1908(明治41)年
11月14日
[光緒34年10月21日]西大后が擁立した清の皇帝の光緒帝(38)、急死(西大后の死の1日前)。
溥儀(3)、即位。翌年より宣統と改元し、溥儀の父載豊、摂政王となる。
11月14日
物理学者のアルバート・アインシュタイン、光の量子理論を発表。
11月14日
キューバで選挙、自由党のホセ・ゴメス、大統領に当選。
11月15日
西太后(74)、没。
11月15日
京都岡崎町桜ノ馬場で全国第1回慈善自転車大競技会開催(主催平安徳義会)。
11月15日
ダライ・ラマ、北京訪問。
11月15日
「新フランス評論」創刊
11月15日
ベルギー領コンゴ、議会承認(10月18日)を経て正式に併合される。
11月16日
東京市立日比谷図書館、閲覧開始。
11月16日
内閣、競馬規程公布。競馬会以外による競馬開催を禁止。
11月19日
安慶事件。革命家熊成基、安徽省安慶に新軍を動員、蜂起。
20日、清軍に制圧。
11月19日
「十一月十九日
十時起床、風邪はよほど好い。すぐ(四)の八に筆をとつた。間嶋君から電話で、予ての歌を直してくれと言つて来た。
昼飯をすごして、一時頃平野君から電話、吉井君が来てるから来ないかといふ。一時間後にゆく約束をして、小説をかいて了つて二時半出かけた。上田氏の宅に行つてゐるといふ。行くと平野吉井に栗山の三君がゐた。上田氏は仏蘭西の話をされた。面白かつた。二十三日に立つて京都にゆくといふ。アナトール・フランスの小説の梗概二つ三つきいた。
黄昏に帰つた。毎日社から電話。
急に思ついて、俥で北原君を訪うた。留守。弟君が時計を質に入れて二円五十銭かしてくれた。九時辞して、帰途額と画五枚と原稿紙をかつた。紙屋の店にアノ女――夏に吉井君と二人で人形をかつた時の女に似た女!」(啄木日記)
11月19日
新宮の医師大石誠之助、この日~23日迄、平民社滞在(10日頃、上京し医療器具・書籍など購入)。
22日「大石誠之助君を歓迎する集い」開催。新村忠雄は初めて大石と会う。26日、帰郷。
後の大逆事件裁判では、天皇暗殺の共同謀議とされる(幸徳・大石二人きりで、身を捨てて働く者が50人もいれば、二重橋に迫り錦旗革命のようなものができるとの「革命ばなし」をする)。
27日、京都着。2日間滞在。歯科医山路二郎のところで歯に治療をする。宿舎柊屋に「日の出新聞」記者徳美松太郎が訪問、東京の土産話で「革命ばなし」をする。
29日、大阪着。常宿にしていた和歌山県人経営の西区の「村上旅館」に投宿。
12月1日夕方、食事後、旅館の裏の下座敷で茶菓をだして雑談。出席は武田九平(金属彫刻業)・岡本頴一郎(えいいちろう、会社員)・三浦安太郎(ブリキ細工職人)・岩出金次郎・佐山芳三郎。ここでも東京の「革命ばなし」がでる。(大石から東京の土産話を聞いた武田九平、三浦安太郎、岡本頴一郎は無期懲役になる)
帰郷後、大石は、翌明治42年1月下旬の旧正月のころに新年会を催し、そこに成石平四郎、高木顕明、峯尾節堂(三重県南牟婁郡相野谷村(現・紀宝町)の泉昌寺の留守居僧、臨済宗妙心寺派、崎久保誓一の4人が参加した。この新年会も謀議の教宣の場とされる。
明治43年6月8日、東京地方裁判所での予審判事・潮恒太郎による大石への第1回尋問ではこうなっている(冒頭要旨)
問 幸徳も無政府主義を主張しているか。
答 さようです。
問 幸徳は、どんな方法でその主義を実行しようというのか。
答 四十一年十一月中私が上京したとき、巣鴨の平民社に二回幸徳を訪ねました。最初行ったときいろいろ主義のことについて話しましたが、そのとき幸徳は日本でもロシアやフランスのように暴力の革命が必要であると申しました。その後二、三日たってまた幸徳を訪ねましたとき、同人はフランスのコムミユンの話をしまして、決死の士が五十人ばかりあれば、これに爆裂弾その他の武器を与え、裁判所や監獄、市役所やその他の官庁、さらに富豪の米庫を破壊し、暴力によって社会の勢力を占領すれば、革命の目的にとって非常に利益であると申しました。
各地の社会主義新聞は発行禁止処分を受け、「赤旗事件」から間なしで、桂政権による思想弾圧が一段と厳しくなっていたころである。秋水と大石の間で閉塞状況を何とか打破したい、打破しなければという話が出た。しかし、それらは、雑談や放談の域を出ず、何かを企てたり、具体的な行動計画を練ったというものではない。
11月19日
第13回日本興行銀行債券100万ポンド、ロンドンで発行。韓国政府への借款供与のため。23日、パリでも同額発行。
11月20日
(漱石)
「十一月二十日(金)、上田敏、帰朝の挨拶に来る。国木田独歩の作品は、自然そのままでなく、こしらえたものだと主張する。初め上田敏は、反対したけれども後に同意する。この頃、小春日和続く。
十一月七日(土)から十一月二十二日(日)まで快晴続く。明治十四年から大正五年までの間の、最長快晴記録である。
十一月二十二日(日)、鈴木三重吉 (千葉県成田町吾妻屋)宛手紙に、「先日御能を久し振りにて拝見中々退屈のものにて候。其時秋聲君に紹介され候。」と書く。
徳田秋声は「九段の夜能を見たのであるが、ちやうど夏目漱石氏も別の桝へ来てゐて、(中略)後にも先にもその時きりだが」(「四名家第一印象」昭和十三年六月二日『東京日日新聞』)と書いている。十一月三日のことと思う。
十一月二十四日 (火)、二十四日会(朝日新聞社編集首脳定例会議) に初めて出席する。」(荒正人、前掲書)
11月21日
三省堂、『日本百科大辞典』(~1919年4月26日、10巻)。
11月21日
「十一月二十一日
今日は大掃除、そこそこに(四)の十を書いて了つて、午后久振に千駄ヶ谷に行つた。主人はまだ旅より帰らず、晶子さんが、小供らに取まかれてゐた。聞けば、今月の初め二日間許り、右の半身が半分不随になつたさうな。医者は脳の過労のためだと言つたさうな。予は悲しかつた。
明星の百号千部のうち二百部売残つたため、女史が今かいてゐる小説“不覚”五十回分だけ万朝報社に持つて行つて金を貰ひ、印刷の方など払つたといふ。予は悲しくなつた。
三時半に帰つて来た。
明日三省堂の日本百科大辞典の披露園遊会が大隈伯邸に催される。行かぬかと金田一君がいふ。
それで平野君へ行つて同行を約し、追分日本館に藤岡玉骨君を訪ね、三円借りた。京都の舞姫から貰つたといふ、金地に井菱の舞扇を貰つて九時辞した。それから俥で四丁目、電車で塔下の苑…………
十二時、四丁目から苦学生の俥、二十銭くれた。
この日、久振に函館の岩崎君から手紙。ノロケてよこした。悲しくも。
十一月二十二日
日曜日。
大急ぎで(五)の一鳥影のところをかいてると、平野君が約の如く来た。金田一君の羽織袴をかりて出かけた。初めて大隈伯邸に入つて二千余人の来賓と共に広い庭園に立つた時は、予は少し圧迫される様な感がした。間もなく金田一君、岩動君小笠原君らに逢ひ、園中の模擬店を廻つた。菊はすがれたが紅葉の盛り。
上田敏氏も来てゐられた。花の如き半玉共の皆美しく見えた。一人、平野君がテンプラを攻撃してるうちに、ブラブラ歩いてるうちに、皆にはぐれて了つて池を廻り、山に登つた。何処も彼処も人、その数知れぬ人の間に誰も知つた人は居なかつた。予は実際心細かつた。漸く上田氏を見つけて初めて安心した。
上田氏は、二十日に夏目氏に逢つたが、独歩の作が拵らへた拵へぬといふ議論で、拵へたといふ夏目氏の方は理屈があるらしいと言つた。
ビール、を飲んだ。立食場は広くて立派なもの。テーブルスピーチは聞えなかつた。日本人は園遊会に適しない。少くとも予自身は適しない。
六時頃に済んだ。何のために、何の関係なき予らまで来て御馳走になつたらうと、平野君と語り合つて笑つた。芝居をやつた大広間の金の唐紙に電気が映えて妙に華やかな落ついた色に輝いてゐた。それを紅葉の間から見た刹那の感じはよかつた。
門――今迄くぐつた事のない立派な門を出るとき、此処から一歩ふみ出せば、モウ一生再び入ることがあるまいと言つて笑つた。実際――恐らくは実際さうであらう。
帰りに四丁目の縁日を見、シヤツや刻煙草をかつて来た。湯に入つた。大分つかれてゐた。
“昴”に出すべき“赤痢”を書き出した。・・・・・
(略)」(啄木日記)
11月22日
第1回日米野球
11月22日
ハンガリー、急進派青年によるガリレイ・サークル結成。
11月23日
第13回日本興行銀行債券100万ポンド、ロンドン(19日)に続いてパリでも同額で発行。
11月25日
熊本の松尾卯一太、幸徳訪問。「熊本評論」再建の相談。19日の大石の訪問と併せて、「熊本の主義者の巨魁と和歌山の巨魁」の集合とされる。
(松尾は死刑、松尾が熊本に戻って秋水の話を伝えた新美卯一郎も死刑、佐々木道元と飛松与次郎が無期懲役になる)
11月25日
倉敷紡績(株)、吉備紡績(株)の買収を株式総会で決議。
11月26日
森近運平、巣鴨平民社を出て、小石川区水道橋に部屋を借り、郷里から妻子を呼び寄せる。
11月28日
内務省、神道所管天理教会を分離し天理教と称し一派独立を許可。
11月28日
東京俳優養成所が開所。
11月29日
(漱石)
「十一月二十九日(日)、午前または午後、森田草平来る。対話後、『煤煙』の原稿を書き直していると云って急いで帰る。小宮豊隆宛葉書に、「今日は難有候ダヌンチオあらば買っていたゞき度候、紅葉狩は郵便で送り候」と書く。夜、渋川柳次郎(玄耳)来て、森田草平の『煤煙』について相談する。
十一月三十日(月)、午前、渋川柳次郎(玄耳)宛手紙に、森田草平の『煤煙』見本が届いたのでご覧に入れる、その上で決定していただきたいと伝える。『煤煙』の掲載決定する。二千号(十二月一日(火))に予告する。森田草平に知らせるため、白仁三郎(坂元雪鳥)と共に二度訪ねたが、二度とも留守で会えない。夜、森田草平宛手紙に、「書直すひま惜しとて帰りながら二度行つても居らず。何所をあるいて居るにや。あまり呑気にすると向後も屹度好い事なき事受合に候。」と結ぶ。」(荒正人、前掲書)
11月30日
太平洋方面に関し日米交換公文(高平・ルート協定)調印。太平洋方面における現状維持と清国の領土保全、商業上の機会均等主義を確認。中国の門戸開放を約束。12月2日公示。
11月30日
「十一月三十日
おそく起きた。
平山良子から写真と手紙。驚いた。仲々の美人だ!
スラスラと鳥影(七)の二をかき、それを以て俥で午後三時毎日社へ行つた。そして三十円――最初の原稿料、上京以来初めての収入――を受取り、編輯長に逢ひ、また俥で牛込に北原君をとひ、かりた二円五十銭のうち一円五十銭払ひ、快談して帰つた。宿へ二十円、女中共へ二円。日がくれた。栗原君の新居を訪ふと病床にありと。Victim を返してかへる。
異様な感じにうたれた。
九時頃から金田一君と共に四丁目の天宗へ行つてテンプラで飲んだ。大に喋つた。十二時酔うてかへつて寝た。」(啄木日記)
つづく

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