2020年12月18日金曜日

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ3)「小生出発の当時より生きて面会致す事は到底叶ひ申間敷と存候。是は双方とも同じ様な心持にて別れ候事故今更驚きは不致(いたさず)、只々気の毒と申より外なく候。但しかゝる病苦になやみ候よりも早く往生致す方或は本人の幸福かと存候。」(漱石の虚子宛て書簡;明治35年12月1日)   

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ2)「子規がいきて居たら「猫」を読んで何と云ふか知らぬ。或は倫敦消息は読みたいが「猫」は御免だと逃げるかも分らない。然し「猫」は余を有名にした第一の作品である。有名になつた事が左程の自慢にはならぬが、墨汁一滴のうちで暗に余を激励した故人に対しては、此作を地下に寄するのが或は恰好かも知れぬ。季子(きし)は剣を墓にかけて、故人の意に酬いたと云ふから、余も亦「猫」を碣頭に献じて、往日の気の毒を五年後の今日晴さうと思ふ。」(『吾輩は猫である』(中篇)序文;明治39年11月)

より続く

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ3)

2 「子規子(し)の訃音」


漱石は子規にこの手紙を書いてから、その後は一度も子規に手紙を出すことはなかった。明治三十四年の暮れか翌年の一月には問題の子規の最後の手紙も受け取ったが、これにも『吾輩は猫である』中篇序にあるように、忙しさにかまけて返事は出していない。

子規の病状は二か月遅れでロンドンに届く「ホトトギス」の「消息」で漱石も逐一承知していたが、漱石はあらためて見舞いの手紙を出すこともなかった。というのもその頃の漱石は、『文学論』の構想に取りかかっており、人に会う時間さえ惜しんで机に向かっていたのである。その様子は傍目には異様にうつり、「夏目狂セリ」という噂が飛んだほどであった。明治三十五年九月十二日付の鎮子宛の手紙にも漱石自身《近頃は神経衰弱にて気分勝れず甚だ困り居候》と書いているくらいだ。これは丁度、子規が死を迎える一週間前のことであった。

漱石のところへ、虚子と碧梧桐連名の「子規子の計音」が届いたのは、その年の十一月も末のことである。子規の葬式が終わって十日ほど経った十月三日、二人はこれをしたためたが、虚子は形式的な訃音だけでは物足らないように思い、同じ日にさらに詳しく子規の最後の様子を報らせた。虚子と碧梧桐とでは漱石に対する思いに差があり、虚子は子規に次いで漱石に兄事していたのである。


・・・右変事早速大兄ニ御報スルコトノミ知リテ在京ノ御宿許ニ報ズルコトヲ失念致居候処新聞紙上ノ記事ニテ御承知ノ上早速御吊(トムラ)ヒ被下甚ダ傷ミ入申候


葬儀ノ節寅彦氏ニ面会致候・・・


その日、虚子は気が動転していて子規の死を、ロンドンの漱石にどう伝えるべきかばかりに気を取られていて、留守宅の夫人に知らせるのを失念してしまった。・・・・・鏡子は新聞で知って五高時代の教え子の土屋忠治に代理で葬式に行ってもらった。最初は鏡子が行くつもりにしていたが、土屋が《子供のあるものはそんなところに行かぬがいい。私が代理で何もかもやってあげよう》(『漱石の思い出』)といって、お悔みやら何やらすべて取り仕切ってくれたそうだ。・・・・・しかし、これは鏡子の思い違いで実際に葬式に参列したのは、寺田寅彦の日記にあるように、同じ書生仲間の湯浅廉孫だった。


九月二十一日(日)晴 朝新聞を見たれば今朝九時子規子の葬式ある由故、不取敢(とりあえず)行く。御院殿の踏切を越ゆる時、行列に出会い其儘従い行く 夏目先生代理として湯浅君も会葬せり。田端大竜寺にて焼香。立上る香の煙。読経の声そゞろに心を動かして柩の前に君が面影を思ひ浮べぬ。(『寺田寅彦全集』)


ところで子規は今ふうにいえば、葬式無用論者に近かっだ。『仰臥漫録』に、


吾等なくなり候とも葬式の広告など無用に候 ・・・・・(明治三十四年十月十五日)


とあるのはよく知られている。門弟たちも子規の遺志を体して死亡広告は出さなかったが、子規の死を新聞が放っておく筈がない。勤務先の「日本」をはじめ中央紙はもちろんのこと、大阪や愛媛などの地方紙も当時としては破格と思えるほど、子規死去のニュースを大きく扱った。

葬式は虚子が漱石に知らせたように《極メテ質素ニ》取り行うつもりであったが、新聞に報じられたせいもあって、実際には百五、六十人の参列者があり、予想に反してそれなりに派手なものであった。

虚子はそれから子規の末期の惨憺たる苦しみようを詳しく報じ、最後に、


(略)


と五句を添え、子規亡きあとの淋しい風景を詠んでいる。



3 子規の影法師


漱石が子規の訃報を受け取ったのは前述のように十一月末の寒い日であった。

漱石は十二月五日にロンドンを発つことにしていたので、部屋は梱包した荷物が置かれているだけで、がらんとしていた。傍にストーヴはあったが、底冷えの激しい部屋で漱石は子規の臨終や葬式の模様を伝える二通の手紙を読んだ。窓の外にはロンドン特有の濃い霧が流れ、友の死を悼むのにふさわしかった。漱石は明日、虚子へ返事を書こうと思い、五句ほどの悼句も用意した。


啓。子規病状は毎度御恵送のほとゝぎすにて承知致候処、終焉の模様逐一御報被下奉謝候。小生出発の当時より生きて面会致す事は到底叶ひ申間敷と存候。是は双方とも同じ様な心持にて別れ候事故今更驚きは不致(いたさず)、只々気の毒と申より外なく候。但しかゝる病苦になやみ候よりも早く往生致す方或は本人の幸福かと存候。

(中略)

偖(さて)小生来五日愈々倫敦発にて帰国の途に上り候へば、着の上久々にて拝顔、種々御物語可仕(つかまつるべく)万事は其節まで御預りと願ひ度、此手紙は米国を経て小生よりも四五日さきに到着致す事と存候。子規追悼の句何かと案じ煩ひ候へども、かく筒袖姿にてビステキのみ食ひ居候者には容易に俳想なるもの出現仕らず、昨夜ストーヴの傍にて左の駄句を得申候。得たると申すよりは寧ろ無理やりに得きしめたる次第に候へば、只申訳の為め御笑草として御覧に入候。(中略)


倫敦にて子規の訃を聞きて

筒 袖 や 秋 の 柩 に し た が は ず

手 向 く べ き 線 香 も な く て 暮 の 秋

霧 黄 な る 市(まち) に 動 く や 影 法 師

き り ぎ り す の 昔 を 忍 び 帰 る べ し

招 か ざ る 薄(すすき) に 帰 り 来 る 人 ぞ

皆蕪雑句をなさず。叱正。

(十二月一日、倫敦、漱石拝)


悼句の中の《筒袖》は洋服姿の自分を自嘲したもので、ロンドンに居て子規の葬列に加われなかった漱石の無念さがにじみ出ている。また《霧黄なる市》は霧の町ロンドンのこと。その霧の中をゆらゆら動いている《影法師》は、子規の幻影だったにちがいない。


つづく




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