2020年12月19日土曜日

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ4)「真之の姪で「日本騎兵の父」といわれた秋山好古の次女の土居健子は、《お律さんのそばにおりまして、ひょっとしたらお律さんは叔父真之のことを好きたったのではないかしらん、と思ったことがございます。私の感じといいますか、想像に過ぎないのですが、叔父は美男子でしたし、尊敬するお兄さまの親友ですから、あるいは結ばれることを夢みておられたのかもしれませんね》(『子規全集』月報11)と語っている。こういうことから、司馬が想像を逞しくして真之が律の相手にふさわしいという物語を作り上げたのかもしれない。」    

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ3)「小生出発の当時より生きて面会致す事は到底叶ひ申間敷と存候。是は双方とも同じ様な心持にて別れ候事故今更驚きは不致(いたさず)、只々気の毒と申より外なく候。但しかゝる病苦になやみ候よりも早く往生致す方或は本人の幸福かと存候。」(漱石の虚子宛て書簡;明治35年12月1日)

より続く

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ4)

4 一本の棒杭たり


十二月五日、ロンドンを出航した日本郵船の博多丸は、・・・・・翌明治三十六年一月二十三日、神戸港に入港した。

(略)

ともかく無事神戸に上陸した漱石は、その日の夜行列車で神戸を発ち、翌一月二十四日朝、新橋停車場に到着、二年四か月ぶりに東京の土を踏んだ。・・・・・

帰国した漱石は本来なら二、三日旅の疲れを癒やせば、何を措いても田端大龍寺の子規の墓に詣でなければならないのに、漱石はそうしなかった。それは決して漱石が薄情だった訳でもなく、子規のことを忘れていた訳でもない。ただ帰国後の漱石はそれこそ公私とも、むやみに忙しかったのである。

帰国すれば漱石は直ちに熊本に帰り、五高教授に復職しなければならないのに、熊本には帰りたくなく東京で職を見付けたかった。それで友人の菅虎雄らを介して奔走してもらった結果、ニ月半ばになってやっと一高講師と、ラフカディオ・ハーンの後任として東京帝国大学英文科講師を兼任する話が決まった。そうなると、いつまでも岳父の所で厄介になっている訳にもいかず、借家も探さなければならない。

世事に疎い漱石も仕方なくあちこち借家を探して歩いたが、運よく三月初め友人斎藤阿具の本郷千駄木町の持家が空いたので、それを借りることにした。この家は以前に森鴎外も一時借りていたこともあったが、斎藤が買い取り仙台の二高教授に赴任するまで住んでいたのであ

さて、新しい職も決まり住む家も見付かったので、漱石も遅ればせながら子規の墓に詣でることにした。しかし、それがいつだったかほどこにも記していない。職が決まった後なら二月半ばだったろうし、千駄木へ引っ越した後なら三月初めということになる。

さいわい漱石は「無題」という短い墓参の記録を残している。漱石はそれをどこかへ発表するつもりだったのかもしれないが、一字不明な箇所もあり未定稿のままだ。これが後に、江藤淳と作家の大岡昇平の間で論争のもとになるので、余り省略せずに紹介しておこう。


水の泡に消えぬものありて逝ける汝と留まる我とを繋ぐ。去(さ)れどこの消えぬもの亦(また)年を逐(お)ひ日をかさねて消えんとす。定住は求め難く不壊(ふえ)は尋ぬべからず。汝の心われを残して消えたる如く吾の意識も世をすてて消る時来るべし水の泡のそれの如き死は独り汝の上のみにあらねば消えざる汝が記臆(ママ)のわが心に宿るも泡粒の吾命ある間のみ

淡き水の泡よ消えて何物をか蔵(かくさ)む汝は嘗て三十六年の泡を有(も)ちぬ生ける其泡よ愛ある泡なりき信ある泡なりき憎悪多き泡なりき〔一字不明〕して皮肉なる泡なりき(中略)

霜白く空重き日なりき我西土より帰りて始めて汝が墓門に入る爾時(そのとき)汝が水の泡は既に化して一本の棒杭たりわれこの棒杭を周(めぐ)る事三度花をも捧げず水も手向けず只この棒杭を周る事三度にして去れり我は只汝の土臭き影をかぎて汝の定かならぬ影と較べんと思ひしのみ


といった雅文体の美文で、後でもふれるが漱石の初期の短篇「薤露行(かいろこう)」(「中央公論」明治三十八年十一月号)の先駆をなすものであった。


5 「薤露行」


(略)



雀の子忠三郎 - うまれながらの長者


1 共立女子職業学校


明治三十五年九月十九日子規が没した時、三歳下の妹律は三十二歳だった。子規が明治二十五年秋、帝大を中退して日本新聞社に入社したのを機に、母の八重と妹の律は松山の家を畳んで子規といっしょに東京で暮らすようになった。それからほぼ十年間、二人は全てを擲(なげう)って子規のために尽くしてきたといっていい。

本来なら律は長年の兄の看病から解放されて身軽になったのだから、心機一転、ここで再婚の道を考え、新しい人生を踏み出してもよかったのだが、そうはしなかった。松山の知人たちも、律が兄の看病に半生を捧げたことに同情し、「律さん、可哀相じゃね、お嫁にも行かないで」と噂していたそうだが、実は律は二度結婚して二度とも離縁になっている。

最初の結婚は十四歳の時。花聟は従兄の陸軍将校、恒吉忠道だったが、気性が合わず間もなく離婚した。いとこ同士の上、律も気の強い方だったのでうまくいかなかったのであろう。二度目の結婚相手は松山中学の地理の教師、中堀貞五郎だった。この時、律は十八歳で当時としては幼な妻という程でもなかったが、又してもうまくいかなかった。

中堀は律との離婚後もずっと教師を続けていて、明治二十八年漱石が松山中学に赴任してきた時には、下宿を世話して漱石に喜ばれている。これがいわゆる愚陀仏庵で、ここへ日清戦争に従軍して病を得た子規が、予後の静養に転がり込んできたのは周知の通りだ。漱石が子規に下宿の斡旋者の話をしたとは思えないが、狭い世界だけに不思議な縁といえる。

(略)

さて、司馬遼太郎の 『坂の上の雲』は小説だから、律が兄の親友秋山真之に淡い恋ごころを抱いていたように描かれている。昨年(平成二十一年)放映されたNHKスペシャルドラマでも、菅野美穂扮する律と本木雅弘扮する海軍士官秋山真之の再会と別れが、ドラマの中で一つの見せ場になっている種だ。実際は離婚歴のある律が真之を頼もしく思うことはあっても、再婚の相手と考えていたとは思えない。しかし、真之の姪で「日本騎兵の父」といわれた秋山好古の次女の土居健子は、《お律さんのそばにおりまして、ひょっとしたらお律さんは叔父真之のことを好きだったのではないかしらん、と思ったことがございます。私の感じといいますか、想像に過ぎないのですが、叔父は美男子でしたし、尊敬するお兄さまの親友ですから、あるいは結ばれることを夢みておられたのかもしれませんね》(『子規全集』月報11)と語っている。こういうことから、司馬が想像を逞しくして真之が律の相手にふさわしいという物語を作り上げたのかもしれない。この健子が後に律の養子となって正岡家を継ぐ忠三郎の仲人を務めることになるが、そのことは後でふれたい。

ともかく真之は子規が没した翌年、晩婚ながら三十六歳で宮内省の役人の娘と結婚した。この時、真之は海軍少佐であった。"

さて肝心な律は子規亡きあと再婚を考えるどころか、するべき仕事が山積していた。まず子規の遺品遺墨を整理し、断簡零墨に至るまで一物も残さず大切に保有しなければならない。また母八重を助けて仏事を行い、香典返しに『子規随筆』を印刷して発送するのにも、律の手が必要であった。その間に松山に帰郷して、正宗寺で行われた子規遺髪の埋葬式にも出席しなければならなかった。

こうした事が一段落した翌明治三十六年、律は神田の共立女子職業学校本科に入学し、裁縫や手芸を学んだ。なにぶん律は松山の小学校を出ただけで、それも後の学制からいえば四年制の尋常科を終えたに過ぎない。・・・・・

(略)

・・・・・三十歳を過ぎて今更、女学校に行くわけにもいかず、年齢に制限のない職業学校に進んだのである。この学校はもともと、戦争未亡人に手に職を付けさせるため創設されたもので、日本における女子職業教育の先駆的な学校であった。それが発展して現在、共立女子大学という日本有数の女子学園になっているのは周知の通りだ。

律は子規に似て学問好きで、本科を出ると更に補習科に進み、明治三十九年に卒業すると初めは事務職員となり、やがて本科の教員となった。それから松山で八重がやっていたように子規庵でも裁縫や手芸を教えた。まだアルスから全十五巻の最初の『子規全集』が出る前で、子規の印税も少ない頃であったが、あれやこれを合わせると八重と律が普通に暮らしてゆくのには、何不自由はなかった。


つづく



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