2025年4月27日日曜日

大杉栄とその時代年表(478) 1904(明治37)年1月4日~16日 「田村姉より来書あり。余がせつ子と結婚の一件また確定の由報じ来る。待ちにまちたる吉報にして、しかも亦忽然の思あり。ほゝゑみ自ら禁ぜず。友と二人して希望の年は来りぬと絶叫す。」(「啄木日記」)

 

1904年(明治37年)婚約時代の啄木と妻の節子

大杉栄とその時代年表(477) 1904(明治37)年1月1日~3日 「三十七年一月三日の第八号からは堺の軽妙な筆致で抄訳された英国の詩人ウィリアム・モリスの「ニュース・フロム・ノウホエア」(「無何有郷通信」の意)が「理想郷」と題して掲載され、二十七回も続いて好評を博した。この新社会を描いた小説は堺が既往に訳したエドワード・ベラミーの「ルッキング・バックワード」(「回顧」の意、「平民文庫」の一冊『百年後の新社会』と同じく、もとより架空のユートピア物語に過ぎないが、その無政府主義的な理想社会の描写がまるで詩のように美しく、読む者を魅了せずにはおかなかった。堺がこれを訳したのは、初めこれを読んで深く感動した安部の慫慂(しょうよう)によったといわれる。」(荒畑「平民社時代」) より続く

1904(明治37)年

1月4日

最初の軍事参議官任命(陸軍大将野津道貫、黒木為楨、奥保鞏の3名)

1月4日

駐ドイツ海軍武官鈴木貫太郎中佐、巡洋艦「春日」回航のためジェノバ着。巡洋艦「日進」の回航責任者、駐フランス海軍武官竹内平太郎大佐は先着していた。

1月5日

加藤時次郎、白柳秀湖ら、雑誌「直言」発行。

幸徳秋水「予は直言す」(「直言」創刊号)。キリスト教嫌悪表明。内村と平民社一派との冷却開始。

1月5日

陸・海軍省、「軍機軍略」事項を新聞雑誌に掲載することを禁止。「新聞検閲委員」をおく。

12日、陸軍次官、新聞雑誌記事取締に関する注意事項を地方機関に通達(「新聞雑誌記載禁止事項標準」11項目。徴発、動員、軍隊移動など。同趣旨で海軍省も注意事項19項目を出す。(京都府の例:明治37年1月~翌年11月。府内35新聞雑誌、軍機に触れる恐れあり105件、軍機その他の記事の注意5460件。告発は陸軍関係2件、海軍関係6件、その他4件。うち5件が停止命令。)

1月6日

内田康哉駐清公使、韓国の慶親王に会見し、日露開戦の場合には中立維持を勧告。

1月6日

ローゼン露公使、露の最終提案を小村寿太郎外相に提示。譲歩なし(満州は日本の利益対象外、韓国全土の非軍事利用など)。

1月8日

開戦論に転換した『東京日日新聞』は、1月8日「日本政府の態度」において、英米をはじめとする列強も日本の正当性を認めているので、「永遠の平和」のための戦争を主張した。

1月8日

石川啄木(19)、友人阿部修一郎の姉梅子の葬儀に参列のため盛岡の花谷寺に行き、堀合節子に会う。

午後、市内の姉夫妻(田村叶・サダ)の家で夜8時すぎまで節子と語り、将来を約束する。

14日、姉の田村サダより啄木と節子との婚約について堀合家の同意を得た旨連絡がある。


「田村姉より来書あり。余がせつ子と結婚の一件また確定の由報じ来る。待ちにまちたる吉報にして、しかも亦忽然の思あり。ほゝゑみ自ら禁ぜず。友と二人して希望の年は来りぬと絶叫す。」(「日記」)


この日と21日、野口米次郎(ヨネ・ノグチ)に書簡、「米国行の志望」と「渡米熱」を伝える。

2月8日、盛岡中学校同級生でカリフォルニア州在住川村哲郎に書簡、米国行き志望を書き送る。 

1月9日

ジェノヴァ、巡洋艦「日進」(回航責任者駐フランス海軍武官竹内平太郎大佐)・「春日」(駐ドイツ武官鈴木貫太郎中佐)、出発。

14日ポートサイド到着。石炭を補給しスエズ運河に入る。

1月10日

『平民新聞』第9号発行

「仏国社会党大会」。'03/9.労働党・社会革命党・共産主義者同盟の仏社会党への合同。

幸徳秋水「東京の木賃宿」(10、17、24、31日)。市内の木賃宿に住む細民・労働者・売春婦の生活と、屋根代をはじめ、木賃宿の経済的構造に深いメスを入れる。


「外国の社会主義運動に関する記事中、第九号(明治三十七年一月十日)にのった「仏国社会党大金」はおそらく最大の問題であったろう。これによれば、フランス社会主義者の急進派たる労働党、社会革命党、共産主義同盟の三団体は一九〇三年九月二十七、二十八、二十九の三日間、ライム市に昼夜七回の大会を開いて従来のゆきがかりを一掃し、「フランス社会党」の名の下に一致合体するに決した。出席の代表者百四名、その中には国会の下院議員九人、市長七人、州参事会員六人、市参事会員十七人、および県参事会員三人を含んでいた。

三派合同のフランス社会党は八十三州のうち三十四州に団体組織があり、その他にも小団体が散在する。十四の州団体は一個の日刊新聞、三個の週二回刊の新聞、十個の週刊新聞を有し、党員数からいえば既に全国社会主義者の四分の三を包含している。ドイツの社会民主党が改良、急進の二派に分れて論争している時、フランスではこの二派は独立の党に分れ、ミルラン、ジョーレス等の率いる前者が共和党と連合して議会の勢力を保っているのに反してゲード、ラファルグ等が首領の後者はあくまでブルジョア政党との妥協を肯んじない。ただ従来は小党分立して捗々しい運動を展開し得なかったが、今回の大合同によって頓(とみ)に一大勢力となるに至った。」(荒畑「平民社時代」)

1月10日

漱石「マクベスの幽霊に就いて」(『帝国文学』1月号)に発表。

1月11日

韓国、欧州派遣特使玄尚健、帰国。諸国の韓国戦時局外中立承認見通し報告。皇帝、密使を芝罘に派遣。中立宣言するため。

1月11日

日清両国間の追加通商航海条約(1903年10月8日調印)批准交換。

1月12日

御前会議、対露交渉の日本側最終案決定。海軍の開戦準備が整うまで開戦引延ばしの開戦外交にはいることを決定。

1月12日

ドイツ領西南アフリカで反植民地闘争開始。

1月13日

清国で張之洞らの作成した学堂章程、頒布。

1月13日

御前会議(1月12日)決定に基づき、小村寿太郎外相、ローゼン露公使に日本の最終意見の趣旨を開陳。最終提案手交(満州は日本の利益対象外、韓国はロシアの利益対象外)。最後通告に等しい。

1月13日

仏外相、本野公使に日露間の調停を示唆。日本拒絶。

1月14日

社会主義協会、社会主義大演説会。YMCA会館。聴衆200余。安部「青年のために渡米の道を開くべし」、木下「紅葉墓畔の奇観」、幸徳「戦争と社会党」、西川「監獄亡国論」。


木下尚江「紅葉墓畔の奇観」

「私が毎日新聞社に通う途中で一番目につくのは海軍造兵廠で、ここの煙の色を見、トンテンカンの音を聞けば風雲はなはだ急で、もう銀座街頭には号外が売られているのかと思われる。

……が、さて目を転じて右の方を見ると、総理大臣伯爵桂太郎君の屋敷では大普請を始めている。私はこれを見てコレならば日本に戦争はない。天下泰平だと思うた。……モウ一つは桂君は、その夫人に新年の賀のために、三千六百円も出してブローチ(襟留)を買っててやった。」

物情騒然たるなかで貴族の夫人連中はブローチの豪華を競い、下谷区池の端の玉宝堂が注文に応じて作った品のうち、最も高価なものは山内侯爵夫人のダイヤモンド20個入6,800円、宮内大臣土方伯爵夫人の5,200円、総理大臣桂伯爵夫人の3,600円であった)

「コレならば日本に戦争はない、天下泰平・・・なぜソウ見るかというに、もし一国の安危を賭して戦うというのが事実ならは、局にあるものコンナ真似はできぬ筈である。……で、私は桂伯もわが党の一人と思う、故に私は天下ことごとく彼を主戦論者というも、彼の人格を信ぜんとする上よりして彼は平和論者なりという。」


1月14日

愛知・三重県紡績行の操短決議。清国・韓国向け輸出閉塞し全国に波及。

1月15日

陸軍、野戦砲兵監伊地知幸介少将を駐韓武官として派遣決定。

この頃、仁川停泊のロシア軍艦「ワリヤーグ」から水兵上陸に兆しあり、京城のアメリカ陸海兵が100名前後に増え、京城の「中立化の危機」となる。

参謀本部は臨時派遣隊2、240人を決定し、第12師団第23旅団長木越安綱少将に編成下命。"

1月15日

日本興業銀行、清国の漢冶萍公司(大冶鉄山)に300万円の借款。最初の対華借款。

1月15日

八幡製鉄所、清国大冶鉄鋼購入契約に調印。

1月15日

与謝野晶子(26)、第2歌集「小扇」(金尾文淵堂)刊行。

1月16日

ロシア、自由主義者・ブルジョワジーの解放同盟結成大会(~18日、ペテルブルク)。


つづく



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