暦13年元旦に再び出発したと考えられる。

理由は、延暦12年正月に始まる新京(平安京)造営であろうと推測される。征夷実施と遷都とを組み合わせて行う方向で当初日程が修正されたと考えられる。
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1 件のコメント:

つちかべ さんのコメント...

安土桃山末期、江戸初めの1604年に、ポルトガル人のジョアン・ロドリゲスが、日本に布教に来て30年ほど滞在し、作ったのが「日本大文典」という印刷書籍です。400年前の広辞苑ほどもあるような大部で驚きます、秀吉の知遇、さらに家康の外交顧問もしていました。当時、スペイン国王からはメキシコに帰る難破船救助のお礼に、「家康公の時計」をもらっています。古代から伝えられてきた日本の歴史について知ることができる タイムカプセル でしょうか。戦国時代直後まで伝えられてきた古代史で、倭国年号が記載され、続いて慶雲以後の大倭年号が続きます。日本大文典の倭国年号の存在は、ウィキなどにも記載されていません、「日本大文典」の実物を手にとって見てください、感動すること間違いありません。    宜しくお願いします。