2011年10月20日木曜日

延暦8年(789)6月~7月 延暦8年の征夷戦 桓武天皇に事後報告となった征夷軍解散

江戸城東御苑(2011-10-18)
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延暦8年(789)
6月2日
征東将軍紀古佐美、征夷軍解散を決定し全軍に通知
桓武の6月3日付け勅は10日頃に古佐美の許に届く筈であるが、それを受け取る前に、彼はすでに軍解散を決定し、全軍に通知。
理由は軍粮の補給困難。

それに対する桓武の勅が6月9日付けで出ているので、古佐美の軍の解散を申し出る奏状は、6月2日頃に出されたと推定される(『続日本紀』延暦八年六月庚辰(九日)条)。

紀古佐美が奏状で述べる軍を解散する正当性。
①次に攻撃すべき子波(しわ、志波、盛岡市周辺)と和我(わが、和賀、北上市周辺)の地は遠く、軍粮運搬に日数を要する。
玉造塞~衣川宮の運搬に4日、輜重が運ぶ軍粮・軍事物資の受け渡しに2日かかるので、玉造塞~衣川営の往還に10日を要す。
衣川営~子波を6日の行程とすれば、輜重兵の往還に14日(6日+2日+6日)を要する。
合計すれば、玉造塞~子波の往還に24日を要する。
その中には、途中で敵軍と戦闘する日数や、雨に妨げられ進軍できない日数は含まれていない。

②軍粮の消費量が多く、補給が追いつかない。
河陸両道(舟運と陸路)の輜重兵は1万2,440人で、それらが1回に運ぶ糒は6,215斛である。征討軍には2万7,470人がおり、彼らが1日に食する糒は549斛である(1人あたり1日2升)。このことから計算すると、輜重兵が一度に運ぶ軍粮は、僅か11日分にすぎない(6215斛/549斛=11.32日)。
子波の地を目指すには軍粮の補給が追い付かず、実戦部隊を割いて輜重兵に回せば、征討軍の兵力が減って征討ができなくなる。
更に、春夏を経て征軍・輜重兵ともに疲弊しており、無理な進軍は危険である。

③蝦夷軍の残党は潜伏しているが、既に春夏の農時を失し、水田・陸田を耕作できなかったので、彼らの戦闘能力も尽きようとしている。

以上のことから、紀古佐美は軍を解散し、軍粮を遺して非常時のために備えた方がよいと判断する。
そして、軍士は1日に2千斛を食し、奏上して勅裁を待っていてはさらに軍粮を消費するので、「今月十日までに軍を解散して戦地を離れるよう、全軍に文書で通達します」と桓武天皇に報告

奏状末尾の「軍士の食する所、日に二千斛なり」とすれば、この時軍士が10万人いたことになる。
多少の誇張はあるが、軍士5万2,800余人は、坂東諸国に割り当てられた人数なので、陸奥・出羽の軍士数を合わせれば、総数はこれを上回る。
胆沢の征夷に参加していた軍士は、征軍2万7,470人と輜重1万2,440人の計3万9,910人であるが、他に多治比浜成が率いる軍が別の方面で活動しており、それを含めれば5万2,800人をかなり上回る軍士がいたと想定できる。  
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6月3日
・桓武天皇が現地軍の失策を責める勅を発する。(『続日本紀』延暦八年六月甲戌(三日)条)

古佐美の奏状はおそらく6月3日に朝廷に到着し、桓武天皇は即日、屈辱的敗戦を喫した現地軍の失策を責める勅を下したと見られる。
その中で天皇は、本来ならば征討軍指揮の中枢を担う軍監以上の指揮官が揃って兵を率い、威容を厳かにしながら攻め討つべきであるのに、わずかな軍勢しか動員せず、しかも身分の低い前線指揮官たちに指揮を執らせたために敗戦という結果を招いたとしてこれを責めている。

作戦を立案した副将(入間広成・池田真枚・安倍猿嶋墨縄の3人)は、衣川の軍営に留まり、征東軍監・軍曹さえも実戦に参加していない。それより下位の別将たちがそれぞれの小部隊を率いて戦場に向かった。
これでは全くの寄せ集め軍隊であり、奇襲攻撃に遭って総崩れになるのもやむを得ない。
軍監以上の高級指揮官が実戦部隊を統括して、威厳のある軍隊とすべきであったと指摘し、それを怠った副将らを厳しく非難。

実際に戦場に向かったのは中軍・後軍から選ばれた4千人で、これに川を渡れなかった前軍の実戦部隊を加えても推定6人である。桓武天皇が長期間をかけて準備させた5万2,800人以上という軍士総数と比べれば、その1割以下にすぎない。
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6月9日
・軍の解散を全軍に通知するとの紀古佐美の奏状が桓武に届く。
奏状を読んだ桓武は激怒し、勅を下して征夷軍指揮官たちの無能をさらに厳しく叱責。(『続日本紀』延暦八年六月庚辰(九日)条)    

古佐美が6月10日までの解散を全軍に通知することを、6月9日着で天皇に予告したことは、その事後承諾を求めたに等しい。
桓武は激怒し、直ちに「軍を解くならば、まず事情を詳しく記して奏上し、許可を得てから解散しても遅くはない。それなのに一向に進軍せず、にわかに征討を止めるという。将軍たちの策のどこに道理があるというのか」と非難する勅を発したが、これが古佐美の許に届いたのは、6月16日頃のことで、全軍に解散を指示した後。今回の征夷は、この時点で事実上終了した。

桓武は、この決定を下した紀古佐美と、衣川にいながら実戦に参加しなかった入間広成・安倍猿嶋墨縄らを、同日の勅で激しく非難。
「将軍たちは凶悪な賊を恐れて避け、逗留していたことが、これではっきりとわかった。
それなのに、巧みに体裁のよい言葉を連ね、罪過を回避しようとしている。
不忠の甚だしいことこの上ない。
また広成・墨縄は、久しく賊地にあって戦場を経験しているので、副将の任を与え、奮戦して功績を挙げるのを待っていた。
しかし軍営の中にいて勝敗を静観し、地位の低い指揮官を派遣して、かえって大敗を喫した。
君主に仕える道が、どうしてそのようであってよいものか」。
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6月10日
・10日頃、桓武の3日付け勅が古佐美の許に届く。
古佐美は既に2日頃、征夷中止を決意し、軍を解き都へ帰還したい旨の奏状を朝廷に送っている。
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6月16日
・16日頃、9日付けの桓武の激怒した勅が古佐美の許く。
その後20日間以上、現地軍と中央との間の交信記録は全く見えない。

7月10日の古佐美の奏状を受けて、7月17日、桓武は再度激怒・叱責の勅を送るが、17日付け勅を見ると、6月9日付け桓武天皇の叱責の勅を受けて、巣伏の戦いに続き、船団による戦闘が行われていたことがわかる。

また、戦闘を指揮したのは征夷副使の中で唯一喚問も受けず、翌年には陸奥按察使兼陸奥守に進んだ多治比浜成であろうと推測できる。

巣伏では敗戦を喫したとはいえ、征東軍にはまだ巨大な兵力が温存されている。
天皇の厳しい譴責を受けた古佐美は、当初予定の子波・和我方面への遠征は中止せざるを得なかったものの、多大な期待をかけている天皇に対してせめてもの面目を示すため、衣川営に滞在する前線指揮官たちに再度進軍を命じたのであろう。

浜成による軍事行動が仮に北上川を遡上しての水軍戦であれば、主戦場は主力軍と同様に胆沢となり、交戦区域は区別しがたく一体化してしまい、戦後、彼だけが栄進するほどの特別な戦功を挙げ得たというのは不自然になる。
浜成が船団を率いて進軍したのは、『続日本紀』にもある通り海辺の地域であっただろう。

13年前の宝亀7年(776)、安房・上総・下総・常陸4ヶ国に命じられて船50隻が購入され、陸奥国に配備されている。
おそらく副使多治比浜成率いる海道方面の軍勢は3月に多賀城を発ち、国府の外港である塩釜湾の港津から多数の軍船に乗り込み出帆したのであろう。
船団は牡鹿・桃生郡の沿岸部を北上、各地で武威を示しつつ、実戦よりは示威と懐柔の方法で征夷を行ったのであろう。
征夷は、気仙沼湾や広田湾など後の気仙郡の辺りにまで及んでいた可能性がある。  
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7月17日
・この日、さらに桓武を怒らせる10日付発信の奏状が持節征東大将軍紀古佐美から届く。
胆沢を討ち荒墟となしたこと軍船による征夷が成功したことを報告

「いわゆる胆沢は、水田と陸田が広大で、蝦夷はそれによって生活しています。
大規模な兵が一挙に攻撃し、たちまち荒れ果てた廃墟となりました。
たとえ残党がいたとしても、はかないことは朝露のようなものです。
それだけではなく、軍船が纜(ともづな)を解き、多くの船が前後に連なって進み、天子の兵が戦いを加える所は前に強敵なく、海辺の浦にある洞窟の住居には二度と人家の煙が立つこともなく、山谷の巣穴にもただ鬼火を見るばかりです。
慶快にたえません。緊急の駅使を派遣して上奏いたします。」(『続日本紀』延暦八年七月丁巳(十七日)条)。

原文は「所謂胆沢は、水陸万頃にして、蝦虜生を存す」。
「水陸万頃」は、6月9日勅が引用する征東将軍奏状の「水陸の田」(水田と陸田)が広大に広がっていること。
胆沢の蝦夷は、多くが農耕を営んでいる。6月10日、征東将軍が軍を解散したのも、彼らが農繁期に耕作ができなかったので、放置しても餓死するであろうという希望的観測があったからである。

原文は「至如(しかのみならず)、軍船纜を解きて舳艫(じくろ)百里、天兵の加ふる所、前に強敵無く、海浦の窟宅、復人烟に非ず、山谷の巣穴、ただ鬼火のみを見る」。
「水陸万頃」と言われる胆沢での戦いではなく、胆沢の戦いに登場しない征東副将軍多治比浜成の三陸海岸沿いの軍事行動に関する文であることが、桓武天皇の勅の後半部分によって判明する。

・桓武は、17日付けで勅を発し、この奏状を逐一引用して厳しく非難。
(桓武は官軍側の莫大な被害を指摘、古佐美が多勢の戦死者を出したことを棚に上げ、虚飾の疑いのつよい戦果報告をしていると、これを厳しく非難)

「今、先後の奏状を見ると、斬獲した賊の首は八九級で、官軍の死亡は一〇〇〇人余りである。負傷者はほとんど二〇〇〇人である。
賊の首を斬ることは一〇〇に満たず、官軍の被害者は三〇〇〇人に及んでいる。このことから言えば、どうして慶快するに足りるであろうか。
また官軍が退却する時に、賊軍に追撃されたことが一度ならずあった。それなのに、「大規模な兵が一挙に攻撃し、たちまち荒れ果てた廃墟となりました」と述べている。事情を勘案すれば、これは虚飾と言ってよい。
また、池田真枚・安倍猿嶋墨縄らは、地位の低い指揮官を河(北上川)の東に遣わし、軍が敗れて逃げ帰る時に、溶死した軍士は一〇〇〇人余りであった。
ところが「一度に越え渡り、戦いながら村々を焼き払い、賊の巣穴を奪い取り、帰って本営を守りました」という。これでは溺死した軍士のことは切り捨てて言及していないではないか。」

「また、多治比浜成らが賊を討ち払い、その地を奪い取ったことは、いくらか他方面よりは勝っている。
しかし「天子の兵が戦いを加える所は前に強敵なく、海辺の浦にある洞窟の住居には二度と人家の煙が立つこともなく、山谷の巣穴にもただ鬼火を見るばかりです」と述べるに至っては、事実とかけ離れた浮わついた言葉である。」


征夷軍が89級の蝦夷の首を斬ったことは、6月3日付け勅に引用されている征東将軍奏状にはなかった。
また、征夷軍の負傷者が2千人に近いとされているが、これも6月3日の勅が引用する征東将軍奏状では245人で、大幅に増えている。

6月10日に軍を解散しているので、再度胆沢で征討が行われたとは考えられないが、どこかで戦闘があった可能性がある。
入間広成・池田真枚・安倍猿嶋墨縄らによる胆沢の征討とは別に、征東副将軍多治比浜成が船団を率いて三陸海岸沿いを征討したと想定し、それが気仙郡の成立に繋がるという推測が成り立つ。

蝦夷の斬首、征夷軍の負傷者の多くは、多治比浜成による征討で発生したのであろう。
浜成には、宝亀9年(778)に送唐客使判官として唐に渡った経験があるので、海路を行く征討には適任であった。

9月19日の征東将軍らの敗戦に関する勘問には、浜成は召喚されていない
また、翌年3月には陸奥按察使兼陸奥守の要職に就き、翌々年には征東副使となっている
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