2020年12月16日水曜日

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ1)「一月二十二日火 ほとゝぎす届く子規尚生きてあり 」(漱石の日記;明治34年1月22日)

 この2年ほど漱石の年譜をセコセコ作っているが、ふとした行き掛かりで子規の晩年に集中してメモを作り出した。これに関する記事のまとめ、、、

「サナクトモ時々起ラウトスル自殺熱ハムラゝゝト起ツテ来夕、、、、、死ハ恐ロシクハナイノデアルガ苦ガ恐ロシイノダ病苦デサへ堪へキレヌニ此上死ニソコナツテハト思フノガ恐ロシイ、、、、」(明治34年10月13日付け正岡子規『仰臥漫録』)

早坂暁「子規とその妹、正岡律 - 最強にして最良の看護人」を読む(メモ4終)「何度となく、死の淵に立った私は、そのたびに『仰臥漫録』を手に取り、力をもらったと考えている。 そうです、最後の最後に私の杖になり支えてくれているのが、『仰臥漫録』なのです。」

松永昌三『中江兆民評伝』(岩波書店) 第八章 ”一年有半”の世界(メモ6終)「子規の叔父加藤恒忠(拓川、一八五九-一九二三)は、第四章第三節で述べたように仏学塾に学んだことがある。加藤は、陸羯南・原敬らと司法省法学校の同期で、同校を退学処分になった一八七九(明治一二)年二月直後から八三年フランス遊学に出発するまでの四年間、仏学塾に在塾していたようだ(『拓川集 日記』)。この加藤からの依頼で、陸が子規の面倒をみるようになったのである(司馬遼太郎『ひとびとの跫音』)。子規は、兆民に対して、多少の思い入れがあったと思われる。」

関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ17終)「子規遺品は一度著作権継承者正岡忠三郎のものとなったのち、まとめて国会図書館に寄贈された。ひきつづき保存会の所有となった子規庵は、昭和二十七年十二月、東京都の文化史蹟に指定され、鼠骨没後の維持が約束された。鼠骨の努力は無とならなかったのである。」

井上泰至『正岡子規-俳句あり則ち日本文学あり-』(明治34年以降)(メモ9)「.....子規の悪口を自分への叱咤激励と心得て、.....『吾輩は猫である』を子規への手紙代わりに、その心の慰めにしよう、と言う。」 「要するに、子規の絶筆の滑稽も、『吾輩は猫である』のそれも、縁つづきだと言いたいのである。.....『吾輩は猫である』は、子規との滑稽を含んだ交際の中から生まれたものだ、と言いたいらしい。俺が作家になっちまったのは、お前のせいだといった口調である。」

で、次に取り上げるのは、日下徳一『子規断章 漱石と虚子』の中の子規の晩年(ほぼ明治34年以降)に関するところである。

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ1)

《目次》
佐幕派の末裔 - 十年前の屈辱
武士の子、町人の子 - 罅が入りかけた友情
「京に着ける夕」 - 子規と来たときには 
漱石の松山行 - 謎に包まれた動機  
漱石の妻、鏡子 - 足りなかった盃  
鏡子夫人の恋文 - 吾妹子を夢みる
倫敦の漱石 - 子規尚生きであり
子規の墓 - 棒杭を周ること三度
雀の子忠三郎 - うまれながらの長者  
木瓜咲くや - 漱石、拙を守る  
「露月を女米米に訪ふの記」 - 虚子は既に小説家 
「柿二つ」- 虚子と碧梧桐
遅すぎた文化勲章 - 虚子たちのその後 
あとがき 
主な参考文献 

倫敦の漱石 - 子規尚生きてあり
1 一通の絵葉書

(略)

2 「倫敦消息」

(略)

3 「オラレプル」な部屋

(略)

4 子規尚生きてあり

留学中の漱石にとって気がかりなのは、東京に残してきた鏡子や子供たちのことであり、病状が日毎に悪化しているに違いない子規のことであった。
家族のことは鏡子が時たま寄越す手紙でなんとか分かるが、子規からの音信はそう期待できるわけでもない。そうなると、二か月ほど遅れて届く「ホトトギス」だけが唯一の便りだった。明治三十四年の日記にも、

一月二十二日火
ほとゝぎす届く子規尚生きてあり
二月二十日水
晩に虚子ヨリほとゝぎす四巻三号送り来るうれし夜ほとゝぎすを読む

といった記述が見られる。「ホトトギス」に子規の句が出ておれば、子規が生きている証拠であった。また巻末の消息欄には、虚子や碧梧桐の筆になる「病状報告」もあって、漱石は一喜一憂しながら読んだにちがいない。
ところでこの年(明治三十四年)春の末頃、鏡子が子規を見舞ったことは余り知られていない。鏡子はそのことを四月十三日付の手紙で漱石に知らせているが、それによると前年の明治三十三年の秋頃、子規の母八重が留守宅へ見舞いに来てくれた。漱石がいなくて淋しい上に一月には出産予定の鏡子を、律義な八重が様子を見に来てくれたのである。
鎮子はー月に次女恒子も生まれたし、のびのびになっていたその返礼を兼ねて春の末頃、子規を見舞った。

・・・・・御病気は一寸是迄の御様子は存じ不申候へ共拝見致した処ではあまりいひ御様体ではない様に存じますたゞ御自分では別に変らないたゞ身体の弱るばかりとの事 私は正岡様の御様子を見ておば様の御年寄の御身でおわかい方の御病気を御そはにいで御介抱を遊ばす御心の内どんなに心細い御心配な事だらう思ひましたら自分でもいやな心持で家に帰ってから二日ばかりはその事を思ひ出して驚いていました、・・・・・

と鎮子はありのままに漱石に知らせた。後に鎮子は『漱石の思い出』の中でも、このことにふれ《それは亡くなられる年の春の末ごろかとおぼえておりますが、お顔や唇はまるで半紙のように白く、息遣いが荒くて、見ていても苦しそうでした。まったくじっと臥せったきりで、私がきたというのでほんのちょっと頭をもたげて話をなさいましたが、あれでよくまあ生きていられるものだと思いました。》と語っている。
この時、鏡子が見舞いに行った年を勘違いして《亡くなられる年》としたため、現在でも『漱石研究年表』や『子規全集』(年譜)などで《春の末頃、鏡は正岡子規を見舞う》となっている。しかし、これは昭和六十一年秋、北軽井沢の野上弥生子の山荘から見出された鏡子の手紙にあるように、子規の没する前年の明治三十四年の春の末が正しい。


つづく


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