2020年12月27日日曜日

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ9)「子規もまた漱石から見れば拙を守る男であった。「拙」なるが故に世間の常識とは逆に芭蕉より蕪村を高く評価したり、保守派の歌人の顰蹙を買うのを承知の上で「歌よみに与ふる書」を書いて短歌革新を試みたりする。漱石はこうした拙に生きる癖に、《妙に気位が高かつたり》《何でも大将にならなけりや承知しない》(談話「正岡子規」)俗なところのある子規が好きであった。」   

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ8)「『三四郎』には「原口さん」という画家が登場する。.....ここでは不折のエピソードが「原口さん」のエピソードになっているが、名前は関係ない。注目すべきは、ここでも漱石は子規の最後の手紙を思い出していることだ。漱石はおそらく「倫敦消息」の続篇を送らなかったことが、こんな時にも唐突に頭によぎったにちがいない。」

より続く

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ9)

4 拙を守る


漱石は子規没後、子規にふれたものとして「無題」(明治三十六年)、『吾輩は猫である』中篇自序(明治三十九年)、「京に着ける夕」(明治四十年)、「正岡子規」(明治四十一年)、「子規の畫」(明治四十四年)の五篇を残している。

「無題」は子規の墓参記だが未定稿でどこにも発表していない。「京に着ける夕」は明治四十年四月、朝日新聞に入社した漱石が読者への挨拶のため書いたエッセーで、その中に子規の思い出も入れたもの。「正岡子規」は談話筆記で厳密には漱石の著作とはいい難い。そうなると、子規のことを念頭において執筆したのは『吾輩は猫である』中篇自序と「子規の畫」の二篇ということになる。

「子規の畫」は明治四十四年七月四日の朝日新聞に掲載されたもので、「畫」とは明治三十三年六月中旬、子規が熊本にいる漱石に送ったあづま菊の畫のことだ。子規はこの年の春頃から畫を描くのが面白くなり、漱石の長女筆子の初節句に三人官女を贈る時にも、


・・・此項ハ何もせずに絵をかき居候 それが又非常に面白いのでいよいよ外の者がいやになり候 一枚見本さしあげんかとも存候へど大事の秘蔵の畫を割愛して却て笑はれるのも引き合はずと其まゝ秘蔵、ひとりながめて楽居候      (明治三十三年三月三日付)


と畫をかく楽しさを吹聴している。そして六月の中旬には前にもふれたように、あづま菊の畫を一枚漱石に送った。

漱石はたった一枚しか持っていないこの子規の畫を、散佚させてはいけないと思い後に表装させた。畫だけでは淋しいので、それを挟んで上と下に手紙を入れ三つを一纏にして懸物にしだ。上の手紙は明治三十年九月六日、熊本に発つ漱石に送った《秋雨蕭々(しょうしょう)》で始まる漢詩のような短い手紙。下は《僕ハモーダメニナツテシマッタ》で始まる、例の子規最後の手紙であった。

漱石はこの懸物を時折壁に掛けて眺めた。


・・・眺めて見ると如何にも淋しい感じがする。色は花と茎と葉と硝子の瓶とを合せて僅に三色しか使つてない。花は開いたのが一輪に蕾が二つだけである。・・・


東菊によって代表された子規の畫は、拙(まず)くて且(かつ)真面目である。才を呵(か)して直ちに章をなす彼の文筆が、絵の具皿に浸ると同時に、忽ち堅くなって、穂先の運行がねっとり竦(すく)んで仕舞つたのかと思ふと、余は微笑を禁じ得ないのである。・・・


子規は人間として、又文学者として、最も「拙」の欠乏した男であった。・・・彼の歿後殆ど十年にならうとする今日、彼のわざわざ余の為に描いた一輪の東菊の中に、確に此一拙字を認める事の出来たのは、其結果が余をして失笑せしむると、感服せしむるとに論なく、余に取つては多大の興味がある。たゞ畫が如何にも淋しい。出来得るならば、子規に此拙な所をもう少し雄大に発揮させて、淋しさの償としたかつた。      (「子規の畫」)


これは漱石が子規の畫を貶(けな)しているのではない。寸分の狂いもなく巧みに描かれたものより、どこか「拙」のある方が漱石の美学にかなうのである。もともと漱石は「拙」にこだわり、熊本時代、「正岡子規に送りたる句稿」(明治三十年、三十一年)の中にも、


木 瓜 咲 く や 漱 石 拙 を 守 る べ く

正 月 の 男 と い は れ 拙 に 処 す 


といった句が見られる。

「拙を守る」とは陶淵明の詩「拙を守って園田に帰る」から来ていて、世渡りの下手に甘んじ、利巧に立ち回れない男のことをいう。事実、陶淵明は「帰去来辞」にあるように江西省のある県の長官だった時、上官に媚びることを潔しとせず、職を辞して郷里に帰り酒と菊を愛して悠々自適の生活を送った。漱石は『草枕』(明治三十九年)の中でも、


世間には拙を守ると云ふ人がある。此人が来世に生れ変ると屹度(きつと)木瓜になる。余も木瓜になりたい。


と主人公の画家に言わせている。画家は漱石とみていい。そう言えば、『吾輩は猫である』の苦沙彌先生や『三四郎』の廣田先生も守拙派であるともいえる。

もっとも小説の登場人物だけでなく、漱石の周辺にも拙を守る人はいた。二歳上の友人、狩野亨吉などもそのひとりだ。狩野は一高校長や京都帝大の初代文科大学長を務めた立派な大学者でありながら、生涯娶らず退職後は八畳と三畳二間の借家に住んで、書画や骨董の鑑定に甘んじる。子規の上司である陸羯南や、叔父の加藤拓川なども栄誉や名声を求めぬ点では守拙派だった。

子規もまた漱石から見れば拙を守る男であった。「拙」なるが故に世間の常識とは逆に芭蕉より蕪村を高く評価したり、保守派の歌人の顰蹙を買うのを承知の上で「歌よみに与ふる書」を書いて短歌革新を試みたりする。漱石はこうした拙に生きる癖に、《妙に気位が高かつたり》《何でも大将にならなけりや承知しない》(談話「正岡子規」)俗なところのある子規が好きであった。

それだけに漱石は畫だけでなく文学においても、《出来得るならば、子規に此拙な所をもう少し雄大に発揮》してもらいたかったが、子規は志半ばで世を去ってしまった。漱石はこの「子親の畫」を見るたび、それが残念でならない。


つづく



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