明治7年(1874)
4月10日
・立志社結成
板垣退助が土佐で結成。片岡健吉社長。
当面の目的は士族授産と学校設立による新時代教育。
5月15日、初めての演説会。帰郷中の植木枝盛(17)参加。
立志社同人達は、その「設立之趣意書」に「国ノ本」としての国民が政治的主体としての自己を確立する為に、自己教育の課題を提起。
こうした政治と教育の不可分性を自覚した同人たちは、政治結社としての立志社の付設機関として、法律研究所と並び、立志学舎を開設(同月14日開校)。
立志学舎は、漢学・洋学・数学・体育など「中学校ノ体ニ基」く教育にあたり、当時の高知県では、「学問として、・・・西洋学は立志社に洋学校あり」といわれ、「関西の慶応義塾」とも呼ばれる。
1874(明治7)~79年(閉鎖)の6年間の教員・生徒数は、(変動が激しく安定を欠くものの)年間平均教員約8名、生徒130名。
立志社=立志学舎とほぼ同様に、各地の民権運動は、国民の権利の確立・伸張の要求を機軸として、自己を近代的な政治=教育主体として鍛え解放する為に、学習=教育機関としての学舎を開設し、その中で教育における自主と自由の権利の自覚を深めて行く。
石陽社=石陽館(福島)、三師社=正道館(同)、求我社=行余学舎(岩手)、白郷社=自郷学舎(福井)、奨匡社=奨匡学舎(長野)など。
*
4月10日
・英特派全権公使パークス・外務卿寺島会談。
副島は無主の地への「打蕃撫民」と説明するが、パークスは日清間の紛争は英資本の経済活動に影響あり危惧する。
また、清政府へは柳原全権公使が伝えると説明すると、パークスは順番が逆と反撃。
13日、パークス、清が日本の台湾出兵を敵対行為と見做す場合、参加の英人・英艦を召喚すると警告。
パークスが、各国外交官に同調呼びかけ、ロシア、スペインが局外中立を表明。
*
4月13日
・岸田吟香、台湾征討軍に従軍記者として参加
*
4月13日
・佐賀裁判所判決。
征討総督東伏見宮嘉彰親王・参議兼内務卿大久保利通臨席。
征韓党江藤新平(40)、憂国党島義勇(52)梟首、他斬首11名。夕刻執行。
大久保日記「江藤醜躰笑止なり」。
*
4月15日
・軍艦「日進」「孟春」以下を率い遠征根拠地長崎に向う西郷従道、佐賀に立ち寄り大久保利通と出兵につき会談(「徹夜あい話した」)。
*
4月15日~5月15日
・第1回印象派展、パリ。
*
4月16日
・上海の新聞「申報」、日本の台湾出兵意図に疑惑を示し、当局の奮起を促す。
日本が台湾に出兵するとの噂がとびかっていると紹介し、
「日本が出兵する意図は、ただ報復を加えるためだけであろうか。それともほかに何か下心があるのだろうか」と疑惑を示し、
もし日本に台湾領有意図があるなら、「わが大清国が自ら開拓した領土を、どうして一朝にて他国に譲ることができようか」と、当局者の奮起を促す。
*
4月17日
・大久保利通、佐賀発、帰京へ。
*
4月17日
・横浜の英字新聞「ジャパン・ヘラルド」、台湾派兵は戦争の原因になるかもしれないのに、日本政府は出兵を公告していない。外国公使は中立とすべき。アメリカは中立義務を違反している、主張。
+
4月18日
・アメリカ公使ビンガム、清政府からの名分の了解ない限りアメリカ人・アメリカ艦の参加を禁止すると通告。
寺島外務卿は、三条太政大臣にリゼンドル、カッセル、ワッソン3名とアメリカ艦の台湾行き差し止め上申。
ビンガムは、前年10月、デロングの後任として来日、デロングの方針を継いで日本政府の台湾政策には好意的で、カツセルの雇用にも尽力していた。
その後、ビンガムは、17日付け「ジャパン・ヘラルド」の記事に影響をうけイギリス公使パークスに追随する強硬態度に変わる。
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4月18日
・駐清イギリス公使ウェード、駐日公使パークスからの情報を総署へ通報。
20日、清国総税務司ロバート・ハートも総署へ通報。
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4月18日
・木戸孝允、参議・文部卿辞任。台湾遠征に反対して。
2日には閣議決定書への参議としての承認押印拒否。
5日、伊藤博文も岩倉への手紙で政府の台湾方針に危惧を示し、5月、郷里山口に退去。
*
ドイツから帰国し、この年3月から4ヶ月近く木戸邸に食客として過ごしている青木周蔵(外務一等書記官)は、岩倉具視から木戸の慰留周旋を依頼される。
以下、「青木周蔵自伝」より。
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青木が、岩倉と会って木戸邸に帰った夜中の12時過ぎ、木戸は静座して待っていた。
「予(青木)は直に翁(木戸)に面し、其の質問に応じて右大臣(岩倉)の論旨を逐一申告し、更に留任を苦諫(クカン)せしに、翁は一言だも発せず、沈思黙考するものの如くなりしが、卒然翁と予との間に在りし桐の火鉢を取て之を坐上に擲ちたり。熱灰は室内一面に飛散して、燈火も為に其の明を没し、炭火は散乱して畳を焦す・・・」。
青木が質問する。「此の火鉢は不肖に向て投ぜられしが、何等の不興なるぞ」
木戸は涙を浮べて「何の理由をて足下に投ぜんや。唯感慨に堪へず、茲(ココ)に至りしなり」と答える。
青木が、苦諫して木戸の感触を害したことを謝まる。
木戸は、「何とて謝する事の必要あらん。足下の如き人物、我友人中果して幾人かある。是れ予の感慨に堪へぎる所なり」と言い、青木を抱擁してまた泣く。
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これが、長州藩閥ナンバー2の伊藤博文でないところに、旧長州藩・政府内における木戸の孤立が示されている。
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4月19日
・政府、アメリカからの雇船計画が崩れ、台湾遠征軍出動見合わせを大隈・西郷に連絡。西郷はこれに強硬に反対。
この日、大臣・参議が緊急に集会するものの、大久保は佐賀に、大隈も長崎に出張中で、出兵強行か中止かも決断できず、とりあえず清政府に至急問い合わせ、その回答が到着するまで遠征軍出動を見合わせることとする。
その旨を長崎の大隈に電報で命令し、こうなったからには「この度の一挙、成功の目的万々これあるまじく」、しかも「各国の公論、台湾は支那の版図たること判然たる上は」、遠征を一時中止せざるをえないであろうとの三条の書簡を携行した使者を長崎へ急派。
大隈は、遠征一時見合わせの電報に接して弱気に転じるが、西郷都督は出発延期命令に従わない。
リゼンドル、カッセル、ワッソンのアメリカ人グループも強行を主張。
*
4月20日
・ドイツ帝国議会、セプテナート(7年分の軍事予算)を一括承認。
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4月21日
・原敬(18)、エブラル神父の学僕として新潟へ赴く。~翌明治8年9月。
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4月24日
・大久保、佐賀より帰京。
台湾出兵に対するイギリス・アメリカの干渉は、「まことに大事の国難」と痛感し、「兵隊進退」の委任をうけて、29日、東京を出発して長崎へ急ぐ。
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4月24日
・(露暦4/12)チャイコフスキー、オペラ「オブリーチニク」初演。モスクワ、マリンスキー劇場。ラジュチニコフの歴史小説。
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4月27日
・西郷従道、厦門領事陸軍少佐福島九成に清国閩浙総督李鶴年宛の出兵通知書を託し、独断で兵200を有功丸で派遣。アメリカ人カッセル、ワッソンも同行。
5月3日、福島は厦門に到着、現地当局経由で台湾管轄の李総督に出兵通知書を伝達。
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4月27日
・内閣顧問島津久光、左大臣就任。
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4月28日
・樺太支庁、東シララカ・ウショロ両出張所に漁場廃止の旨通達。
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「★明治年表インデックス」 をご参照下さい。
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2011年5月15日日曜日
2011年5月14日土曜日
永禄3年(1560)8月2日~12月25日 上杉輝虎の上野進出、関東席捲の勢い フランス、オルレアンの「三部会」召集 [信長27歳]
永禄3年(1560)
8月
・この月、三好長慶、芥川城を引き払って河内飯盛城に移る。
この年初、河内守護畠山高政が長慶に無断で守護代を更迭し、安見直政を選任させた為、再度三好軍は河内に入る。
7月~10月、河内各所で戦闘し飯盛・高屋両城を降伏させ、河内は三好氏の領国となる。
大和国衆もが畠山に一味したというので、松永久秀は奈良盆地の諸城を陥れ、8月には大和主要部を制圧。
三好長慶政権は山城を除く畿内全てを掌握。
(部将配置)
山城:淀城(細川氏綱)
摂津:芥川城(三好義興)
丹波:八木城(松永長頼)
大和:信貴山城・多聞山城(松永久秀)
河内:飯盛城(三好長慶)、高屋城(三好義賢)
和泉:岸和田城(十河一存)。
*
・十河一存、河内観心寺へ全3ヶ条の「禁制」下す。
9月、三好長慶・松永久秀、河内観心寺へ全3ヶ条の「禁制」下す。
10月15日、松永久通、河内観心寺へ全3ヶ条の「禁制」下す。(「観心寺文書」)。
*
・松平元康、尾張国境梅坪に攻寄せる。佐々内蔵助500、退散させる。
*
・浅井長政、初陣。六角氏を野良田合戦で撃破。
*
・毛利元就、足利義輝より錦直垂を贈られる。
*
・スコットランド、宗教改革議会、開始。
17日、カルヴァン主義のに基づく「スコットランド信条」が通過、スコットランドにおけるローマ法皇の権威が否定され、スコットランドにおけるカトリックは少なくとも法的には一掃(ラテン語によるミサ禁止)。
ジョン・ノックスら新教指導者、教会構成改革・教典制定を行い、宗教改革の原則・指針を纏めた「第一規律書」「宗教の告白」を纏め、議会承認。
スコットランドの宗教改革。
聖職者の犠牲は少ない(新教7人、旧教2人)。カルヴァン主義によった改革。聖職者でない長老による集会(後、地方長老会)により牧師を任命。
*
・フランス、貴顕会議。旧教教会内の悪弊を修正するため。
*
8月2日
・武田信玄、釜無川と御勅使川の信玄堤(竜王堤)沿岸への移住者に棟別銭を免除(移住奨励)。
竜王堤(甲斐市竜王):
信玄堤と呼ばれるものの中で最も有名なもの。
天文11(1542)年の釜無川大洪水後、信玄の発意で大改修が施され、弘治3(1557)年頃完成と云われる。
その技法は、後々まで甲州流川除法として全国的に展開される。
*
8月6日
・三好長慶の兵、畠山高政の兵を河内石川郡に攻め破る。
*
8月7日
・ロシア、イヴァン4世(雷帝)妃アナスタシア、没。
*
8月23日
・信長、兵1,000を率い2度目の州俣出撃、退却。
*
*
9月
・武田信玄、信濃奥郡に進出。越後勢が反撃。信玄は後退。
*
・生駒家長(信長側室生駒氏の兄)に馬一疋の関税を免除(「生駒文書」)。
*
・北條氏康、長尾景虎の上野出張に対し、上総久留里城の包囲を解き、河越城に出陣。
北条氏政も下野唐沢山城から撤退し小田原に帰陣。
*
・松平元康(家康)長女亀姫、駿府にて誕生
*
9月1日
・大友氏の兵、再び伊予宇和郡三間に侵入。
*
9月4日
・伊勢貞孝、奥九州3ヶ国の調停のため日向に下向。
伊勢貞孝、伊東家の番弓笠掛日記を所望し、写本を月担上人を介して贈る。
伊東義祐、家督を義益に譲る。
*
9月8日
・イングランド女王エリザベス1世の愛人ダドリーの妻、エイミー・ロブサートが変死。
*
9月19日
・関白近衛前久、京都を発ち、越後の長尾景虎のもとへ向かう。
*
9月28日
・越後守護代長尾(上杉)景虎(31、謙信)8,700余、関東管領上杉憲政を奉じて上野へ出陣。
沼田城(沼田市)・岩下城(吾妻郡)・那波城(伊勢崎市)を攻略。
29日、厩橋城(前橋市曲輪町)に入城。春日山城留守居役は長尾政景。
上野の国人たち、北条氏から離れ、続々と景虎に帰属。
景虎軍、各城を落とし関東席捲の勢いを示す。
*
*
10月
・北條氏康、松山城に在城
*
・大坂本願寺の指示により、加賀・越中の一向一揆が越後を焼く。
*
・浅井賢政(長政、16)、家督相続。北近江の領主となる。
*
10月5日
・伊予に侵入した大友氏の兵、宇和郡石城を落とす。
*
10月10日
・香西元成・波多野右衛門・木沢新太郎ら、飯盛城の後詰めに出陣、宇治周辺で放火。
12日、松永長頼、丹波から出陣し、炭山に拠る香西元成を敗死させる。
*
10月15日
・三好長慶、河内高屋城に紀伊根来衆と戦い、これを破る。
24日、三好長慶勢の攻撃に飯盛城安見直政(前年8月高屋城を追われ飯盛城に逃れていた)降伏。
27日、河内高屋城畠山高政降伏。
河内は長慶の領国となる。
*
10月17日
・武田信玄、長尾景虎と対戦の北条氏康支援の為、加賀・越中一向宗徒に景虎の本国越後を攻めさせるよう本願寺顕如に依頼。
この月、越中の一向宗門徒の頭目上田藤左衛門に対し、謙信が上野に乱入したので、北条氏康と申合わせて進陣するが、門徒衆と相談して神保氏と共に越後に乱入するよう依頼。
*
10月31日
・フランス、ブルボン家第一王子(結婚によりナヴァール王となったブルボン公アントワーヌ)と弟コンデ公、オルレアン入り。コンデ公、逮捕される。
*
*
11月
・上杉輝虎、上州・倉内城(後の沼田城)攻略し、完全に上州を平定。
*
11月13日
・三好勢松永久秀、万歳城を陥落。
この日、三好長慶、芥川城より河内飯盛城に入り、弟義賢(実休)に高屋城を与える。
18日、初瀬桜坊城陥落。24日、沢氏の檜牧城陥落。
29日、大和沢・桧牧を攻め、宇陀郡をその配下に置く。
大和一国、完全に松永久秀の手中に入る。
三好長慶に脅威を抱く六角義賢(夫人は晴元夫人と姉妹)は、畠山高政・細川晴元らと結び、長慶を南北から挟撃する計略をめぐらせる。
*
11月26日
・フランス、ギーズ家による臨時法廷。コンデ公ルイに死刑判決。執行されず。
*
*
12月
・フランス、カトリーヌ・ド・メディシス、占星術士をショーモン城に呼び寄せ、フランソワ2世の恢復を占星術士に頼る。
*
・十河一存(摂津岸和田城主)、摂津有馬に湯治、有馬温泉権現の禁忌に触れて落馬したとされる。
翌年、3月18日没。
*
・信長、尾張東竜寺へ全5ヶ条の「禁制」下す(「東龍寺回答書」)。
*
・北条氏康、河越城より小田原に戻る。
籠城の準備を進め、甲斐の武田家や駿河の今川家に援軍の要請を行う。
*
12月5日
・フランス、スコットランド女王メアリー・スチュワート(18)の夫フランソワ2世(16)、没。
シャルル9世(10)、即位。母后カトリーヌ・ド・メディシスが摂政となる。
*
12月10日
・フランス、「三部会」をオルレアンに召集。~ 1561年1月31日
ギーズ兄弟、コリニーの提案を受け入れる。
信教の自由の承認(新教徒の「教会の建立」は認めないが、「迫害」は 断念)
三部会開催。
「名士会」による教会の堕落の調査。
当初、ブルボン兄弟(アントワーヌ・ド・ブルボンとその弟コンデ)は参加せず。
兄弟の妻ジャンヌ・ダルブレとエレオノール・ド・ ロワ(コンデの妻、コリニー妹)が「オルレアンは罠で、逮捕・殺害される」と出席に反対。
ギーズ兄弟は、膨大な軍隊をオルレアンに集結させ、リヨンを奪うべく準備していた新教徒の軍隊を攻撃。リヨンはジュネーヴ(カルヴァン)の一州になることを免れる。
後、ブルボン兄弟は、オルレアンに現れ、ルイ・ド・コンデ逮捕、裁判、「12月10日処刑」の判決。
*
宰相ミシェル・ロピタルの演説
「ルッター派とかユグノー派とか教皇派とかいう徒党分派を表す呪わしい言葉はやめにして、キリスト教徒という言葉をそのまま用いたい。」
母后カトリーヌ・ド・メディシス摂政(41、1519~1589)は、スタンスを新教派寄りに変更。
フランソワ2世妻メアリ・スチュアートをイングランド支配下のスコットランドに帰国させる(1561年8月)。
ギーズ兄弟は、国事から手を引く
(国王の妻の外戚ということが権力の源泉、フランソワ2世没後は他の貴族と「同等の存在」となる。但し、それぞれの役職は手放さず)。
アントワーヌ・ド・ブルボンがカトリーヌの籠絡の対象で それに成功する
(ルイ・ド・コンデを釈放、再審による 名誉回復を約束(1561年6月13日パリ高等法院)。国王総代理官に任命。国王の「国璽」を返却させる。)
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「★信長インデックス」をご参照下さい。
8月
・この月、三好長慶、芥川城を引き払って河内飯盛城に移る。
この年初、河内守護畠山高政が長慶に無断で守護代を更迭し、安見直政を選任させた為、再度三好軍は河内に入る。
7月~10月、河内各所で戦闘し飯盛・高屋両城を降伏させ、河内は三好氏の領国となる。
大和国衆もが畠山に一味したというので、松永久秀は奈良盆地の諸城を陥れ、8月には大和主要部を制圧。
三好長慶政権は山城を除く畿内全てを掌握。
(部将配置)
山城:淀城(細川氏綱)
摂津:芥川城(三好義興)
丹波:八木城(松永長頼)
大和:信貴山城・多聞山城(松永久秀)
河内:飯盛城(三好長慶)、高屋城(三好義賢)
和泉:岸和田城(十河一存)。
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・十河一存、河内観心寺へ全3ヶ条の「禁制」下す。
9月、三好長慶・松永久秀、河内観心寺へ全3ヶ条の「禁制」下す。
10月15日、松永久通、河内観心寺へ全3ヶ条の「禁制」下す。(「観心寺文書」)。
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・松平元康、尾張国境梅坪に攻寄せる。佐々内蔵助500、退散させる。
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・浅井長政、初陣。六角氏を野良田合戦で撃破。
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・毛利元就、足利義輝より錦直垂を贈られる。
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・スコットランド、宗教改革議会、開始。
17日、カルヴァン主義のに基づく「スコットランド信条」が通過、スコットランドにおけるローマ法皇の権威が否定され、スコットランドにおけるカトリックは少なくとも法的には一掃(ラテン語によるミサ禁止)。
ジョン・ノックスら新教指導者、教会構成改革・教典制定を行い、宗教改革の原則・指針を纏めた「第一規律書」「宗教の告白」を纏め、議会承認。
スコットランドの宗教改革。
聖職者の犠牲は少ない(新教7人、旧教2人)。カルヴァン主義によった改革。聖職者でない長老による集会(後、地方長老会)により牧師を任命。
*
・フランス、貴顕会議。旧教教会内の悪弊を修正するため。
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8月2日
・武田信玄、釜無川と御勅使川の信玄堤(竜王堤)沿岸への移住者に棟別銭を免除(移住奨励)。
竜王堤(甲斐市竜王):
信玄堤と呼ばれるものの中で最も有名なもの。
天文11(1542)年の釜無川大洪水後、信玄の発意で大改修が施され、弘治3(1557)年頃完成と云われる。
その技法は、後々まで甲州流川除法として全国的に展開される。
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8月6日
・三好長慶の兵、畠山高政の兵を河内石川郡に攻め破る。
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8月7日
・ロシア、イヴァン4世(雷帝)妃アナスタシア、没。
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8月23日
・信長、兵1,000を率い2度目の州俣出撃、退却。
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9月
・武田信玄、信濃奥郡に進出。越後勢が反撃。信玄は後退。
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・生駒家長(信長側室生駒氏の兄)に馬一疋の関税を免除(「生駒文書」)。
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・北條氏康、長尾景虎の上野出張に対し、上総久留里城の包囲を解き、河越城に出陣。
北条氏政も下野唐沢山城から撤退し小田原に帰陣。
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・松平元康(家康)長女亀姫、駿府にて誕生
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9月1日
・大友氏の兵、再び伊予宇和郡三間に侵入。
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9月4日
・伊勢貞孝、奥九州3ヶ国の調停のため日向に下向。
伊勢貞孝、伊東家の番弓笠掛日記を所望し、写本を月担上人を介して贈る。
伊東義祐、家督を義益に譲る。
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9月8日
・イングランド女王エリザベス1世の愛人ダドリーの妻、エイミー・ロブサートが変死。
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9月19日
・関白近衛前久、京都を発ち、越後の長尾景虎のもとへ向かう。
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9月28日
・越後守護代長尾(上杉)景虎(31、謙信)8,700余、関東管領上杉憲政を奉じて上野へ出陣。
沼田城(沼田市)・岩下城(吾妻郡)・那波城(伊勢崎市)を攻略。
29日、厩橋城(前橋市曲輪町)に入城。春日山城留守居役は長尾政景。
上野の国人たち、北条氏から離れ、続々と景虎に帰属。
景虎軍、各城を落とし関東席捲の勢いを示す。
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・北條氏康、松山城に在城
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・大坂本願寺の指示により、加賀・越中の一向一揆が越後を焼く。
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・浅井賢政(長政、16)、家督相続。北近江の領主となる。
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10月5日
・伊予に侵入した大友氏の兵、宇和郡石城を落とす。
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10月10日
・香西元成・波多野右衛門・木沢新太郎ら、飯盛城の後詰めに出陣、宇治周辺で放火。
12日、松永長頼、丹波から出陣し、炭山に拠る香西元成を敗死させる。
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10月15日
・三好長慶、河内高屋城に紀伊根来衆と戦い、これを破る。
24日、三好長慶勢の攻撃に飯盛城安見直政(前年8月高屋城を追われ飯盛城に逃れていた)降伏。
27日、河内高屋城畠山高政降伏。
河内は長慶の領国となる。
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10月17日
・武田信玄、長尾景虎と対戦の北条氏康支援の為、加賀・越中一向宗徒に景虎の本国越後を攻めさせるよう本願寺顕如に依頼。
この月、越中の一向宗門徒の頭目上田藤左衛門に対し、謙信が上野に乱入したので、北条氏康と申合わせて進陣するが、門徒衆と相談して神保氏と共に越後に乱入するよう依頼。
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10月31日
・フランス、ブルボン家第一王子(結婚によりナヴァール王となったブルボン公アントワーヌ)と弟コンデ公、オルレアン入り。コンデ公、逮捕される。
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・上杉輝虎、上州・倉内城(後の沼田城)攻略し、完全に上州を平定。
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11月13日
・三好勢松永久秀、万歳城を陥落。
この日、三好長慶、芥川城より河内飯盛城に入り、弟義賢(実休)に高屋城を与える。
18日、初瀬桜坊城陥落。24日、沢氏の檜牧城陥落。
29日、大和沢・桧牧を攻め、宇陀郡をその配下に置く。
大和一国、完全に松永久秀の手中に入る。
三好長慶に脅威を抱く六角義賢(夫人は晴元夫人と姉妹)は、畠山高政・細川晴元らと結び、長慶を南北から挟撃する計略をめぐらせる。
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11月26日
・フランス、ギーズ家による臨時法廷。コンデ公ルイに死刑判決。執行されず。
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12月
・フランス、カトリーヌ・ド・メディシス、占星術士をショーモン城に呼び寄せ、フランソワ2世の恢復を占星術士に頼る。
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・十河一存(摂津岸和田城主)、摂津有馬に湯治、有馬温泉権現の禁忌に触れて落馬したとされる。
翌年、3月18日没。
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・信長、尾張東竜寺へ全5ヶ条の「禁制」下す(「東龍寺回答書」)。
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・北条氏康、河越城より小田原に戻る。
籠城の準備を進め、甲斐の武田家や駿河の今川家に援軍の要請を行う。
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12月5日
・フランス、スコットランド女王メアリー・スチュワート(18)の夫フランソワ2世(16)、没。
シャルル9世(10)、即位。母后カトリーヌ・ド・メディシスが摂政となる。
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12月10日
・フランス、「三部会」をオルレアンに召集。~ 1561年1月31日
ギーズ兄弟、コリニーの提案を受け入れる。
信教の自由の承認(新教徒の「教会の建立」は認めないが、「迫害」は 断念)
三部会開催。
「名士会」による教会の堕落の調査。
当初、ブルボン兄弟(アントワーヌ・ド・ブルボンとその弟コンデ)は参加せず。
兄弟の妻ジャンヌ・ダルブレとエレオノール・ド・ ロワ(コンデの妻、コリニー妹)が「オルレアンは罠で、逮捕・殺害される」と出席に反対。
ギーズ兄弟は、膨大な軍隊をオルレアンに集結させ、リヨンを奪うべく準備していた新教徒の軍隊を攻撃。リヨンはジュネーヴ(カルヴァン)の一州になることを免れる。
後、ブルボン兄弟は、オルレアンに現れ、ルイ・ド・コンデ逮捕、裁判、「12月10日処刑」の判決。
*
宰相ミシェル・ロピタルの演説
「ルッター派とかユグノー派とか教皇派とかいう徒党分派を表す呪わしい言葉はやめにして、キリスト教徒という言葉をそのまま用いたい。」
母后カトリーヌ・ド・メディシス摂政(41、1519~1589)は、スタンスを新教派寄りに変更。
フランソワ2世妻メアリ・スチュアートをイングランド支配下のスコットランドに帰国させる(1561年8月)。
ギーズ兄弟は、国事から手を引く
(国王の妻の外戚ということが権力の源泉、フランソワ2世没後は他の貴族と「同等の存在」となる。但し、それぞれの役職は手放さず)。
アントワーヌ・ド・ブルボンがカトリーヌの籠絡の対象で それに成功する
(ルイ・ド・コンデを釈放、再審による 名誉回復を約束(1561年6月13日パリ高等法院)。国王総代理官に任命。国王の「国璽」を返却させる。)
*
*
「★信長インデックス」をご参照下さい。
*
昭和16年(1941)5月31日 「慾簒怪といふ化物 ・・・その吠る聲コーアコーアと聞ゆることもありセイセンと響くこともあり・・・。」(永井荷風「断腸亭日乗」)
永井荷風「断腸亭日乗」を少しづつご紹介してます。
今回は昭和16年5月の後半。
今回は荷風の「権力」への八つ当たりぶりが結構面白いと思い。
佐藤春夫(16日条)は、荷風が慶応大学教授の時の直々の弟子で、一時は荷風の家(偏奇館)へもフリーパスの状況だったようだが、荷風の最も嫌う菊池寛になびいた為、破門扱いになったという。
極めつけは31日条の「慾簒怪(大政翼賛会)といふ化物」。
誰かが書いたものを、偶然に見つけたかのように書いている。
単なる八つ当たり、憂さ晴らしではなく、真実を突いている。
「淫婦阿部お定」(15日条)について、さらりと書くだけのところもまたいい。
昭和16年(1941)
5月15日
五月十五日。くもりで風冷なること昨日の如し。
中央公論社この春頃より余が舊著の中より雑録小品文のたぐひを選み出して刊行せんことを請へり。
去冬五萬圓一件の義理もあればすげなくも断りかね一時承諾せしかど世間の風潮また讀書界の状況を見るに不愉快かぎりなき事のみなり。
余は世間より文士扱ひせらるゝほど堪難きことはなし。手紙にて雑録出板延期または中止したき趣を言ひ遣りぬ。
〔欄外朱筆〕陰莖切取りの淫婦阿部お定満期出獄
*
5月16日
・五月十六日。晴。椎の古葉紛々として雨の如し。
・・・佐藤春夫某新聞紙上に余に関して甚迷惑なる論文を掲載せしと云。事理を解せざる田舎漢と酒狂人ほど厄介なるものはなし。
*
5月18日
五月十八日 日曜日 くもりて小雨折々降り来る。梅雨の如き天候なり。
午後熱海のある旅館の主人來り旅館の女中も家の大小により人員を制限し解雇せられしものは製絲工場に送ることになると云ふ。
検査の役人は三島の役所より出張し來る。旅館にてはこの役人に百圓位の賄賂を贈り女中の人数をごまかすなりと云ふ。
熱海の警察署はその以前より収賄公行の有様なりと云ふ。
*
5月19日
五月十九日。積雨始て晴る。哺下士州橋に至る。新大橋より舟にて永代橋に至り歩みで鐡炮洲を過ぐ。稻荷の集禮なり。獨銀座に飰す。
土州橋醫院事務員のはなしに病院にて試験に用る兎は其死屍を一手に買集むる者ありて、やがては露店の焼鳥となるとの事なれば用心せらるぺしと云。
*
5月20日
五月二十日。晴。薫風颯爽。午後房陽子來訪。中央公論社にて拙著出板の事は同社遂に断念せし由。然るにこの度は春陽堂にて舊著日和下駄廿錢文庫を復刻したしと申來れり。
紙がないとか何とかいふ時勢にも係らず出版商人の私利に汲汲たるさま實に厭ふべきものあり。返書は出さず。そのまゝ捨て置きぬ。
夜芝ロの金兵衛に至り夕餉をなす。偶然川尻清潭子に逢ふ。
歌舞伎座來月の狂言髪結新三その筋にて許さず。源氏店は輿三郎改心するやうに改作せよと言はれし由。加賀鳶も改訂せざれは許さゞる由。目下ごたごたしてゐる最中なりと云ふ。
*
5月23日
五月念三。雨。午後に霽る。去月來食慾頓に減じ終日唯睡眠を催すのみ。土州橋に至り診察を講ふ。外米の被害なるぺしとて電気治療をなす。
新政の害毒遂に余が健康をおびやかすに至れり。可恐々々。
*
5月25日
五月念五 日曜日。雨やみてはまた降る。鄰家の卯の花既にさき初め丁字葛の花も亦馥郁たり。梅雨中にさく花今年は皆早く開きたり。時節のくるひも亂世のためなるぺし。
*
5月26日
五月念六。正午雨の晴れ間を窺ひ銀座に至り晝飯を喫し、また食料品を購うてかへる。
市中に散在する鶏肉アスペルヂ等の鑵詰は亞米利加に輸出するため製せられしものなりと云。
昨來風邪咳嗽甚し。
*
5月31日
五月卅一日。晴。表通の畳屋職人來り女中部屋畳替をなす。此日左の如き戯文を郵逢し來れるものあり。其一節をしるす。
慾簒怪といふ化物
この化物は時平公のような公卿の衣裳に大太刀をつるし魯西亞の橇に乗りて自由自在に空中を飛廻るなり。
但し西洋人の目には見えず日本人の目にのみ見える化物なり。
此化物は日本紀元二千六百年頃突然臼井峠の邊より現れ出で忽ちの中に日本中の米綿甘庶バタ牛肉等を食盡し追々人民の血を吸うに至れり。
其惨害大江山酒顚董子の比に非ずと雖當分退治せらるゝ見込なしと云ふ。
その吠る聲コーアコーアと聞ゆることもありセイセンと響くこともあり一定せず。
その中に亦何とか變るべしという。
以下畧之。
*
*
「★永井荷風インデックス」 をご参照下さい。
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今回は昭和16年5月の後半。
今回は荷風の「権力」への八つ当たりぶりが結構面白いと思い。
佐藤春夫(16日条)は、荷風が慶応大学教授の時の直々の弟子で、一時は荷風の家(偏奇館)へもフリーパスの状況だったようだが、荷風の最も嫌う菊池寛になびいた為、破門扱いになったという。
極めつけは31日条の「慾簒怪(大政翼賛会)といふ化物」。
誰かが書いたものを、偶然に見つけたかのように書いている。
単なる八つ当たり、憂さ晴らしではなく、真実を突いている。
「淫婦阿部お定」(15日条)について、さらりと書くだけのところもまたいい。
昭和16年(1941)
5月15日
五月十五日。くもりで風冷なること昨日の如し。
中央公論社この春頃より余が舊著の中より雑録小品文のたぐひを選み出して刊行せんことを請へり。
去冬五萬圓一件の義理もあればすげなくも断りかね一時承諾せしかど世間の風潮また讀書界の状況を見るに不愉快かぎりなき事のみなり。
余は世間より文士扱ひせらるゝほど堪難きことはなし。手紙にて雑録出板延期または中止したき趣を言ひ遣りぬ。
〔欄外朱筆〕陰莖切取りの淫婦阿部お定満期出獄
*
5月16日
・五月十六日。晴。椎の古葉紛々として雨の如し。
・・・佐藤春夫某新聞紙上に余に関して甚迷惑なる論文を掲載せしと云。事理を解せざる田舎漢と酒狂人ほど厄介なるものはなし。
*
5月18日
五月十八日 日曜日 くもりて小雨折々降り来る。梅雨の如き天候なり。
午後熱海のある旅館の主人來り旅館の女中も家の大小により人員を制限し解雇せられしものは製絲工場に送ることになると云ふ。
検査の役人は三島の役所より出張し來る。旅館にてはこの役人に百圓位の賄賂を贈り女中の人数をごまかすなりと云ふ。
熱海の警察署はその以前より収賄公行の有様なりと云ふ。
*
5月19日
五月十九日。積雨始て晴る。哺下士州橋に至る。新大橋より舟にて永代橋に至り歩みで鐡炮洲を過ぐ。稻荷の集禮なり。獨銀座に飰す。
土州橋醫院事務員のはなしに病院にて試験に用る兎は其死屍を一手に買集むる者ありて、やがては露店の焼鳥となるとの事なれば用心せらるぺしと云。
*
5月20日
五月二十日。晴。薫風颯爽。午後房陽子來訪。中央公論社にて拙著出板の事は同社遂に断念せし由。然るにこの度は春陽堂にて舊著日和下駄廿錢文庫を復刻したしと申來れり。
紙がないとか何とかいふ時勢にも係らず出版商人の私利に汲汲たるさま實に厭ふべきものあり。返書は出さず。そのまゝ捨て置きぬ。
夜芝ロの金兵衛に至り夕餉をなす。偶然川尻清潭子に逢ふ。
歌舞伎座來月の狂言髪結新三その筋にて許さず。源氏店は輿三郎改心するやうに改作せよと言はれし由。加賀鳶も改訂せざれは許さゞる由。目下ごたごたしてゐる最中なりと云ふ。
*
5月23日
五月念三。雨。午後に霽る。去月來食慾頓に減じ終日唯睡眠を催すのみ。土州橋に至り診察を講ふ。外米の被害なるぺしとて電気治療をなす。
新政の害毒遂に余が健康をおびやかすに至れり。可恐々々。
*
5月25日
五月念五 日曜日。雨やみてはまた降る。鄰家の卯の花既にさき初め丁字葛の花も亦馥郁たり。梅雨中にさく花今年は皆早く開きたり。時節のくるひも亂世のためなるぺし。
*
5月26日
五月念六。正午雨の晴れ間を窺ひ銀座に至り晝飯を喫し、また食料品を購うてかへる。
市中に散在する鶏肉アスペルヂ等の鑵詰は亞米利加に輸出するため製せられしものなりと云。
昨來風邪咳嗽甚し。
*
5月31日
五月卅一日。晴。表通の畳屋職人來り女中部屋畳替をなす。此日左の如き戯文を郵逢し來れるものあり。其一節をしるす。
慾簒怪といふ化物
この化物は時平公のような公卿の衣裳に大太刀をつるし魯西亞の橇に乗りて自由自在に空中を飛廻るなり。
但し西洋人の目には見えず日本人の目にのみ見える化物なり。
此化物は日本紀元二千六百年頃突然臼井峠の邊より現れ出で忽ちの中に日本中の米綿甘庶バタ牛肉等を食盡し追々人民の血を吸うに至れり。
其惨害大江山酒顚董子の比に非ずと雖當分退治せらるゝ見込なしと云ふ。
その吠る聲コーアコーアと聞ゆることもありセイセンと響くこともあり一定せず。
その中に亦何とか變るべしという。
以下畧之。
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「★永井荷風インデックス」 をご参照下さい。
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永井荷風年譜(10) 明治39年(1906)満27歳~明治40年(1907)満28歳 「余は娼家の奴僕となるも何の恥る処かあらん。」 遂にフランスに渡る
永井荷風年譜(10)
明治39年(1906)満27歳
1月1日
元日の朝はニューヨークのチャイナタウンで迎える。
*
1月5日
ワーグナー「トリスタン」を聴いて感銘をうける。
~1月8日まで、メトロポリタン歌劇場で、毎夜、ファウスト、トリスタン、ドン・パスクワーレ、トスカを観覧。
この頃からワシントンの娼婦イデスが毎週末にニューヨークへ会いに来る。
*
この頃、銀行勤務の余暇はコンサートや観劇に集中する。
「そもそも余が最初海外の旅行を思立ちたるは西洋劇の舞台を看ん事を欲したればなり」(『西遊日誌抄』前年12月23日)
また、西洋音楽を系統的に知るため数冊の書物を購入。
*
1月7日
フランス婦人の家に移り、フランス語会話を練習。
「仏蘭西人の家に行李を移す」。
その家の「主婦は年六十ばかり」で「余はこれより日々仏語の会話を練習するの機会を得たるを喜ぶ」(『西遊日誌抄』1月7日)。
フランスへの憧れは日に日に高まっていく。
*
「一月九日
……家に帰るに机上一封の書ありイデス余を見んとて次の週間に紐育に来るべしと云ふなり。イデスは華盛頓の娼婦なり去年の夏かの都に遊びし折ふと馴れ染めその後は折々文取りかはしゐたりしなり」
「二月十四日 娼婦イデスの手紙来る事連日なり わが心歓喜と又恐怖に満さる」
*
2月~3月
タンホイザー、アイーダー、ローエングリーン、パルシファルなどワーグナー歌劇を観賞。
また、カーネギーホールでクラシック音楽を鑑賞。
*
4月
ニューヨークを訪問したロシアのゴーリキがひどく冷遇された経緯を記す。
*
フランスへの憧れ
「四月二十三日 銀行午餐後サウスフェリーとよぶ波止場の公園を歩む。春の海は空と共に青々と晴れ渡りたれば湾頭に屹立するかの自由の女神像はいつよりも更に偉大に打望まれたり。
余はこの湾頭遥に大西洋を望めばまだ知らぬ仏蘭西の都と其の芸術の恋しさに今の我が身の果敢なきを思ひ無限の悲愁に打沈めらるゝを常とす。
あゝ何事も思ふまじ何事も見まじとて急ぎ銀行に帰り帳簿の上に顔ひたと押当てぬ」(『西遊日誌抄』)
*
5月25日
「春と秋」を浄書
同月27日、「長髪」脱稿
それぞれ巌谷小波宛送付。
*
6月11日
「雪のやどり」を清書して「太陽」に送付。
銀行勤務の苦痛の度が増して来る。
フランス語の夜学に通い始める。
*
6月20日
チャイナタウンの魔窟に出入りし、アヘンを吸う賎業婦の悲惨を見て親密感を覚えたという。
*
7月
モーパサン、フローベールの小説を読む。
銀行内では次第に行状への悪評が広がり、解雇の噂が広がる。
*
7月8日
ニューヨークに来たイデスと再会して交情を深める。
22日、「夜半の酒場」を執筆。
*
「七月八日 イデス巳に紐育に在り。余を四十五丁目のベルモントホテルに待ちつゝありと云ふ。余はこの電報を片手にして馳せ行けり。
あゝ去冬十一月落葉蕭々たる華盛頓の街頭に別離の涙を濺ぎしより恰も九箇月なり。彼は一日とてもその夜の悲しさを忘れたる事なしとて熱き接吻もて余の身を掩へり。
ホテルに在る事半日、夜の来るを待ちて共に中央公園を歩みコロンブスサークルの酒楼バブストに入りて三鞭酒(シヤンパン)を傾け酔歩蹣蹣跚腕をくみて燈火の巷を歩み暁近く旅館に帰る。
彼の女はこの年の秋かおそくもこの年の冬には紐育に引移りて静かなる裏通に小奇麗なる貸間(フラツト)を借り余と共に新しき世帯を持つべしとて楽しき夢のかずかず語り出でゝやまず」
しかし、葛藤もある(イデスと共に居るか、芸術のためにフランスに渡るか)。
「余は宛然仏蘭西小説中の人物となりたるが如く、その嬉し忝じけなさ涙こぼるゝばかりなれど、それと共に又やがて来るべき再度の別れの如何に悲しかるべきかを思ひては寧ろ今の中に断然去るに如かじとさまざま思ひ悩みて眠るべくもあらず。
今余の胸中には恋と芸術の夢との、激しき戦ひ布告せられんとしつゝあるなり」
「悄然として彼の女が寝姿を打眺めき。あゝ男ほど罪深きはなし」
翌日の午後、イデスは帰って行く。
イデスは車窓から胸に挿していたバラの花を荷風に向かって投げる。
「余は突然いかなる犠牲を払ふとも彼の女を捨つること能はずと感じぬ。
昨夜の二心は忽ち変じて今は一刻だも彼の女なくしては生くる事能はざるが如き心地となれり」
*
「七月十日 彼の女がこと心を去らず。
余はさまざま有られもなき空想に包まるゝ身とはなれり。
そもそも余が父は余をして将来日本の商業界に立身の道を得せしめんが為め学費を惜しまず余を米国に遊学せしめしなり。子たるもの其恩を忘れて可ならんや。
然れども如何せん余の性情遂に銀行員たるに適せざるを。
余は寧身を此の米国の陋巷にくらまし再び日本人を見ざるにしかじと思ふ事廔なり。イデスはやがて紐育に来りて余と同棲せんと云ひしにあらずや。
余は娼家の奴僕となるも何の恥る処かあらん。かゝる暗黒の生活は余の元来嗜む処なるを」
*
8月1日
従兄の松三から「君近頃銀行内の評判宜しからず解雇の噂さへあるやに聞及べり」と言われ、「心大に憂ひ悲めり」(『西遊日誌抄』)。
この「評判」は父親にも届いているはず。
*
8月15日
ワシントンの娼婦イデスがニューヨークに移り住み、逢引も頻繁となる。
*
9月中旬~10月初め
病気(腸チブスの疑い)のため欠勤。
*
11月
カーネギーホールにニューヨーク・シンフォニーの演奏を聞き、メトロポリタン歌劇場にロメオとジュリエット、タンホイザー、シーザーとクレオパトラ、リゴレット、ファウスト、カルメン、ポエーム、ラクメを見る。
*
*
明治40年(1907)満28歳
1月
これだけ放蕩を尽くしても解雇されないのは不思議だと意外に思う。
この月、メトロポリタン歌劇場にてカルメン、ジークフリート、ロメオとジュリエット、椿姫を見る。
また、マンハッタン歌劇場にドン・ジュワンニを聴く。
1月6日、「旧恨」脱稿(5月1日「太陽」掲載)。
この頃、ミュツセの詩集を読んで感動。
*
1月17日
再びド・トゥール夫人のアパートに移る。
フランス行の志望を父に訴える。
*
6月
ニューヨーク湾内のスタトン島(スタッテン島)に避暑。
イギリス娘ロザリンを識る。
*
7月2日
(横浜正金銀行)リヨン支店へ転勤を命じられる。
父の配慮(どこまでも「甘い」父である)。
*
7月9日
イデスと別盃を酌む。また、在米日本人グループが送別会を催す。
*
7月18日午前9時、フランス汽船「ブルタンユ」号でハドソン河口の波止場を出帆。
7月27日、ランスのル・アーブル港に着く
7月28日正午、パリ着
7月29日夕方、パリ発
7月30日午前3時、リヨン着。
*
「イデスと別杯をくむ。此の夜の事記するに忍びず。彼の女は巴里にて同じ浮きたる渡世する女に知るもの二三人もあればいかにもして旅費を才覚しこの冬来るらざる中に巴里に渡りそれより里昂に下りて再会すべしといふ。あゝ然れども余の胸中には最早や芸術の功名心以外何物もあらず、イデスが涙ながらの繰言聞くも上の空なり」(『西遊日誌抄』)
「世間では米国の女と云ふと男の手には合はぬ様に云ふが、其の女の如きは日本の女よりも気立がやさしい。僕は手を切らうと思って随分不親切な事もしたが、遂にだめであった。
僕は生活の非常に高いニューヨークでホテルや料理屋の最上等の処をすつかり知つて居るのも、其の女のおかげで、若し僕に一点の良心がなかつたら、悠々として何にもせず其の女に食はしてもらつて居たであらう。いや、其れが先方の志望で、僕はさまざまな誘惑の手段をうけた。
フランスに出発する時には非常に面倒だと思つた処が、彼の女は、僕のフランス好な事を知つて居るのと、僕の将来を思つて、泣きながら何とも云はずに出発さして呉れた」(9月23日付、西村恵次郎宛手紙)
*
*
8月2日
ローン河西岸ワンドーム街に下宿。正金銀行リヨン支店はラルブル・セック街19番地にあった。
オペラや音楽会に通い、またユイスマンス、アンリー・ド・レニエー等の作品に親しむ。
*
11月中旬
マルセイユ周辺に旅行。
*
11月末
「アメリカ物語」を脱稿して巌谷小波に送り出版を依頼。
*
*
「★永井荷風インデックス」をご参照下さい。
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明治39年(1906)満27歳
1月1日
元日の朝はニューヨークのチャイナタウンで迎える。
*
1月5日
ワーグナー「トリスタン」を聴いて感銘をうける。
~1月8日まで、メトロポリタン歌劇場で、毎夜、ファウスト、トリスタン、ドン・パスクワーレ、トスカを観覧。
この頃からワシントンの娼婦イデスが毎週末にニューヨークへ会いに来る。
*
この頃、銀行勤務の余暇はコンサートや観劇に集中する。
「そもそも余が最初海外の旅行を思立ちたるは西洋劇の舞台を看ん事を欲したればなり」(『西遊日誌抄』前年12月23日)
また、西洋音楽を系統的に知るため数冊の書物を購入。
*
1月7日
フランス婦人の家に移り、フランス語会話を練習。
「仏蘭西人の家に行李を移す」。
その家の「主婦は年六十ばかり」で「余はこれより日々仏語の会話を練習するの機会を得たるを喜ぶ」(『西遊日誌抄』1月7日)。
フランスへの憧れは日に日に高まっていく。
*
「一月九日
……家に帰るに机上一封の書ありイデス余を見んとて次の週間に紐育に来るべしと云ふなり。イデスは華盛頓の娼婦なり去年の夏かの都に遊びし折ふと馴れ染めその後は折々文取りかはしゐたりしなり」
「二月十四日 娼婦イデスの手紙来る事連日なり わが心歓喜と又恐怖に満さる」
*
2月~3月
タンホイザー、アイーダー、ローエングリーン、パルシファルなどワーグナー歌劇を観賞。
また、カーネギーホールでクラシック音楽を鑑賞。
*
4月
ニューヨークを訪問したロシアのゴーリキがひどく冷遇された経緯を記す。
*
フランスへの憧れ
「四月二十三日 銀行午餐後サウスフェリーとよぶ波止場の公園を歩む。春の海は空と共に青々と晴れ渡りたれば湾頭に屹立するかの自由の女神像はいつよりも更に偉大に打望まれたり。
余はこの湾頭遥に大西洋を望めばまだ知らぬ仏蘭西の都と其の芸術の恋しさに今の我が身の果敢なきを思ひ無限の悲愁に打沈めらるゝを常とす。
あゝ何事も思ふまじ何事も見まじとて急ぎ銀行に帰り帳簿の上に顔ひたと押当てぬ」(『西遊日誌抄』)
*
5月25日
「春と秋」を浄書
同月27日、「長髪」脱稿
それぞれ巌谷小波宛送付。
*
6月11日
「雪のやどり」を清書して「太陽」に送付。
銀行勤務の苦痛の度が増して来る。
フランス語の夜学に通い始める。
*
6月20日
チャイナタウンの魔窟に出入りし、アヘンを吸う賎業婦の悲惨を見て親密感を覚えたという。
*
7月
モーパサン、フローベールの小説を読む。
銀行内では次第に行状への悪評が広がり、解雇の噂が広がる。
*
7月8日
ニューヨークに来たイデスと再会して交情を深める。
22日、「夜半の酒場」を執筆。
*
「七月八日 イデス巳に紐育に在り。余を四十五丁目のベルモントホテルに待ちつゝありと云ふ。余はこの電報を片手にして馳せ行けり。
あゝ去冬十一月落葉蕭々たる華盛頓の街頭に別離の涙を濺ぎしより恰も九箇月なり。彼は一日とてもその夜の悲しさを忘れたる事なしとて熱き接吻もて余の身を掩へり。
ホテルに在る事半日、夜の来るを待ちて共に中央公園を歩みコロンブスサークルの酒楼バブストに入りて三鞭酒(シヤンパン)を傾け酔歩蹣蹣跚腕をくみて燈火の巷を歩み暁近く旅館に帰る。
彼の女はこの年の秋かおそくもこの年の冬には紐育に引移りて静かなる裏通に小奇麗なる貸間(フラツト)を借り余と共に新しき世帯を持つべしとて楽しき夢のかずかず語り出でゝやまず」
しかし、葛藤もある(イデスと共に居るか、芸術のためにフランスに渡るか)。
「余は宛然仏蘭西小説中の人物となりたるが如く、その嬉し忝じけなさ涙こぼるゝばかりなれど、それと共に又やがて来るべき再度の別れの如何に悲しかるべきかを思ひては寧ろ今の中に断然去るに如かじとさまざま思ひ悩みて眠るべくもあらず。
今余の胸中には恋と芸術の夢との、激しき戦ひ布告せられんとしつゝあるなり」
「悄然として彼の女が寝姿を打眺めき。あゝ男ほど罪深きはなし」
翌日の午後、イデスは帰って行く。
イデスは車窓から胸に挿していたバラの花を荷風に向かって投げる。
「余は突然いかなる犠牲を払ふとも彼の女を捨つること能はずと感じぬ。
昨夜の二心は忽ち変じて今は一刻だも彼の女なくしては生くる事能はざるが如き心地となれり」
*
「七月十日 彼の女がこと心を去らず。
余はさまざま有られもなき空想に包まるゝ身とはなれり。
そもそも余が父は余をして将来日本の商業界に立身の道を得せしめんが為め学費を惜しまず余を米国に遊学せしめしなり。子たるもの其恩を忘れて可ならんや。
然れども如何せん余の性情遂に銀行員たるに適せざるを。
余は寧身を此の米国の陋巷にくらまし再び日本人を見ざるにしかじと思ふ事廔なり。イデスはやがて紐育に来りて余と同棲せんと云ひしにあらずや。
余は娼家の奴僕となるも何の恥る処かあらん。かゝる暗黒の生活は余の元来嗜む処なるを」
*
8月1日
従兄の松三から「君近頃銀行内の評判宜しからず解雇の噂さへあるやに聞及べり」と言われ、「心大に憂ひ悲めり」(『西遊日誌抄』)。
この「評判」は父親にも届いているはず。
*
8月15日
ワシントンの娼婦イデスがニューヨークに移り住み、逢引も頻繁となる。
*
9月中旬~10月初め
病気(腸チブスの疑い)のため欠勤。
*
11月
カーネギーホールにニューヨーク・シンフォニーの演奏を聞き、メトロポリタン歌劇場にロメオとジュリエット、タンホイザー、シーザーとクレオパトラ、リゴレット、ファウスト、カルメン、ポエーム、ラクメを見る。
*
*
明治40年(1907)満28歳
1月
これだけ放蕩を尽くしても解雇されないのは不思議だと意外に思う。
この月、メトロポリタン歌劇場にてカルメン、ジークフリート、ロメオとジュリエット、椿姫を見る。
また、マンハッタン歌劇場にドン・ジュワンニを聴く。
1月6日、「旧恨」脱稿(5月1日「太陽」掲載)。
この頃、ミュツセの詩集を読んで感動。
*
1月17日
再びド・トゥール夫人のアパートに移る。
フランス行の志望を父に訴える。
*
6月
ニューヨーク湾内のスタトン島(スタッテン島)に避暑。
イギリス娘ロザリンを識る。
(『あめりか物語』「六月の夜の夢」のロザリン)
「僕がフランスに行く事を聞いて、其れまでは深くかくして居た胸の秘密を打明けて呉れたイギリス生れの少女がある」
「僕は其の少女と毎夜田舎の森海辺を歩み、唯だ涙に暮れて居る。
のろけるぢやない、人生は冗談事ではない。一種の野心にかられてフランスを夢みた事を悔もする、『自分』と云ふものを中心にして、幾多の人が不幸を見たであらう、僕の父も、僕が居なければ、何の心配もなかったらうし。かの少女も又僕の居た為め少くとも悲哀の手に触れた。
人生は意志の強いものには愉快であらうが、女々しい僕には時として堪えられない事が多い」(7月9日付西村恵次郎宛て手紙)
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7月2日
(横浜正金銀行)リヨン支店へ転勤を命じられる。
父の配慮(どこまでも「甘い」父である)。
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7月9日
イデスと別盃を酌む。また、在米日本人グループが送別会を催す。
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7月18日午前9時、フランス汽船「ブルタンユ」号でハドソン河口の波止場を出帆。
7月27日、ランスのル・アーブル港に着く
7月28日正午、パリ着
7月29日夕方、パリ発
7月30日午前3時、リヨン着。
*
「イデスと別杯をくむ。此の夜の事記するに忍びず。彼の女は巴里にて同じ浮きたる渡世する女に知るもの二三人もあればいかにもして旅費を才覚しこの冬来るらざる中に巴里に渡りそれより里昂に下りて再会すべしといふ。あゝ然れども余の胸中には最早や芸術の功名心以外何物もあらず、イデスが涙ながらの繰言聞くも上の空なり」(『西遊日誌抄』)
「世間では米国の女と云ふと男の手には合はぬ様に云ふが、其の女の如きは日本の女よりも気立がやさしい。僕は手を切らうと思って随分不親切な事もしたが、遂にだめであった。
僕は生活の非常に高いニューヨークでホテルや料理屋の最上等の処をすつかり知つて居るのも、其の女のおかげで、若し僕に一点の良心がなかつたら、悠々として何にもせず其の女に食はしてもらつて居たであらう。いや、其れが先方の志望で、僕はさまざまな誘惑の手段をうけた。
フランスに出発する時には非常に面倒だと思つた処が、彼の女は、僕のフランス好な事を知つて居るのと、僕の将来を思つて、泣きながら何とも云はずに出発さして呉れた」(9月23日付、西村恵次郎宛手紙)
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8月2日
ローン河西岸ワンドーム街に下宿。正金銀行リヨン支店はラルブル・セック街19番地にあった。
オペラや音楽会に通い、またユイスマンス、アンリー・ド・レニエー等の作品に親しむ。
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11月中旬
マルセイユ周辺に旅行。
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11月末
「アメリカ物語」を脱稿して巌谷小波に送り出版を依頼。
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「★永井荷風インデックス」をご参照下さい。
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2011年5月13日金曜日
東京 昭和館 「ポスターに見る戦中・戦後」
今日(5月13日)の昼休み、九段下の昭和館で開催中の「ポスターに見る戦中・戦後」に行ってきました。
入場無料です。
右上の「かやは麻」は、かやを防弾用の網に見立てた子供の戦争ごっこ。
ヘルメットには、「錨と桜」があり、いわゆる「第二次上海事変」下の戦意高揚ポスターとの説明でした。
「錨と桜」は海軍陸戦隊、「第二次上海事変」は南京への道に続いて行きます。
それと、上海、南京、重慶などへの無差別戦略爆撃。
時期がら、昔の戦意高揚ポスターを見ていて、
「原子力は安全でクリーンなエネルギー」
という「刷り込み」用のキャッチフレーズを連想しました。
「国策」としてそういう学童教育をしてきた愚かさと、見て見ぬふりをしていた過ちと。
繰り返してはならない。
「直ちに健康への悪影響はない」という言葉が繰り返されている。
これは一体、どういう意味だろうか?
中長期的には健康に悪影響を与える、とは言えないからか?
「ガンバレニッポン」は被災者の方を激励しているのか、それとも「保障」「復興」の名の下に高負担に耐える「国民」作りをしているのか?
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「★東京インデックス」 をご参照下さい。
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入場無料です。
右上の「かやは麻」は、かやを防弾用の網に見立てた子供の戦争ごっこ。
ヘルメットには、「錨と桜」があり、いわゆる「第二次上海事変」下の戦意高揚ポスターとの説明でした。
「錨と桜」は海軍陸戦隊、「第二次上海事変」は南京への道に続いて行きます。
それと、上海、南京、重慶などへの無差別戦略爆撃。
時期がら、昔の戦意高揚ポスターを見ていて、
「原子力は安全でクリーンなエネルギー」
という「刷り込み」用のキャッチフレーズを連想しました。
「国策」としてそういう学童教育をしてきた愚かさと、見て見ぬふりをしていた過ちと。
繰り返してはならない。
「直ちに健康への悪影響はない」という言葉が繰り返されている。
これは一体、どういう意味だろうか?
中長期的には健康に悪影響を与える、とは言えないからか?
「ガンバレニッポン」は被災者の方を激励しているのか、それとも「保障」「復興」の名の下に高負担に耐える「国民」作りをしているのか?
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「★東京インデックス」 をご参照下さい。
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2011年5月11日水曜日
東京 江戸城 二の丸池の畔 カキツバタ シラン(紫蘭) アヤメ ヒメコウホネ ヤマボウシ コウシンバラ モッコウバラ
今日(4月11日)は一日中雨。
気温は昨日より10℃ほど低く、一日中14~15℃程度。
昨日は、昼休み時間が充分にとれず、本丸跡だけしか行けなかったので、今日も雨の中、江戸城へ。
今日のお目当ては、二の丸庭園のショウブ(菖蒲)でしたが、残念、一輪も咲いてませんでした。
アヤメあり、カキツバタあり、ショウブなし、です。
アヤメはもう終盤を迎えており、三者が出揃うのはムリですね。
アヤメ、カキツバタ、ショウブの違いは、水辺には咲かないアヤメ、水と土の間に咲くカキツバタ、水に咲くショウブ、と素人的理解をしてますが、・・・?。
*
▼カキツバタとシラン(紫蘭)
水辺の花なので、雨には似合うようです。
*
▼アヤメ
雨のせいとはいえ、もう終盤なので、イマイチ元気がない。
*
▼ヒメコウホネ
小さい花がたくさん咲いています。
*
▼ヤマボウシ
ハナミズキの仲間です。
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▼キエビネ
▼モッコウバラ
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「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
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気温は昨日より10℃ほど低く、一日中14~15℃程度。
昨日は、昼休み時間が充分にとれず、本丸跡だけしか行けなかったので、今日も雨の中、江戸城へ。
今日のお目当ては、二の丸庭園のショウブ(菖蒲)でしたが、残念、一輪も咲いてませんでした。
アヤメあり、カキツバタあり、ショウブなし、です。
アヤメはもう終盤を迎えており、三者が出揃うのはムリですね。
アヤメ、カキツバタ、ショウブの違いは、水辺には咲かないアヤメ、水と土の間に咲くカキツバタ、水に咲くショウブ、と素人的理解をしてますが、・・・?。
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▼カキツバタとシラン(紫蘭)
水辺の花なので、雨には似合うようです。
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▼アヤメ
雨のせいとはいえ、もう終盤なので、イマイチ元気がない。
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▼ヒメコウホネ
小さい花がたくさん咲いています。
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▼ヤマボウシ
ハナミズキの仲間です。
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▼キエビネ
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▼コウシンバラ
次に本丸跡に行き、昨日見れなかったバラ園に行きましたが、もう殆どが終りに近く、お見せできるのは下のコウシンバラ、モッコウバラくらいでした。
*▼モッコウバラ
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2011年5月10日火曜日
東京 江戸城 東御苑 ハクウンボク アオダモ シラン(紫蘭)
今日(4月10日)は、曇りから夕方は雨、おまけに気温高く、湿度高く、梅雨のような気候。
予報では金曜日までこんな気候が続くとか。
昼休み、江戸城東御苑へ。
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▼ハクウンボク
昨日の北の丸公園と同様、お目当てはハクウンボク。
もうすでに散り始めていました。
*
▼一つだけ、かなり遠くに咲き始めのハクウンボクが。
*
▼アオダモ
これも遠目にはよく分かりませんでしたが、ズームで見るとアオダモのようです。
イチローのバットの材料になっていることでも有名です。
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▼シラン(紫蘭)
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「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
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予報では金曜日までこんな気候が続くとか。
昼休み、江戸城東御苑へ。
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▼ハクウンボク
昨日の北の丸公園と同様、お目当てはハクウンボク。
もうすでに散り始めていました。
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▼一つだけ、かなり遠くに咲き始めのハクウンボクが。
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▼アオダモ
これも遠目にはよく分かりませんでしたが、ズームで見るとアオダモのようです。
イチローのバットの材料になっていることでも有名です。
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▼シラン(紫蘭)
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北の丸公園 ショウブ(菖蒲) ハコネウツギ(箱根空木) ハクウンボク 咲く モミジの林
昨日(4月9日)の北の丸公園
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▼工芸館横の池にショウブ(菖蒲)が咲き始めました
*
▼ハコネウツギ(箱根空木)
こちらもまだ咲き始めです
*
▼ハクウンボク
白い雲がたなびく様子に似ているところから名付けられたらしいです。
咲き始めから散るまで、多分一週間くらい(もっと短いかもしれない)。
なかなかここまで咲いているのを見る機会は少なく、ラッキーだった。
*
▼モミジ
ついついここに立ち寄ります。
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「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
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▼工芸館横の池にショウブ(菖蒲)が咲き始めました
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▼ハコネウツギ(箱根空木)
こちらもまだ咲き始めです
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▼ハクウンボク
白い雲がたなびく様子に似ているところから名付けられたらしいです。
咲き始めから散るまで、多分一週間くらい(もっと短いかもしれない)。
なかなかここまで咲いているのを見る機会は少なく、ラッキーだった。
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▼モミジ
ついついここに立ち寄ります。
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「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
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2011年5月8日日曜日
★明治年表インデックス
★明治年表インデックス
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明治5年(1872)1月~3月 「学問のすすめ」出版 島崎藤村誕生 樋口一葉誕生 [一葉0歳]
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明治5年(1872)4月~5月 江藤新平が初代司法卿に就任 施し厳罰の布告 天皇の西日本巡幸 琉球併合が議論される [一葉0歳]
*
明治5年(1872)6月~7月 マリア・ルーズ号事件 鷗外(10歳)上京 西郷隆盛、山県有朋を救い、参議兼元帥兼近衛都督となる
*
明治5年(1872)8月~9月 学制発布「・・・邑ニ不学ノ戸ナク家ニ不学ノ人ナカラシメン・・・」 琉球藩設置 初めての軍艦の海外派遣 [一葉0歳]
*
明治5年(1872年)10月~12月 人身売買禁止と芸妓・娼妓・前借金による年季奉公人の無償解放 富岡製糸場操業開始 リゼンドルの台湾平定軍事作戦計画 太陽暦採用 国立銀行条例 徴兵告諭 山城屋和助事件 大分県中4郡一揆 [一葉0歳]
*
明治6年(1873年)1月 農民暴動の頻発 太政大臣三条実美の岩倉具視への手紙(島津久光問題、大蔵省問題、台湾問題、朝鮮問題) [一葉1歳]
*
明治6年(1873)1月 司法卿江藤新平、大蔵省の予算削減に抗議して辞表提出 [一葉1歳]
*
明治6年(1873)2月~3月 高島炭鉱暴動 星亨(22)横浜税関次長就任 植木枝盛(16)上京 与謝野鉄幹誕生 外務卿福島種臣清国派遣 新旧公債発行条例 陸軍少佐樺山資紀ら清国・台湾・朝鮮・満洲調査 [一葉1歳]
*
明治6年(1873)3月5日 越前護法大一揆(越前真宗門徒の大決起) 大野・今立・坂井3郡下で勃発 [一葉1歳]
*
明治6年(1873)年3月 新次郎魚代渋事件 朝鮮で反三井の空気強い 陸軍大輔山県有朋辞職 左院議長後藤象二郎・司法卿江藤新平・文部卿大木喬任、参議に任命 島津久光、鹿児島士族率い上京 [一葉1歳]
*
明治6年(1873)5月 ウィーン万国博開催 太政官職制改正(「潤色」) 大蔵大輔井上馨・大蔵省三等出仕渋沢栄一、辞表提出 プロイセン5月諸法 1873年世界恐慌 [一葉1歳]
*
明治6年(1783)5月26日~31日 大久保利通、欧米視察より帰国 小野組、京都裁判所へ「難渋御訴訟」 [一葉1歳]
*
明治6年(1873)年6月 第一国立銀行創立 京都裁判所、小野組転籍受理 筑前竹槍一揆 副島全権、単独で清朝皇帝謁見 名東県一揆 [一葉1歳]
*
明治6年(1873)年7月1日~26日 朝鮮問題の閣議決定 木戸孝允、帰国 井上救済に動く [一葉1歳]
*
明治6年(1873)7月28日~31日 「地租改正令」公布 西郷の使節暴殺・開戦論 [一葉1歳]
*
明治6年(1873)8月1日~3日 井上馨の尾去沢銅山事件 木戸の征台征韓反対意見 [一葉1歳]
*
明治6年(1873)8月10日~17日 西郷の朝鮮派遣を閣議決定(「内決」) 西郷の「使節暴殺論」の真意は? [一葉1歳]
*
明治6年(1873)8月19日~9月2日 京都府の長州閥、槇村正直救済のため木戸工作に暗躍 植木枝盛(16歳)、海南私塾退学 黒田清隆開拓次官、樺太出兵を建議 [一葉1歳]
*
明治6年(1873)9月3日~9月15日 木戸、西郷派遣の閣議決定は「深慮に耐えず」と批判 岩倉・伊藤らの帰国 伊藤博文、薩長体制建直しに暗躍 [一葉1歳]
*
明治6年(1873)9月16日~25日 木戸孝允、左半身不随となり伊藤博文が代理人を務める 木戸は京都府幹部を攻撃する司法省(江藤)に激怒
*
明治6年(1873)9月26日~30日 三条・岩倉・黒田・伊藤の説得にもかかわらず大久保は参議就任を固辞 司法大輔福岡孝弟ら司法省幹部、進退を賭けて三条太政大臣に上申 [一葉1歳]
*
明治6年(1873)10月1日~8日 伊藤博文の朝鮮使節利用による井上・槇村救済戦略 大久保利通、参議就任を承諾 [一葉1歳]
*
明治6年(1873)10月9日~14日 大久保利通・副島種臣参議就任 14日の閣議は朝鮮使節派遣の結論を持ち越す [一葉1歳]
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明治6年(1873)10月15日 西郷朝鮮派遣めぐり閣議 西郷は「始末書」を提出して欠席 西郷派遣決定 大久保利通の延期論破れる [一葉1歳]
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明治6年(1873)10月17日~20日 大久保らが辞表提出 太政大臣三条実美の精神錯乱 大久保の「一の秘策」(岩倉の太政大臣代理就任を画策 [一葉1歳]
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明治6年(1873)10月21日~24日 明治6年10月政変(大久保のクーデタ)なる [一葉1歳]
*
明治6年(1873)10月25日~28日 朝鮮の崔益鉉、大院君弾劾上疏を呈出 槇村正直の拘留を解く「特命」 大久保書簡「旧参議にたいし御申し訳あるまじ」 [一葉1歳]
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明治6年(1873)11月1日~4日 大久保利通「立憲政体に関する意見書」 井上馨、伊藤博文に利権を無心 李氏朝鮮の高宗新政開始 大院君失脚 [一葉1歳]
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明治6年(1873)11月5日~15日 内務省設置(初代内務卿大久保利通) 西郷の帰郷 ボアソナアド、横浜に到着 [一葉1歳]
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明治6年(1873)11月17日~末日 家禄税創設決定 木戸は不満 [一葉1歳]
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明治6年(1873)12月 大久保、政権維持を憂慮「来年二月頃まではは国家維持の成否あい分かれ申すべく」 江藤新平、不在の中で佐賀征韓党党首に選ばれる 槇村正直らに有罪判決 [一葉1歳]
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明治7年(1874)1月 愛国公党結成 喰違の変 [一葉2歳]
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明治7年(1874)1月17日~28日 民撰議院設立建白書提出 江藤新平、伊万里に上陸 [一葉2歳]
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明治7年(1874)2月 佐賀の乱勃発 台湾蕃地処分要略 [一葉2歳]
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明治7年(1874)3月 「明六雑誌」創刊 [一葉2歳]
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明治7年(1874)3月1日~30日 江藤新平、鹿児島で西郷隆盛と会談、土佐で捕縛 台湾領有意図「フォルモサ島(台湾)の一部を日本に併す」 [一葉2歳]
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明治7年(1874)4月1日~9日 台湾遠征軍総司令官西郷従道、品川進発 江藤新平ら処刑 [一葉2歳]
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明治7年(1874)4月10日~28日 土佐に立志会結成 米英が日本軍の台湾出兵に反対 [一葉2歳]
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明治7年(1874)5月1日~23日 西郷従道の台湾遠征軍、台湾に上陸 植木枝盛(17歳)、土佐で活動開始 [一葉2歳]
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明治7年(1874)6月 鹿児島に私学校創設 病死者続出の台湾遠征軍「・・・目も当てられぬ有様、戦わずして全軍の気沮喪・・・」 [一葉2歳]
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明治7年(1874)6月14日~7月31日 台湾問題解決に償金説浮上 大隈は開戦主張 シッティング・ブルとクレージー・ホースはインディアン連合軍を組織 [一葉2歳]
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明治7年(1874)8月10日~9月3日 参議大久保利通、岩倉の変心により台湾問題交渉で清国派遣全権弁理大使に任命される [一様2歳]
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明治5年(1872)1月~3月 「学問のすすめ」出版 島崎藤村誕生 樋口一葉誕生 [一葉0歳]
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明治5年(1872)4月~5月 江藤新平が初代司法卿に就任 施し厳罰の布告 天皇の西日本巡幸 琉球併合が議論される [一葉0歳]
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明治5年(1872)6月~7月 マリア・ルーズ号事件 鷗外(10歳)上京 西郷隆盛、山県有朋を救い、参議兼元帥兼近衛都督となる
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明治5年(1872)8月~9月 学制発布「・・・邑ニ不学ノ戸ナク家ニ不学ノ人ナカラシメン・・・」 琉球藩設置 初めての軍艦の海外派遣 [一葉0歳]
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明治5年(1872年)10月~12月 人身売買禁止と芸妓・娼妓・前借金による年季奉公人の無償解放 富岡製糸場操業開始 リゼンドルの台湾平定軍事作戦計画 太陽暦採用 国立銀行条例 徴兵告諭 山城屋和助事件 大分県中4郡一揆 [一葉0歳]
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明治6年(1873年)1月 農民暴動の頻発 太政大臣三条実美の岩倉具視への手紙(島津久光問題、大蔵省問題、台湾問題、朝鮮問題) [一葉1歳]
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明治6年(1873)1月 司法卿江藤新平、大蔵省の予算削減に抗議して辞表提出 [一葉1歳]
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明治6年(1873)2月~3月 高島炭鉱暴動 星亨(22)横浜税関次長就任 植木枝盛(16)上京 与謝野鉄幹誕生 外務卿福島種臣清国派遣 新旧公債発行条例 陸軍少佐樺山資紀ら清国・台湾・朝鮮・満洲調査 [一葉1歳]
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明治6年(1873)3月5日 越前護法大一揆(越前真宗門徒の大決起) 大野・今立・坂井3郡下で勃発 [一葉1歳]
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明治6年(1873)年3月 新次郎魚代渋事件 朝鮮で反三井の空気強い 陸軍大輔山県有朋辞職 左院議長後藤象二郎・司法卿江藤新平・文部卿大木喬任、参議に任命 島津久光、鹿児島士族率い上京 [一葉1歳]
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明治6年(1873)5月 ウィーン万国博開催 太政官職制改正(「潤色」) 大蔵大輔井上馨・大蔵省三等出仕渋沢栄一、辞表提出 プロイセン5月諸法 1873年世界恐慌 [一葉1歳]
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明治6年(1783)5月26日~31日 大久保利通、欧米視察より帰国 小野組、京都裁判所へ「難渋御訴訟」 [一葉1歳]
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明治6年(1873)年6月 第一国立銀行創立 京都裁判所、小野組転籍受理 筑前竹槍一揆 副島全権、単独で清朝皇帝謁見 名東県一揆 [一葉1歳]
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明治6年(1873)年7月1日~26日 朝鮮問題の閣議決定 木戸孝允、帰国 井上救済に動く [一葉1歳]
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明治6年(1873)7月28日~31日 「地租改正令」公布 西郷の使節暴殺・開戦論 [一葉1歳]
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明治6年(1873)8月1日~3日 井上馨の尾去沢銅山事件 木戸の征台征韓反対意見 [一葉1歳]
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明治6年(1873)8月10日~17日 西郷の朝鮮派遣を閣議決定(「内決」) 西郷の「使節暴殺論」の真意は? [一葉1歳]
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明治6年(1873)8月19日~9月2日 京都府の長州閥、槇村正直救済のため木戸工作に暗躍 植木枝盛(16歳)、海南私塾退学 黒田清隆開拓次官、樺太出兵を建議 [一葉1歳]
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明治6年(1873)9月3日~9月15日 木戸、西郷派遣の閣議決定は「深慮に耐えず」と批判 岩倉・伊藤らの帰国 伊藤博文、薩長体制建直しに暗躍 [一葉1歳]
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明治6年(1873)9月16日~25日 木戸孝允、左半身不随となり伊藤博文が代理人を務める 木戸は京都府幹部を攻撃する司法省(江藤)に激怒
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明治6年(1873)9月26日~30日 三条・岩倉・黒田・伊藤の説得にもかかわらず大久保は参議就任を固辞 司法大輔福岡孝弟ら司法省幹部、進退を賭けて三条太政大臣に上申 [一葉1歳]
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明治6年(1873)10月1日~8日 伊藤博文の朝鮮使節利用による井上・槇村救済戦略 大久保利通、参議就任を承諾 [一葉1歳]
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明治6年(1873)10月9日~14日 大久保利通・副島種臣参議就任 14日の閣議は朝鮮使節派遣の結論を持ち越す [一葉1歳]
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明治6年(1873)10月15日 西郷朝鮮派遣めぐり閣議 西郷は「始末書」を提出して欠席 西郷派遣決定 大久保利通の延期論破れる [一葉1歳]
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明治6年(1873)10月17日~20日 大久保らが辞表提出 太政大臣三条実美の精神錯乱 大久保の「一の秘策」(岩倉の太政大臣代理就任を画策 [一葉1歳]
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明治6年(1873)10月21日~24日 明治6年10月政変(大久保のクーデタ)なる [一葉1歳]
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明治6年(1873)10月25日~28日 朝鮮の崔益鉉、大院君弾劾上疏を呈出 槇村正直の拘留を解く「特命」 大久保書簡「旧参議にたいし御申し訳あるまじ」 [一葉1歳]
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明治6年(1873)11月1日~4日 大久保利通「立憲政体に関する意見書」 井上馨、伊藤博文に利権を無心 李氏朝鮮の高宗新政開始 大院君失脚 [一葉1歳]
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明治6年(1873)11月5日~15日 内務省設置(初代内務卿大久保利通) 西郷の帰郷 ボアソナアド、横浜に到着 [一葉1歳]
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明治6年(1873)11月17日~末日 家禄税創設決定 木戸は不満 [一葉1歳]
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明治6年(1873)12月 大久保、政権維持を憂慮「来年二月頃まではは国家維持の成否あい分かれ申すべく」 江藤新平、不在の中で佐賀征韓党党首に選ばれる 槇村正直らに有罪判決 [一葉1歳]
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明治7年(1874)1月 愛国公党結成 喰違の変 [一葉2歳]
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明治7年(1874)1月17日~28日 民撰議院設立建白書提出 江藤新平、伊万里に上陸 [一葉2歳]
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明治7年(1874)2月 佐賀の乱勃発 台湾蕃地処分要略 [一葉2歳]
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明治7年(1874)3月 「明六雑誌」創刊 [一葉2歳]
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明治7年(1874)3月1日~30日 江藤新平、鹿児島で西郷隆盛と会談、土佐で捕縛 台湾領有意図「フォルモサ島(台湾)の一部を日本に併す」 [一葉2歳]
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明治7年(1874)4月1日~9日 台湾遠征軍総司令官西郷従道、品川進発 江藤新平ら処刑 [一葉2歳]
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明治7年(1874)4月10日~28日 土佐に立志会結成 米英が日本軍の台湾出兵に反対 [一葉2歳]
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明治7年(1874)5月1日~23日 西郷従道の台湾遠征軍、台湾に上陸 植木枝盛(17歳)、土佐で活動開始 [一葉2歳]
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明治7年(1874)6月 鹿児島に私学校創設 病死者続出の台湾遠征軍「・・・目も当てられぬ有様、戦わずして全軍の気沮喪・・・」 [一葉2歳]
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明治7年(1874)6月14日~7月31日 台湾問題解決に償金説浮上 大隈は開戦主張 シッティング・ブルとクレージー・ホースはインディアン連合軍を組織 [一葉2歳]
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明治7年(1874)8月10日~9月3日 参議大久保利通、岩倉の変心により台湾問題交渉で清国派遣全権弁理大使に任命される [一様2歳]
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東京 江戸城の石垣の刻印 小石川後楽園 田安門
徳川幕府は江戸城を核とした江戸という都市の構築に際して、全国の大名にそれぞれ土木工事を負担させました。
それには各大名の経済力を減殺させるという目的もあります。
江戸城の濠や石垣構築に際しては、各藩はその担当範囲を示すためた、石垣に自分たちの藩の目印、マーキングをしたようで、これが今も残っています。
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これまで
①竹橋付近と清水門付近の石垣刻印
②北桔橋門付近の石垣刻印
をご紹介してきました。
(後世の、いたずら、落書きの類も混ざっているかも知れません。
但し、②は全く手の届かない場所ですので、その危惧はないと思います。)
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▼小石川後楽園に残る石垣刻印
後楽園はもともとは水戸徳川家のものでしたが、公園化する際に、江戸城の内濠にあった石垣を移築したとのことで、その石垣に刻印が残っています。
「山」は、備中成羽藩山崎家を表わしているとのこと。
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▼田安門の枡形の内側にも少しですが、刻印が残っています。
その意味は不詳です。
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「★東京インデックス」 をご参照下さい。
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その他、平川橋のぎぼし(擬宝珠)には、工事を担当した棟梁の名が彫られていて、それが現存しています。
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それには各大名の経済力を減殺させるという目的もあります。
江戸城の濠や石垣構築に際しては、各藩はその担当範囲を示すためた、石垣に自分たちの藩の目印、マーキングをしたようで、これが今も残っています。
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これまで
①竹橋付近と清水門付近の石垣刻印
②北桔橋門付近の石垣刻印
をご紹介してきました。
(後世の、いたずら、落書きの類も混ざっているかも知れません。
但し、②は全く手の届かない場所ですので、その危惧はないと思います。)
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▼小石川後楽園に残る石垣刻印
後楽園はもともとは水戸徳川家のものでしたが、公園化する際に、江戸城の内濠にあった石垣を移築したとのことで、その石垣に刻印が残っています。
「山」は、備中成羽藩山崎家を表わしているとのこと。
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▼田安門の枡形の内側にも少しですが、刻印が残っています。
その意味は不詳です。
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「★東京インデックス」 をご参照下さい。
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その他、平川橋のぎぼし(擬宝珠)には、工事を担当した棟梁の名が彫られていて、それが現存しています。
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