2012年6月9日土曜日

天慶3年(940)1月下旬 平将門、兵役を解き兵士たちを村々に返らせる。

東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-06-07
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天慶3年(940)
1月14日
・大元帥法(たいげんのほう)が法琳寺で修された(『覚禅抄』明王部など)。
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中旬
・正月中旬、平将門は、平貞盛と藤原為憲(常陸介惟幾の子)を討ち取るため兵5千を従えて常陸国へ向かった。
那珂郡・久慈郡の藤原氏(不詳)は、将門を郡境に迎えて饗応した。藤原氏によれば2人の居所は不明とのことであった。

10日ほどして、吉田郡蒜間(ひるま)の江のほとりで、頭(部隊長)であった多治経明と坂上遂高(かつたか)らは、貞盛の妻と源扶(たすく)の妻を捕縛した。吉田郡は、現在の水戸市元吉田町付近に比定され、蒜間の江は現在の涸沼かといわれる。

将門は、このことを聞いて、彼女たち自身に被害が及ばないようにするための命令を下したが、その前に兵士たちによって捕虜にされてしまった。
「就中貞盛が妾は、剥ぎ取られて形を露わにして、更に為方なし。眉の下の涙は、面の上の粉を洗い、胸の上の炎は、心の中の肝を焦る。」(『将門記』)
貞盛の妻は、兵士たちによって裸にされ、集団暴行を受けたことを椀曲的に示している。
『今昔物語集』では、「兵等ノ為ニ犯サレタリ」と表記している。

多治経明と坂上遂高らは、貞盛の妻に罪はないので、故郷に帰すべきであると進言すると、将門も同意して一組の衣服を与え、併せて彼女の本心を試す(貞盛の居場所を聞き出す)ために、次のような歌を贈った。

「よそにても 風の便に 吾ぞ問う 枝離れたる 花の宿(やどり)を」
(場所が異なっても、風の便り(花の香り)によって、枝を離れ散った花のありかを尋ねるのと同じように、私もどこにいるのかわからないあなたの夫(貞盛)の居場所を尋ねましょう。)
これに対して、貞盛の妻も、将門に恩を受けたので、次のように返した。
「よそにても 花の匂いの 散り来れば 我が身わびしと おもはえぬかな」
(場所が異なっても、花の香りが散りかかってくるのと同じように、あなた様がお心に掛けて下さるので、(夫がいなくとも)自分の身が侘しいとは思いません(夫の行方を知りません))。

また、源扶の妻も自分の身の不幸を恥じて、人に託して詠った。
「花散りし 我が身もならず 吹く風は 心もあわき ものにざりける」
(花が散ってしまったような惨めな我が身は、もう自分の身をどうすることもできません (「身も成らず」と「実も生らず」の掛詞)。私に吹きかかる世の中の風も、心寂しく思われます。)
こうした和歌の応答によって人々の心も和んだという。

しかし、これは、『将門記』作者の潤色かと思われる。"
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1月18日
参議藤原忠文(ただふみ)を征東大将軍に任命(『日本紀略』『貞信公記』、『公卿補任』天慶3年条)。
兵士20人以上を差発する場合には勅許が必要:兵士派遣は、天皇のみに許された特権(天皇の「軍事大権」)であった。
しかし、天皇自らが先頭に立って行軍することは不可能であったから、現地に派遣する指揮官に軍事大権を委譲する必要があった。
この軍隊を征討使、指揮官を大将もしくは将軍と呼んだ。

征討使の構成は、将軍のほか、副将軍・軍監(ぐんげん)・軍曹・録事(ろくじ)などであった。
その任命に当たっては、天皇から軍事大権のシンボルである節刀が下賜され、指揮権はもとより、命令に従わない部下を殺す権利を含めた全権が委譲された(軍防令)。

征東大将軍とは、本来、蝦夷征討のために任命された征東使の長で、征夷大将軍と称したこともあった。
前例としては、8世紀末から九世紀初め、大伴弟麻呂・坂上田村麻呂・文室綿麻呂らが任じられたが、弘仁2年(811)に任命されて以降、中絶していた。

征東軍の副将軍には、藤原忠舒・藤原国幹・平清幹・源就国(なりくに)・源経基らが任命された(『扶桑略記』2月8日条)。
忠舒は、正月1日に東海道の追捕使に任命されていたのを再任した。
国幹は忠舒の弟で相模介(相模守の誤。か)、清幹は上野介を兼ねた。逃亡した国司に替わって新たに任じられた(『貞信公記』正月25日条、『類聚符宣抄』巻8)。国司を兼務しているのは、任国からの兵員や兵粮の徴発を円滑に行うためである。

また、この日(18日)、藤原遠方・成康(しげやす)が軍監・軍曹に、20日に藤原文元が軍監に任命された(『貞信公記』)。
この3人は藤原純友配下の者で、文元は、副将格で備前介藤原子高(さねたか)に陰惨なリンチを加えた。
政府は、純友軍の主だった者たちに官位・官職をちらつかせて寝返りをさせ、純友軍の戦力低下と将門追討軍の整備を狙った一挙両得策に出た。
実際、遠方・成康は以後純友から離れ、征東使の一員となった。
ただし、文元はこの誘いに乗らず、純友と行動を共にし、最後は、但馬国朝来郡で殺される(『本朝世紀』天慶4年10月26日条)
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1月19日
・山陵使が立てられた(『師守記』)ほか、仁王経(にんのうきよう)の転読、大威徳法(だいいとくほう)も行われた(『華頂要略』巻120)。
これ以降も、24、25、30日、2月1日などに各種の修法・奉幣が実施された(『貞信公記』ほか)。
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1月25日
・遠江・伊豆両国から、駿河国に進出してきた将門勢が政府の使者から将門追討官符を奪ったと報じる。
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下旬
・1月下旬((太陽暦の3月初旬))、貞盛たちを発見できなかった将門は、そろそろ田起こしの時期でもあり、兵役を解き兵士たちを村々に返らせた

この頃の兵(従類と伴類の2種類)は、1年中、兵士として勤務するのではなく、農繁期は農業に従事し、作物の刈り入れ後(農閑期)に兵士として主人に従うのを常としていた。
とくに、兵士の大部分を占める伴類は、彼自身が従類を率いる小集団の長であり、しかも、主人との関係が稀薄で、戦況がいったん不利になると蜘妹の子を散らすように逃げ去ってしまう者たちであったから、徴兵期間を長引かせることは、伴類の求心力を低下させる恐れがあった。
また、農繁期には大規模な合戦を行わないというのが暗黙の前提でもあった。

残ったのは、将門の従類と、坂東国司に任命された将門の側近およびその配下の者たち僅か1千足らず。
下野掾兼押領使の藤原秀郷と常陸掾兼押領使の平貞盛はこの機会をまっていた。
貞盛は、秀郷のもとに隠れていた。
彼らは、兵4千人を動かして、将門に合戦を挑んだ。
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1月30日
・純友の仲間を将門の乱鎮圧の征東軍に転用させて弱体化させる一方、純友に従五位下の位階を与えて懐柔するなど(『貞信公記』天慶3年正月30日条)、なるべく直接的な軍事衝突を回避しようとする。
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