2011年10月15日土曜日

延暦5年(786)~6年(787) 長岡京の前期造営完了 延暦8年の征夷(桓武の第一次征夷)の準備開始

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延暦5年(786)
4月
・全国の国司・郡司・鎮将辺要(ちんしようへんよう)などに対し、農民人口の増加、勧農、貢納期の厳守、治安対策の強化などの行政上の力点を列挙し、さらに、「且つ守り且つ耕し軍粮儲(たくわへ)あり」また「辺境清粛して城隍(城と堀)修理」をめざして各自吏務に励むようを命じる。
庸・調などが未納し国用を欠く事態の打開策。
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5月
・平城京やその東西市から長岡京に移住してきた人たちに稲などを与える。
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7月19日
・長岡京の太政官院(朝堂院)が完成。
長岡京の前期造営が完了
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8月8日
・東海道・東山道に使者を派遣して、軍士の簡閲と武器・武具の点検を行わせる。

「従五位下佐伯宿禰葛城(かずらき)を東海道に、従五位下紀朝臣揖長(かじおさ)を東山道に使(つかわ)す。遺別に、判官一人、主典一人。軍士を簡閲し、兼ねて戎具(じゆうぐ)を検ぜしむ。蝦夷を征せむがためなり。」(『続日本紀』延暦五年八月甲子条)

延暦8年の桓武朝第1次征討に向けた準備の始まり。
延暦10年正月にも同じく、征夷実施に先立ち、軍士・軍需物資の点検のために使者を派遣している。
延暦8年には5万2,800人以上、延暦13年には10万人という、それまでにない大規模な征夷軍が編成されたため、3~4年程度の準備期間を置いて徴発を行う必要があった。

これらの使者は、その後征討使の将官に任じられる
(延暦7年3月、佐伯葛城は征東副使に任じられる)。

これ以前の征夷では、征夷決定から実施までの期間が数ヶ月程度で、征討使が閲兵の使者を兼ねていたと推測されるが、桓武朝の場合、征討使任命に先立って閲兵の使者を派遣し、彼らを征討使の将官に任ずるという方式がとられる。
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9月
・神野(かみの)親王(皇太子安殿の同母弟、後の嵯峨天皇)が誕生。
同年中に藤原旅子(たびこ)を母として大伴(おおとも)親王(後の淳和天皇)も誕生。

また、この年、葛原親王も誕生。母は、多治真宗。
葛原は、仁寿3年(853)に一品大宰帥大事師として68歳で没しており、逆算すると、延暦5年の生まれ。
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延暦6年(787)
1月21日
・王臣家・国司・百姓が夷俘と交易することを禁止する(『類聚三代格』巻19延暦6年正月21日太政官符)。

蝦夷は優れた馬を飼育しており、それを用いた騎馬戦は機動力に富み、征夷軍を悩ませた。
しかし蝦夷の馬の名声は都の皇族・貴族にも伝わり、王臣家が使者を派遣して蝦夷から馬を買い漁るようになる。
綿・鉄が交易の対価として使用され、それが利敵行為になるとの理由。

国司は公的な交易のほか、私的な交易も行っていることがわかる。しかも桓武朝第1次征討の準備が始まっている時期である。

馬飼は蝦夷の重要な生業であり、これと弓矢の日常的な使用が結び付いて、蝦夷は高い戦闘能力を身に付けていた。
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2月
池田美枚を鎮守副将軍に任命。
翌延暦7年2月にはもう1人、安倍猿嶋墨縄が任命される。
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閏5月
・鎮守将軍百済王俊哲、「事に坐して」(何らかの事件に関係して)日向権介に「左降」(左遷)されてる(『続日本紀』)。詳細は不明(征夷計画をめぐる現地官人間の対立か)。

38年戦争の開始以来、東北の軍事で活躍してきた彼を征夷から排除したことは失敗。
罪を許されて帰京するのは、征夷が終わった半年後の延暦9年3月。
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