1904(明治37)年
1月
韓国、林公使・李址鎔外相間に日韓議定書案纏まる。
1月
米・清国、通商条約締結。
1月
「新公論」、「中央公論」から分立。
1月
荒畑寒村(17)、上京、初めて社会主義演説会傍聴。堺・幸徳・安部・木下・西川。閉会前、山口孤剣が社会主義協会加入者を募集。寒村、その場で加入。
月末、横須賀火災により焼出される。また、肋膜のため工廠も休む。「報効義会」脱会し実家に戻る。
1月
前田夕暮(20)、「横浜新報」小杉天外選懸賞小説に「山おろし」が2等入選。
4月「露探」が1等入選。
1月
日本セメント会社、東京セメント大崎工場を買収。
1月
(露暦1月)露、ペテルブルク、解放同盟第1回大会、22都市50人
1月
ドイツ領南西アフリカ(現ナミビア)、ヘレロ族がドイツ人入植者に土地を奪われ蜂起。ドイツ人兵士や入植者など100人以上虐殺。
10月3日、ヘレロ族首長がドイツに宣戦布告。1907年反乱鎮圧。
1月
メキシコ、武装闘争を説くフロレス・マゴン兄弟ら自由主義者会議急進派、ディアスの弾圧によりテキサス州サンアントニオに亡命。
1月
マックス・ウェーバー「社会科学および社会政策の認識の『客観性』」(「アルヒーフ」第19巻)。
1月1日
木下尚江「火の柱」(「毎日新聞」連載、~3月20日)。キリスト教社会主義の立場から非戦論を唱える主人公を描く。
1月1日
「東京朝日」の元旦の紙面。「薄気味悪い消息」(旅順のロシア軍に関する情報)。軍港内のロシア軍は兵員2万、港湾内の軍艦15、港外にあるもの3、水雷艇20余隻。
「陸海の防備は日々勢力を増しつつあり」と、開戦は既定事実のように書かれる。
1月1日
近衞篤麿(42)、没。
1月1日
(漱石)
「一月一日(金)、元日。正月になったが、おめでとうと云う気もしない。普段の服装で、新年の感じのない場所を歩き、地面に絵を書いてみたりしたが、余りまずいので落胆し、家に帰る。(『道草』百一による)中根重一の所にも挨拶に行かないで、年賀状だけ出す。(中根重一は、十二、三歳になる末の子に賀状の返事を出させる。『道草』七十八による)
「『道草』には、「島田」にやる金を稼ぐために、学校が始るまでまだ十日あるので、その期間を利用し、原稿を書くと述べられている。これは事実に基いているとすると、明治三十七年の正月のことではなくなる。明治三十七年十二月初めに『吾輩は猫である』を書いた時のことになる。但し、『吾輩は猫である』を書いた時には、原稿料めあてではなかった。また正月のことでもなくなる。明治三十七年正月は、漱石の気分だけのことと想像される。」(荒正人、前掲書)
1月1日
林董駐英公使、訓令により英外相に日露開戦の際の財政上の援助を要請。英は起債保証は不可能と回答。
1月1日
ウルグアイ、バッジェ大統領の政策を不満とする保守派ブランコ党反乱。~9月24日。8ヶ月後鎮圧。後、国内の統一ほぼ達成。労働立法制定・基盤産業国有化進む。
1月2日
『報知新聞』、川上貞奴らの肖像写真掲載。輪転機印刷による新聞写真のはじめ。
1月2日
「啄木日記」(2日)に、
「明星をよみて・・・。露花(平出修)氏昨年の短歌壇を評して我を甲辰一月以後の壇上に望を嘱したり」とある。
1月2日
稲山嘉寛、誕生。
1月2日
米、ドミニカに武力介入。
1月3日
西川光次郎、平民社入社。
1月3日
『平民新聞』第8号発行。
社説「新年の感」
「新年号(第八号)の社説「新年の感」は、武装平和、資本家利益、少数政治、賄賂公行、旧態依然として新年も旧年のごとくめでたい所以を見ないが、しかも少しく社会の裏面に入れば現状に対する不満、革新の憧憬、鬱勃たる暗流が新年とともに更に新潮を加えている。この意味からすれば、吾人もまた新年を祝せざるを得ないというのである。」(荒畑「平民社時代」)
幸徳秋水の感想「歌牌(かるた)の娯楽」(かつて『萬朝報』に発表し、その後文集『長広舌』に収められたものの再銀)
「一少女に問ふ、新年において、何物かもつとも楽しき。答へて曰く、歌がるたを取るなりと。……
歌がるたの遊戯は競争の遊戯なり、されどこの遊戯や、直ちに人生の最高理想を現実す、……歌がるたの競争は自由なり、他人のために役せらるるに非ず、境遇のために駆らるるに非ず。進まんと欲して進み止まんと欲して止む、唯我独尊、縦横無礙(むげ)、真個の自由を享くるものに非ずや。
歌がるたの競争は平等なり、……階級なく、門閥なく、金力なく、権勢なく、兄弟も姉妹も親子も主客も傭主被傭者もみな同等の地歩を占め、同等の権利を有して以て遺憾なくその技能をのべその力量を角せしむ、真個の平等を楽しむものに非ずや。
歌がるたの競争は一面において多数の協同を意味するなり、みな心を一にして相結び排擠(はいせい)なく、離間なく、中傷なく、陰謀奸策なく、極めて公明、極めて正義の運動をなし、強、弱を扶け智、愚を救う。勝敗一決すれば相見て哄笑す。……
鳴呼天下の競争てふものをして、……彼の歌がるたの競争が如くならしめば、いかに人生社会の楽しかるべきぞ。……今や此楽しみなし、鳴呼老いけるかな、顧みて憮然之を久しくす。」
「昨年中の日本社会主義運動」
「現時、わが国には社会主義者の存せざる都市は一もないが、しかし政治的勢力たるにはまだ甚だ遠い。前議会にはわれわれの思想を代表する議員は一人もなかったし、また現行の選挙法にして改正されない限り、来るべき総選挙に多くの社会主義議員を議会に選出することはむしろ不可能であろう。しかし、われわれが政治的に有力な党となるべき時期は到来すべく、そしてわれわれの社会主義運動が本年こそ一層活発ならんことは、心から希望するところである。」
堺利彦「理想郷」(27回掲載)。ウィリアム・モリス『News from Nowhere (「ユートピア便り」)』の抄訳。
堺は『家庭雑誌』創刊号(1903年4月号)にエドワード・ベラミ-『Looking Backward(「回顧」)』の抄訳の一部を「ユトピアの話」として掲載し、朝報社退社直前の同誌(1903年9月号)には全体を抄訳した『百年後の新社会』を掲載した。
堺によれば、安部磯雄からベラミ-とモリスのユートピア小説を教えられ、読んでみると非常に面白かったので翻訳して紹介したという。安部はアメリカ留学中にこれらを原著で読み、とくにベラミ-の小説に感銘を受けて社会主義者になった。
「三十七年一月三日の第八号からは堺の軽妙な筆致で抄訳された英国の詩人ウィリアム・モリスの「ニュース・フロム・ノウホエア」(「無何有郷通信」の意)が「理想郷」と題して掲載され、二十七回も続いて好評を博した。この新社会を描いた小説は堺が既往に訳したエドワード・ベラミーの「ルッキング・バックワード」(「回顧」の意、「平民文庫」の一冊『百年後の新社会』と同じく、もとより架空のユートピア物語に過ぎないが、その無政府主義的な理想社会の描写がまるで詩のように美しく、読む者を魅了せずにはおかなかった。堺がこれを訳したのは、初めこれを読んで深く感動した安部の慫慂(しょうよう)によったといわれる。」(荒畑「平民社時代」)
「第八号(*「世界之新聞」欄)はドイツの新開『ナチョナル・ツァイトゥング』の十二月二月発の霧都通信をのせた。ロシア駐在の各国公使は「露国内乱の兆」の風説を確認して、これを本国政府に通報していると伝えたが、なかでもキエフ、オデッサ、カザニ、トムスク等で逮描きれた大学生二十九名に対する政府および大学の処罰を不当とする学生は、大学の門戸や建物を破壊してハリケードを築き、憲兵、コサック兵、巡査等に対抗したのである。
西部シベリアのクラスノヤルスク地方でも、革命運動のために検挙された者四十八人に及んだが、その事命運動の本部はロシア本国にあった。また旅順口における極東総督アレクセーエフの機関新聞の記者も、他の数名とともに逮捕されたが警察はこれを厳秘に附している(ロンドン『テレグラフ新聞』)。」(荒畑「平民社時代」)
石川三四郎「基督教の二大人物」)。内村、海老名賞揚。
1月3日
(漱石)
「一月三日(日)、橋口貢宛に自筆水彩画(屏風と思われる背景に、松と水仙の盆栽)に、今迄の漢詩や俳句とは別の方面の表現をする。「人の上春を写すや絵そら言」と書き添える。」(荒正人、前掲書)
「彼は翌三十七年一月三日に河東碧梧桐と橋口貢にそれそれ自筆の絵葉書を送っている。後者は裏前面に、山から引く水が筧を伝って池に落ちる様を描き、その上に「人の上の春を写すや絵そら言」の句が墨書されたものである。前者への句は「ともし寒く梅花書屋と題しけり」で、人生の寒さに堪えて花を開きたいという気持ちと、反対に「春」を写しでも絵空言だという気持ちが錯綜する新年である。
漱石の絵葉書は三十七年、三十八年と続き宛先も多様になるが、なぜか三十八年で一旦途絶える。大学と執筆とで忙しく、絵を描く気にならなかったのかもしれない。」(十川信介『夏目漱石』(岩波新書))
「『道草』によると正月、健三は家を出て散歩する。
「彼は普通の服装をしてぶらりと表へ出た。なるべく新年の空気の通わない方へ足を向けた。冬木立と荒れた畠、藁葺屋根と細い流れ、そんなものがぼんやりした彼の眼に入った。しかし彼はこの可憐な自然に対してももう感興を失っていた」
これが明治三十七年正月の千駄木風景であった。こんな農村風景は千駄木を離れたのちも、『三四郎』などに描かれる。そして無理して工面した百円を養父に渡す。引き換えに「向後一切の関係を断つ」という証文を得た。妻はたいへん喜ぶ。
「ええ安心よ。すっかり片づいちゃったんですもの」
「まだなかなか片づきゃしないよ」
(略)
「世の中に片づくなんてものはほとんどありゃしない。一遍起ったことはいつまでも続くのさ。ただいろいろな形に変わるから他(ひと)にも自分にも解らなくなるだけの事さ」
これが漱石のもうひとつの哲学、と言って悪ければ人生観であった。」(森まゆみ『千駄木の漱石』)
つづく

0 件のコメント:
コメントを投稿