鎌倉・常楽寺境内の柿木(2011-11-15)
*延暦8年(789)
8月30日
・陸奥国の軍士に対して、今年の田租と2年分の課役を免除すること、黒川以北十郡の軍士については「賊と居を接する」との理由でさらに課役免除の年数を延長することが定められる。
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9月8日
・持節征東大将軍の紀古佐美が陸奥から帰京、天皇に節刀を返却(『続日本紀』)。
場所は、2月に大極殿院の東方に完成した「東宮」(現在遺跡として知られる長岡宮内裏)。
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9月19日
・桓武天皇は、太政官の筆頭である大納言藤原継縄、中納言藤原小黒麻呂・紀船守(きのふなもり)らに勅して、太政官曹司において、征東将軍らが逗留して敗戦したことについて勘問(取り調べ)を行わせる。
継縄と小黒麻呂は、宝亀11年に征夷大使を経験している。
召喚されたのは、大将軍紀古佐美、副将軍入間広成、鎮守副将軍池田真枚・安倍猿嶋墨縄の4人。
(副使であった多治比浜成・紀真人は、勘問の対象外)
4人はそれぞれ理由を述べて弁明するが、いずれも自らの非を認め、天皇の勅によって処分が下される(『続日本紀』延暦八年九月戊午条)。
処分内容
・陸奥国の蝦夷を征討するために任じた大将軍紀古佐美は、委ねられた本来の計画に従わず、奥地まで攻め入ることをせず、軍を敗走させて軍粮のみを費やして帰ってきた。
これは法に従って厳しく糾問し処罰すべきであるが、以前から朕に仕えていることを思い、罪を問わずに許す。
・鎮守副将軍の池田真枚と安倍猿嶋墨縄らは、頑愚で臆病で拙く、軍の進退に節度がなく、戦いの時期をも怠り失ってしまった。
これを法に照らし合わせると、墨縄は斬刑に当たり、真枚は官職を解いて位階を奪うべきである。
しかし墨縄は長らく辺境守備に奉仕してきた功労があるので、斬刑を許して官職と位階だけを奪うことにする。
真枚は日上の湊(北上川渡河の港か)で溺れていた軍士を助け救った功労により、位階を奪う罪を許し、官職のみを解くこととする。
その他、少しでも功績のある者には、その軽重に随って評価し、小さな罪を犯した者は、その罪を問わずに許すこととする。
処罰されたのは、鎮守副将軍の池田真枚と安倍猿嶋墨縄のみで、しかも刑を軽減される。
征東大将軍紀古佐美は罪を許され、副将軍入間広成は勅の中で言及すらされていない。
紀古佐美はその後も参議として朝廷内で重きをなし、平安遷都の際には新都予定地の視察に派遣されるなど、桓武天皇の信頼も回復したようであり、延暦15年には大納言にまで昇進し、翌年に没。
寛大な処分が下された背景として、
①当時桓武の生母高野新笠が病気であったこと
②桓武と古佐美は、ともに紀諸人を曾祖父に持つという縁故、などの推測がある。
将官を厳罰に処することは、今後の征夷に官人を協力させるためには得策ではないと判断したのではなかろうか。
そのため、将官を厳しく譴責し、厳罰に当たることを示した上で、彼らの罪をすべて減免するという温情に満ちた君主を演じてみせたのであろう。
この時の征夷に伴う論功行賞は、翌年10月19日に行われる。
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12月28日
・桓武天皇の母、高野新笠、没。年齢不明(この年、桓武は53歳)。
天皇の悲しみは大きく、長岡宮内裏正殿を避けて西廟(ひさし)に移り、そこに皇太子安殿親王と群臣を集めて挙哀(こあい、声を挙げて悲しみを表す慟哭の儀礼)を行っている〈『続日本紀』延暦八年十二月丙申条)。
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