2020年12月15日火曜日

井上泰至『正岡子規-俳句あり則ち日本文学あり-』(明治34年以降)(メモ9)「.....子規の悪口を自分への叱咤激励と心得て、.....『吾輩は猫である』を子規への手紙代わりに、その心の慰めにしよう、と言う。」 「要するに、子規の絶筆の滑稽も、『吾輩は猫である』のそれも、縁つづきだと言いたいのである。.....『吾輩は猫である』は、子規との滑稽を含んだ交際の中から生まれたものだ、と言いたいらしい。俺が作家になっちまったのは、お前のせいだといった口調である。」   

井上泰至『正岡子規-俳句あり則ち日本文学あり-』(明治34年以降)(メモ8)「漱石の筆は一転笑いに転じ、柿崎正治ら留学組がドイツで活躍しているのに、漱石はロンドンの田舎に引きこもっている、と悪口を書いたりする(『墨汁一滴』)子規を、「にくい男」だと言いつつ、そういう強気の子規が、「書きたいことは多いが、苦しいから許してくれ玉へ」などと書いてくると、とても可哀そうだ。それなのに自分は、子規に対して、彼のつらさを晴らしてやらないうちに、「とうとう彼を殺して仕舞った」とまで懺悔する。」

より続く

井上泰至『正岡子規-俳句あり則ち日本文学あり-』(明治34年以降)(メモ9)

四年後の弔辞

つまり、作家として立ち始めたこの時、漱石は子規の生々しい懇願の手紙を公開することで、自分を罰していた。あの世にいる子規に、遅まきながら返信をした、とも言える。


(略)


ロンドンでくすぶっているという子規の悪口を自分への叱咤激励と心得て、子規は嫌がるかもしれないが、『吾輩は猫である』を子規への手紙代わりに、その心の慰めにしよう、と言う。「季子は剣を墓にかけて」とは、『史記』呉太伯世家を出典とし、『十八史略』や『蒙求』にも載る中国の故事で、徐の王様が生前、季子の名刀を欲しがったが、あいにく季子は役目の旅の途中で、これを渡さず、帰りに立ち寄ると、徐王は死んでおり、それでも墓に名刀をかけて献上したという話である。「碍頭」とは、墓碑銘を意味する。漱石には、


春寒し墓に懸けたる季子の剣


という句もある。『吾輩は猫である』は、季子の剣にも匹敵する宝だという自信をのぞかせている。さらに、漱石はこう続ける。


子規は死ぬ時に糸瓜の句を詠んで死んだ男である。だから世人は子規の忌日を糸瓜忌と称え、子規自身の事を糸瓜仏となづけて居る。余が十余年前子規と共に俳句を作った時に


長けれど何の糸瓜とさがりけり


という句をふらふらと得た事がある。糸瓜に縁があるから「猫」と共に併せて地下に捧げる。


漱石は人も知る、子規の絶筆三句に言及する。子規による、自身の闘病生活の新聞紙上でのレポートは、ことのほか評判となり、絶筆三句にちなんで子規の忌日は、糸瓜忌と称して季語になっていた。一方、明治二十九年作の「長けれど」の句の「何の糸瓜」とは、「何の糸瓜の皮」という江戸弁の決まり文句で、「糸瓜のようにつまならいもの程に少しも」という意味である。確かに「糸瓜」は、いかにも愚かな恰好をしているが、見ようによれば、大きくてふてぶてしい。

その糸瓜、『吾輩は猫である』にも縁があるというのは、主人公で漱石自身を当て込んだ苦沙弥先生らを、「糸瓜」のような太平の逸民と猫に言わせてみたり(第二話)、苦沙弥の元教え子の寒月を「糸瓜が戸惑いをしたやうな顔」と評したりしている(第四話)ことを踏まているのだろう。要するに、子規の絶筆の滑稽も、『吾輩は猫である』のそれも、縁つづきだと言いたいのである。ずいぶん砕けた文章だが、『吾輩は猫である』は、子規との滑稽を含んだ交際の中から生まれたものだ、と言いたいらしい。俺が作家になっちまったのは、お前のせいだといった口調である。漱石はこうふざけて書くことが、自分の死を糸瓜に託して亡くなっていった子規への、何よりの供養だと思っていたに相違ない。

爽やかな笑いが繋ぐ友情 

作家として立ち始めた漱石は最後に、こう結んでいる。その意中には子規を思い出すことで次へ進もうというものがあったようだ。


どっしりと尻を据えたる南瓜(かぼちゃ)かな


と云う句も其頃作ったやうだ。同じく瓜と云ふ字のつく所を以て見ると南瓜も糸瓜も親類の間柄だろう。親類付合のある南瓜の句を糸瓜仏に奉納するのに別段の不思議もない筈だ。そこで序(ついで)ながら此句も霊前に献上する事にした。子規は今どこにどうして居るか知らない。恐らくは据(す)ゑるべき尻がないので落付をとる機会に窮してゐるだろう。余は未だに尻を持って居る。どうせ持つているものだから、先づどつしりと、おろして、さう人の思はく通り急には動かない積りである。然し子規は又例の如く尻持たぬわが身につまされて、遠くから余の事を心配するといけないから、亡友に安心をさせる為め一言断って置く。


南瓜も愚なる形状という点では糸瓜と同様で、案の定「瓜」の字が通じているとにこじつけて、ついでに南瓜の句も基に手向けることにしたと戯れた後、自分はしばらく「南瓜」になって尻を落ち着けて、人の思惑通りには生きないつもりだ、などと宣言している。

漱石は、翌明治四十年二月には、東京帝国大学をすっぱり辞めて、朝日新聞に入社、純然たる小説家の道に入る。既にこの序文を書いている時には、『坊っちゃん』や『草枕』を世に問うて、評判もよく、自信もできていた。子規は「尻」のない「糸瓜」だから、自分の身に引きつけて、漱石のことを心配するだろうが、これからはそう心配せずともよいと、あの世の子規に断って一文を終えている。

こんな風に子規と漱石の交際には、日本文学史上稀に見る、爽やかさが付いて回る。文学者などという生き物は、曲者揃いでプライドも高いのが通り相場であるから、こんな関係は、空前絶後と言っていい。

のみならず、二人の友情と、互いの切磋琢磨は、短歌・俳句、あるいは散文・小説において、今日にも残る大きな遺産を作りあげていったわけだから、二人の間に、「季子の剣」は確かにあったと見てよい。考えてもみてほしい。子規がいなければ、短歌・俳句を今日のように多くの人が、今のような有り方で詠むことはまずあるまい。そして、子規の短い生涯の、果敢な試みは、日本近代文学史上最高の作家をも、生み出していったのである。

俳句の近代性は錯誤か? 

(略)

子規の俳句革新の「旧」

(略)

子規の達成 - 古典との「対話」

実は子規の道のりをたどり終えた今も、三好の分析は正しいと考えている。ただし、子規が残した俳句の「古さ」についての評価は、三好と全く反対の立場に筆者はいる。三好の言う子規への批判は、「第二芸術」という定義に端的に見て取れるように、西洋由来の「詩」を上位に置き、伝統的な定型・季語・句会という俳句の特性を、「旧」として下位に置く、欧米文化優先の、近代化が進んだ現在からの見方に立った裁断に過ぎない、と思う。二十世紀初頭、俳句が欧米のイマジスト達に注目され、彼らの短詩・象徴詩の試みに大きな影響を与えたことや、その流れを受けて、「HAIKU」という三行詩が世界各国で生産されている今日の状況を見れば、三好や「第二芸術」の発案者である桑原武夫のような、欧米コンプレックスは、もはや過去のものというべきである。子規は早々と人事を長く詠む西洋の詩と自然を短く詠む短歌・俳句を対等に見ていた(「文学雑談」)。

序章で述べたように、伝記はともすれば、その人物が亡くなってからの視点で書かれがちである。しかし、子規自身は、自分の仕事がどう評価され、どう継承されていったか、知るよしもない。自分の仕事の死後の評価を意識しつつも、当時の現実を暗中模索で生きていた。その時、子規の拠り所になったのは、江戸時代に蓄積されていた漢学、漢詩文、西鶴の小説、芭蕉・蕪村の俳句、それに応挙らの日本画だった。こうした、文化伝統をよりどころにしながら、「改良」をやっていた子規に、三好の言うような「矛盾」を子規は感じていなかったことも、本書を読み終えた方には実感できるのではなかろうか?

新聞『日本』と提携関係にあった政教社の同人が、Nationarityを「模擬すべからざる「国の元気」(菊池熊太郎「国粋主義の本拠如何」『日本人』明治二十一年十一月)と考えていた時代、子規はその近代国家建設の一翼を担おうとした青年の一人に違いなく、今日から見て、その思想の排他性を批判するのは容易い。しかし、生まれたばかりの国家が生存できるか否か、のるかそるかの時代に、この「元気」は必要不可欠だったのである。その時子規は、五・七・五の定型の存在理由を、日常のわかりやすい言葉から詩を紡ぎ出すための仕掛けと見て選んだ。あくまで文学の「思想」に固執する漱石との論争で、旗色の悪かっだ子規は、江戸俳諧を「文学として」読み直しながら、膨大な「俳句分類」を実践することで、これに対抗しようとした。

こうした努力を経て、ポッと出の青年が、月並宗匠を攻撃でき、俳句の理想に「雅味(品格)」を求めた価値基準の背景には、子規が漢学青年や江戸文学愛好者であったことが、存外大きな意味を持っていたのである。俳句は今や日本のユニークな文化として、世界にも注目されるようになってきている以上、三好のような進化論的発想では、子規の評価はなしえない。

我々は子規の歩みから、「古典」の価値をいうものを、改めて見直すべきなのではないだろうか。もちろん、子規が最もそうであったように、重要なことは古典との「対話」であって、寄りかかりでは決してないのだが。


おわり

次回は、

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』に拠り、子規の晩年に関する箇所のメモを掲載する予定。




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