2009年12月23日水曜日

★治承4年記インデックス

★治承4年記インデックス
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治承4年記(1)
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治承4年記(2) 「明月記」の始まり
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治承4(1180)年記(3) 大輪田泊築造~改修
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治承4(1180)年記(4) 大輪田泊修築
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治承4(1180)年記(5) 滝口入道、厳島参詣
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治承4(1180)年記(6) 高階栄子 平頼盛
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治承4(1180)年記(7) 源三位頼政、叛乱を説く 「源氏揃」
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治承4(1180)年4月9日(2)源三位頼政、叛乱を説く 「源氏揃」(2)
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治承4(1180)年4月9日(3) 以仁王(高倉宮)
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治承4(1180)年4月9日(4) キー・パーソン八条院暲子
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治承4(1180)年4月11日~27日 源行家、以仁王の令旨を諸国源氏に伝達
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治承4(1180)年4月29日~5月10日 京につむじ風 熊野の別当湛増、以仁王の叛乱を清盛に通報 清盛、上洛す
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治承4(1180)年5月14、15日 検非違使、高倉殿に向う。以仁王、三井寺へ逃亡。長谷部信連、奮戦す。(その1)
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治承4(1180)年5月15日 「信連合戦」。 長谷部信連、奮戦す(その2) 
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治承4(1180)年5月16日 以仁王の若宮、捕らわる。 宗盛、三井寺の王への強い支持を知る。
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治承4(1180)年5月18日~23日 三井寺、反平家の行動を呼掛ける。「山門牒状」「南都牒状」。 源三位頼政挙兵。
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治承4(1180)年5月21日夜 頼政挙兵 とり残された競の復讐譚
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治承4(1180)年5月23日 三井寺衆徒の六波羅夜討ち 「永僉議」「大衆揃」(「平家物語」巻4)
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治承4(1180)年5月26日 宇治川の戦い 源頼政自害 以仁王、奈良へ落ちる途上で敗死
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治承4(1180)年5月26日 「橋合戦」(「平家物語」巻4)ー(1)
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治承4(1180)年5月26日 「橋合戦」(「平家物語」巻4)ー(2)
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治承4(1180)年5月26日 「宮御最期」(みやのごさいご)(「平家物語」巻4)
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治承4(1180)年5月26日~30日 清盛上洛 興福寺・三井寺への制裁は慎重論が主流 遷都が突然決まり、「上下奔走、周章、女房或いは悲泣の気色有り」
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治承4(1180)年6月2日 福原遷都 「入道相国、人臣の身としてうつされけるぞおそろしき」(「平家物語」)
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治承4(1180)年6月7日~19日 三善康信、 頼朝に頼政挙兵の顛末を報告
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治承4(1180)年6月20日~27日 頼政、源氏を召集 挙兵準備を打ち合わせる
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治承4(1180)7月 旱魃と疫病の流行(養和の飢饉の前触れ) 頼朝、伊豆走湯山住職に挙兵決心を打ち明ける
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治承4(1180)年8月9日 佐々木定綱、大庭景親らの頼朝追討の動きを頼朝に伝える。 京都は荒果て、「月の光は隈無くて秋風のみぞ身にはしむ」
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治承4(1180)年8月17日 佐々木兄弟参着 頼朝(34歳)挙兵 山木合戦(伊豆の目代、山木兼隆を急襲し倒す)
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治承4(1180)年8月19日~22日 頼朝の「関東事施行の始め」(吾妻鏡) 関東の46武将、頼朝に従い土肥郷に入る
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治承4(1180)年8月23日 石橋山の合戦 頼朝、大庭景親に敗れる
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治承4(1180)年8月24日 頼朝は椙山(杉山)の鵐窟(しとどのいわや)に隠れる。追手の梶原景時はこれを見逃す。
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治承4(1180)年8月24日~25日 小坪合戦(由比ヶ浜の合戦)。平氏方の畠山重忠破れる。甲斐源氏挙兵。波志田(シハダ)合戦
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治承4(1180)年8月26日~29日 衣笠城の合戦。三浦義明(89歳)奮戦討死。福原では未だに遷都や大嘗会の議論が蒸し返される。
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治承4(1180)年9月1日~3日 「紅旗征戎、非吾事」(「明月記」) 謀反から内乱へ転化 「謀反の賊義朝の子、・・・近日凶悪を事とし、・・・宛も将門の如しと・・・」(「玉葉」)
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「紅旗征戎、非吾事」(「明月記」)と堀田善衛
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「明月記」以前の藤原定家 定家の兄弟姉妹 「明月記」の始まりのことなど
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承4年(1180)9月3日 頼朝の房総再起 関東武士団に参向を促す
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治承4年(1180)9月4日 頼朝の房総再起 上総介広常の許に和田義盛を、千葉介常胤の許に安達盛長を派遣して参向を命じ
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治承4年(1180)9月5日~7日 源義仲(27)の信濃挙兵
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治承4年(1180)9月7日~9日 関東反逆に対し追討軍派遣を詮議
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源三位入道頼政というひと 1. 人物概観
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源三位入道頼政 2.「平家物語」にいう挙兵動機
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源三位入道頼政 3.弓矢のほまれ 「鵼(ぬえ)退治」(1) 
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源三位入道頼政 3.弓矢のほまれ(「鵼退治」)(2)
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京都のいしぶみ 鵼池 鵼大明神
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保元の乱(1) 藤原頼長の孤立深まる 後白河天皇即位
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保元の乱(2) 追い詰められた崇徳・頼長、兵を挙げ敗れる
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2009年12月20日日曜日

京都 寺町通りを歩く(4) 京都市役所 梶井基次郎「檸檬」の「八百卯」 藤原定家の京極邸跡 「本因坊」発祥の地

四条の新京極から新京極通りや寺町通りをアチコチしながら、三条通りで「三条通りを歩く」と合流し北上。
前回で寺町御池通りまで来ていました。
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寺町御池の北東角に京都市役所。
第一期が昭和2年、第二期が昭和6年の竣工。設計は武田五一(Wikiご参照)
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御池通りから北上する寺町通は、骨董屋さん、お茶や茶道具屋さん、書道関係の道具屋さんが連なる。
二条寺町の東南角には、梶井基次郎「檸檬」に出てくる果物屋さん「八百卯」があったが、今年の1月に閉店された。
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「その果物屋は私の知っていた範囲で最も好きな店であった。其処は決して立派な店ではなかったのだが、果物屋固有の美しさが最も露骨に感ぜられた。・・・店頭に点けられた幾つもの電燈が驟雨のように浴せかける絢欄は、周囲の何者にも奪われることなく、肆(ホシイママ)にも美しい眺めが照し出されているのだ」
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主人公はレモンをひとつ買って丸善に行く。
「丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛て来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなに面白いだろう」
と想像する。
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八尾卯さんは閉店され、そして、丸善は巨大なカラオケビルに変貌した。
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藤原定家の京極邸跡
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このHPに詳しい説明があります。
寺町通りのこと、先にご案内しました冷泉家のことなどについても詳しい。
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定家の京極邸跡近くに「本因坊」発祥の地の看板
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創業が享保年間という一保堂茶舗。
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「★京都インデックス」をご参照下さい。
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★織田信長インデックス

★信長インデックス
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天正10年6月 信長の最期 「人間五十年 下天の内にくらぶれば 夢幻の如くなり・・・」 光秀、燃え尽きる
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天文3(1534)年信長誕生と父信秀
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天文3(1534)年信長誕生と父信秀(2)
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天文3(1534)年 信長1歳
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天文4(1535)年 [信長2歳]
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天文5(1536)年(1) [信長3歳]
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天文5(1536)年(2) [信長3歳]
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天文5(1536)年(3) 天文法華の乱 [信長3歳]
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天文5(1536)年(4) 大内義隆の筑前支配 [信長3歳]
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天文6(1537)年 今川義元、信玄と同盟。北条氏綱、駿河侵攻。[信長4歳]
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天文7(1538)年 第1次国府台の戦い [信長5歳]祖父信定没す
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天文8(1539)年 三好長慶、父の仇敵細川晴元に一旦は従う [信長6歳]
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天文9(1540)年 尼子氏南下、毛利氏と死闘を続ける。 イエズス会認可。 クロムウェル処刑。 [信長7歳]
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天文10(1541)年 武田信玄の父信虎追放クーデタ カルヴァンによるジュネーブの宗教改革 木沢長政、細川晴元に叛旗 [信長8歳]
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天文11(1542)年 大平寺の戦い(木沢政長討死) 武田信玄の諏訪・伊那侵攻 小豆坂の合戦(義元敗れる) 家康誕生 [信長9歳]
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天文12(1543)年 顕如誕生 織田信秀と尾張一向衆の対立 大内軍、出雲より撤退 コペルニクス「地動説」 鉄砲伝来 越中大乱 [信長10歳]
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天文13(1544)年 利休の茶事での初見 京都で大洪水 織田信秀、美濃に侵攻して敗れる [信長11歳]
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天文14(1545)年 信玄の再度の伊那侵攻 三条町の相論 第2次河東一乱(義元、駿東・富士2郡を回復) 織田信秀の三河進出 [信長12歳]
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天文15(1546)年1月~6月 信長元服、那古野城を譲られる。 河越夜戦(氏康の武蔵支配確立)。 [信長13歳]
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天文15(1546)年7月~12月 将軍義晴の勢力挽回、義輝を第13代将軍とする。 [信長13歳] 
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天文16(1547)年1月~6月 信長初陣 イヴァン雷帝即位 ヘンリ8世没 フランソワ1世没 勘合貿易終了 信玄家法制定 [信長14歳]
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天文16(1547)年7月~12月 舎利寺の戦い(三好長慶、畿内支配者となる) アンリ2世戴冠式 松平竹千代(家康、6歳)、謀略により織田信秀のもとに連れ去られる 織田信秀、美濃攻めで大敗 [信長14歳]
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天文17(1548)年1月~5月 上田原の戦い(信玄敗れる) 第2次小豆坂合戦(織田信秀、今川義元に敗れる) 朝倉義景(16)家督相続 ペルー内乱終結 三好長慶、政長を攻撃(晴元と決定的対立) [信長15歳]
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天文17(1548)年6月~12月 塩尻峠の戦い(信玄、小笠原氏を潰滅させる) 三好長慶、晴元に叛籏 信長(15)と濃姫の婚約 [信長15歳]
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天文18(1549)年1月~2月 信長(16)と濃姫(15)の婚儀 濃姫の生涯概観 [信長16歳]
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天文18(1549)年3月~6月 松平広忠(家康父)暗殺 鉄砲が初めて京都に出現 鉄砲の実戦使用(薩摩) ケットの乱 [信長16歳]
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天文18(1549)年6月~12月 江口の戦い(細川晴元政権崩壊) フランシスコ・ザビエル(44)、鹿児島上陸 織田信広と松平竹千代(家康)の人質交換 [信長16歳]
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天文19(1550)年1月~4月 大友二階崩れの変(義鎮が家督相続) 長尾景虎(21、謙信)、越後守護となる 北條氏康の税制改革 [信長17歳]
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天文19(1550)年8月~12月 バリャドリード論争 毛利元就、毛利・小早川・吉川の結合を強化 戸石崩れ(武田晴信敗れる) 義輝の中尾城陥落 ザビエル、京都・堺を訪問 [信長17歳]
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天文20(1551)年 蠣崎氏とアイヌと講和 京都町組の自検断の終末 幕府政所執事伊勢貞孝、三好長慶に内応し帰京 [信長18歳]
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天文20(1551)年3月~5月 ザビエル、山口入り 日本人修道士ロレンソ誕生 三好長慶暗殺未遂事件 遊佐長教暗殺 真田幸綱、戸石城を攻略 [信長18歳]
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天文20(1551)年6月~12月 相国寺焼亡 長尾景虎(謙信、22歳)、越後を掌握 陶隆房謀叛 フランシスコ・ザビエル離日 [信長18歳]
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本能寺の変(1) 天正10年(1582)4月 快川紹喜焼死 信長、甲斐より凱旋 三職推任勅使派遣
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本能寺の変(2) 天正10年(1582)5月1日~15日 三職推任勅使、安土到着 秀吉、清水宗治の備中高松城水攻め開始 長宗我部氏攻撃の四国方面軍編成
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本能寺の変(3) 天正10年(1582)5月17日~29日 秀吉の高松城水攻め完了 信長上洛 信忠上洛 光秀の愛宕百韻 信孝の四国方面軍大坂に集結
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本能寺の変(4) 天正10年(1582)6月1日 「変」前日、信長は京都で、家康は堺で茶会 九十九茄子の運命
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本能寺の変(5) 天正10年(1582)6月1日~2日 光秀謀叛 本能寺襲撃
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本能寺の変(6) 天正10年(1582)6月2日 「信長公記」が描く本能寺の変
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本能寺の変(7) 天正10年(1582)6月2日 明智軍に従軍した武士が記録する本能寺の変 「寛永十七年本城惣右衛門自筆覚書」 
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本能寺の変(8) 天正10年(1582)6月2日 宣教師ルイス・フロイスが記録する本能寺の変
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本能寺の変(9) 天正10年(1582)6月2日 織田信忠、二条御所で奮戦す。 黒人の従者野介、本能寺から駆け付ける。 
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本能寺の変(10) 天正10年(1582)6月2日 フロイス「日本史」が記録する 二条御所の戦い 残党掃討 光秀出京。 信長のサウナ遺構を発見
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本能寺の変(11) 天正10年(1582)年6月2日 家康は帰国すべく宇治田原に向う 大坂の信孝は石山に籠城 信澄を謀殺(5日)
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本能寺の変(12) 天正10年(1582)6月2日 見捨てられる安土城 筒井順慶は光秀に与する 細川父子は備中から引き返す 光秀軍は近江に向う
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本能寺の変(13) 天正10年(1582)6月2日 山岡景隆、瀬田橋を焼く。伊勢の信雄は明智を牽制。「信長父子の悪逆は天下の妨げ、討ち果し候。」(光秀の勧降工作状) 「信長公阿弥陀寺由緒之記録」のことなど
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本能寺の変(14) 信長の京都の宿所の移りかわり 妙覚寺 相国寺 二条御新造 本能寺 義昭の二条御所について
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本能寺の変(15) 光秀謀反の動機 「野望説」「怨恨説」「黒幕説」な
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本能寺の変(16) 光秀謀反の動機  「野望説」「怨恨説」「黒幕説」など(その2)
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本能寺の変(17) 明智光秀という人 「・・・裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的で・・・謀略を得意とし、忍耐力に富み、経略と策謀の達人・・・」(フロイス)
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天文21(1552)年 管領上杉憲政、越後守護代長尾景虎(謙信)を頼る 足利義輝と三好長慶との和議成立 織田信長(19)、家督を継ぐ [信長19歳]
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天文21(1552)年4月~5月 赤塚の戦い バッサウの和成立 [信長19歳]
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天文21(1552)年6月~8月 祇園祭で喧嘩 京の町衆の風流踊が賑う 信長の萱野の戦い [信長19歳] 
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天文21(1552)年9月~12月 将軍義輝・三好長慶の和議破綻 ザビエル(46)、マカオで病没 [信長19歳]
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天文22(1553)年1月~閏1月 甲相同盟成立 平手政秀(62)諌死 三好長慶、将軍足利義輝と和睦 [信長20歳]
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天文22(1553)年2月~3月 幕府政所執事伊勢貞孝、三好長慶に帰服 今川仮名目録追加21ヶ条制定 足利義輝と三好長慶との和睦が再度破綻 [信長20歳]
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天文22(1553)年4月~6月 武田信玄の更科・埴科郡への侵攻 織田信長(20)と斎藤道三との対面 [信長20歳]
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天文22(1553)年7月 三好長慶、高槻芥川城を居城とする 安食の戦い(成願寺の戦い) 武田信玄、塩田平を占領 細川晴元と将軍義輝の反長慶同盟 [信長20歳]
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天文22(1553)年8月~9月 三好長慶、畿内近国9ヶ国支配確立 第一次川中島の戦い 長尾景虎(24、謙信)、海路上陸 [信長20歳]
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天文22(1553)年10月~天文23年1月 ミシェル・セルヴェ火刑 信長の村木攻め 「すさまじき男、隣にはいややる人にて候よ」 [信長20歳]
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天文23(1554)年2月~4月 甲相駿三国同盟(善徳寺の会盟) 信長(21)の清洲城乗っ取り [信長21歳]
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天文23(1554)年5月~8月 京都北白川郷民が吉田郷を襲撃 震源の下伊那侵攻 三好長慶の播磨侵攻 [信長21歳]
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天文23(1554)年9月~12月 北條氏康、関東の実権掌握 信長、「上総介信長」を名乗る [信長21歳]
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天文24(1555)年1月~5日 播磨東2郡が三好長慶の勢力範囲に入る 松平竹千代(家康、14)、駿府府中の今川義元の館で元服 嘉靖の倭寇(倭寇、朝鮮全羅道を襲撃) 「(三好)長慶裁許状」発行 [信長22歳]
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天文24年(1555)6月~9月 信長一族の不慮の事故が続く 信玄の木曽侵攻(信濃のほぼ全域を掌握) 大友宗麟のイエズス会保護 アウグスブルクの宗教和議 [信長22歳]
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天文24年(1555)10月~12月 厳島合戦(陶晴賢破れる) 太原雪斎(60)没 武野紹鷗(54)没 信長、下四郡を手中にする [信長22歳]
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弘治2年(1556)1月~4月 毛利氏、周防山城一揆を鎮定 三河野原寺の戦い 斎藤義龍謀反 斎藤道三(63)敗死 [信長23歳]
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弘治2年(1556)5月~8月 稲生の戦い 織田信勝(信行)・林秀貞・林美作守(通勝)・柴田権六(勝家)謀反 [信長23歳]
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弘治2年(1556)9月 山科言継の駿河下向 [信長23歳]
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弘治2年(1556)9月~弘治3年1月 ハプスブルク家カール5世退位 信玄の上州蹂躙 家康結婚 [信長23~24歳]
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弘治3年(1557)2月 大内氏滅亡 島津氏の薩摩統一 第3回川中島の合戦 [信長24歳]
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弘治3年(1557)7月~12月 旱魃、飢饉、疾病流行、大洪水 三好長慶の丹波制圧 信長、弟信勝を謀殺 毛利元就「三人心持之事」 毛利氏の防長征服完成 [信長24歳]
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弘治4年(1558)1月~4月 「永禄」に改元 将軍義輝の反撃開始 スコットランド女王メアリー・ステュアート(15)とフランス皇太子フランソワ(17)との結婚 [信長25歳]
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永禄元年(1558)5月~7月 三好長慶と将軍義輝、勝軍山周辺で戦闘するも一旦和睦 信長の浮野の戦い  [信長25歳]
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永禄元年(1558)8月~12月 優勢に立つ三好長慶、将軍義輝と最終的和睦 [信長25歳]
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禄2年(1559)1月~2月 エリザベス1世即位 信長上洛 [信長26歳]
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永禄2年(1559)2月7日~4月26日 信長の岩倉城攻め 謙信の三度目の上洛 [信長26歳]
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禄2年(1559)5月~7月 三好長慶の河内侵攻 アンリ2世没  [信長26歳]
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永禄2年(1559)8月~9月 将軍義輝の新城建設 松永久秀、大和支配を任される [信長26歳]
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永禄2年(1559)10月~12月 本願寺顕如(17歳)、門跡に列する 宣教師ガスパル・ヴィレラ、京都で布教活動始める  [信長26歳]
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永禄3年(1560)1月~3月 三好長慶の京都支配の実質的終焉 富田林寺内都市成立の萌芽 [信長27歳]
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永禄3年(1560)4月~5月 桶狭間の戦い(1) 今川義元、大軍を率い進発 [信長27歳]
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永禄3年(1560)5月12日~19日 桶狭間の戦い(2) 信長、正面攻撃を敢行し義元を討つ [信長27歳]
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永禄3年(1560)5月20日~7月24日 松平元康(19歳)、13年ぶりに岡崎城に帰還 三好勢の河内攻め開始 [信長27歳]
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永禄3年(1560)8月2日~12月25日 上杉輝虎の上野進出、関東席捲の勢い フランス、オルレアンの「三部会」召集 [信長27歳]
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永禄4年(1561)1月17日~4月21日 織田信長・松平元康和睦 上杉謙信の小田原(北条氏)包囲 カトリーヌ・ド・メディシスの融和政策 [信長27歳]
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永禄4年(1561)5月1日~7月29日 信長の美濃攻め 森部の戦い 十四条・軽海の戦い [信長28歳]
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永禄4年(1561)8月1日~10月31日 宣教師ガスパル・ヴィレラの堺訪問 川中島4度目の激戦 家康の西三河平定 信長、美濃同洞城を陥落 [信長28歳]
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永禄4年(1561)11月2日~12月25日 武田信玄、北条氏康と呼応して西上野に本格的侵攻 [信長28歳]
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信秀/信長以前の織田氏(織田氏のルーツ)
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2009年12月19日土曜日

★横浜インデックス

★横浜インデックス
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秋の横浜に関する4コマ
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横浜 横浜公園 ブラントン像 日本大通り
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横浜 山手ゲーテ座
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横浜(みなとみらい昼と夜)
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横浜 中華街 恭喜発財
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横浜 旧横浜正金銀行本店
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横浜 ヘボン博士邸跡
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横浜 日本郵船歴史博物館
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横浜金沢文庫 称名寺の桜
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横浜みなとみらい ドックヤード 帆船日本丸
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「開国博」(4月28日~)について
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横浜 金沢八景 明治憲法起草の碑
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横浜 神奈川奉行所跡 日本ガス灯発祥地
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横浜 旧生糸検査所 旧富士銀行横浜支店
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横浜 山下公園通り ホテルニューグランド スパゲティナポリタン発祥地
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横浜 フランス山 フランス領事官邸跡 横浜米軍機墜落事件(愛の母子像)
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横浜 旧開港記念会館 町会所跡 岡倉天心生誕之地
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横浜 山手洋館(1) イギリス館 山手111番館 ゲーテ座
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横浜 外国人墓地 第一次世界大戦記念碑 生麦事件犠牲者の墓
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横浜 旧横浜正金銀行本店本館(再訪)
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横浜 旧東京海上ビル 旧川崎銀行ビル 馬車道のガス灯 日本写真開祖の碑 弁天通りの碑
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横浜 山手洋館(2) 山手聖公会 山手234番館 エリスマン邸 ベーリックホール カトリック山手教会 
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横浜 山手洋館(3) 外交官の家(明治43年、重文) ブラフ18番館(大正末) フェリス女子中高学校(昭和4年)
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オクトーバ・フェスト in よこはま赤レンガ倉庫
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横浜 山手洋館(4、終章) 日本庭球発祥之地 日本最初の洋式公園山手公園 旧山手68番館 山手資料館 ジェラールの瓦工場と水屋敷跡 我国塗装発祥之地記念碑
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横浜 金沢文庫 称名寺の桜 再訪
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横浜 三渓園(1) 重要文化財の建築物が公開中です
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横浜 三渓園(2) 新緑が大池に映える フジ ツツジ
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横浜 氷取沢(ひとりざわ)市民の森に行ってきました
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北の丸公園This Week(2009-12-19) 秋がゆき、冬がくる

年の瀬、忘年会、「人身事故」、派遣村・・・など、連想が続く。
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17日(木)、「人身事故」で東海道線ストップ。横須賀線はいつもの倍近い勤め人を乗せて走る。
花園さんの「陽月秘話」でも取り上げられていましたが、新聞が一行も報じないのも異常である。
「朝日」夕刊一面では「自殺」「自死」を連載。年間3万人超という。
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18日(金)、二日酔いで出勤。冴えわたる快晴。
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このところ気にはなっていたが、住人が消えたブルーシーツ。これは、竹橋右詰めの写真。
左詰めにも、お一人いた筈であるが、こっちも荷物が端のほうにきちんと片づけられていた。
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余りの快晴ぶりに、ちょっと遠回りした。
平川濠に、これは、双葉より芳しといわれる「せんだん」か?
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本当は濁っている牛が淵も空の青に染まる。
左側に屋根だけ見えるのは日本武道館。前日は、確か(?)「ヤザワ」で燃え上がったんじゃなかったかな。
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牛が淵の濠の端に多分、水仙だろう。
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この水仙は、清水門にあった。
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前首相のおじいちゃんの背後に、ブルーシーツといつもの「ふゆざくら」。
おじいちゃんの築いた「戦後日本」は・・・。
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公園の冬枯れの景色
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池の裏で見付けた。
よくある、さざんか、寒椿ではないが、何だかよくわからない。
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先日まではまだ黄金色に輝いていた銀杏の落ち葉であったが・・・。
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夕方。左上に三日月。
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秋が行き、冬が来る。
冬が来れば、春はそう遠くはない、と云う人もいるが・・・。
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「★東京インデックス」  「★四季のうつろいインデックス」をご参照下さい。
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天文19(1550)年8月~12月 バリャドリード論争 毛利元就、毛利・小早川・吉川の結合を強化 戸石崩れ(武田晴信敗れる) 義輝の中尾城陥落 ザビエル、京都・堺を訪問 [信長17歳]

天文19(1550)年 [信長17歳]
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8
・フランス、フレミング事件。モンモランシー仲介のアンリ2世の浮気発覚。
アンリ2世とレイディ・フレミングのサン・ジェルマン館での密会。現場で寵姫ディアンヌに発覚。
レイディ・フレミング:ジェーン・スチュアート、スコットランド王ジェームズ4世庶出娘。1548年メアリ・スチュアートと一緒にフランスに渡る。
アンリ2世とレイディ・フレミングの息子、アンリ・ド・ヴァロワ(アンリ・ダングレーム)はアンリ2世によって認知される。
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8月5日
・武田先手長坂虎房、出陣。19日、武田晴信、長窪に出陣。
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8月11日
・大友先発隊(小原鑑元・佐伯惟教ら)、大野城・大津山城を攻略。22日、戸次鑑連総大将の大友軍3万5千、肥後に進軍、各地で菊池勢を撃破。5万で隈本城を包囲、陥落。菊池義武は八代の相良氏をたより逃亡。
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8月14日
・足利義輝、甲賀豪士永原重興へ近江野洲郡内に知行を安堵(「保阪潤治氏所蔵文書」)。
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8月15日
バリャドリード論争。スペイン国王カルロス1世、「インディオを国王に服従させる方法を協議する」審議会召集。ラス・カサスと神学者ファン・ヒネス・デ・セプールベダ。
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8月25日
・山科言継、鴨上下社に参詣の途次賀茂山に登り、「いくち」という菌を採取(「言継卿記」同日条)。
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9月
・ザビエル、平戸より京都に着くが、11日間の滞在のみで平戸に戻り、翌年春、山口に赴く。
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9月2日
毛利元就、毛利・小早川・吉川の結合を強化
吉川家の反対勢力を完全に封じ込め、元春(22)を入城させる。27日、幽閉された吉川興経主従、布川で毛利元就が派遣した熊谷信直らに殺害。
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(経緯)
天文12年、吉川興経は、大内義隆が尼子氏居城月山富田城を攻撃した際、寝返って富田城に入る。
大内義隆は、吉川氏領地を毛利元就に預けるが、元就は興経の脱出を助けて旧領に復帰させる。
天文14年、吉川興経叔母で元就の妻妙玖、没。
天文15年、興経叔父経世ら吉川氏宿老が元就に対し次男元春の養子縁組を申し入れ。
天文16年、元就は、興経を毛利氏領内に移住させるなどの条件を追加して元春の養子縁組を承諾。
同年8月、興経、毛利氏領内布川(広島市安佐北区上深川町)に幽閉の形で隠居。
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9月2日
・細川晴元・将軍義輝、中尾城補強を計画。洛中洛外の各社寺領に竹の徴発を命じる。この徴発令に困惑した東寺側は松田盛秀を通じて幕府の「御城奉行衆」へ免除を愁訴。
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「東寺境内並びに門前地下中の薮役として、竹千五百本東山御城に至りこれを持ち進(マイラ)せらるべし。若し難渋に於いては異なる沙汰有るべきものなり。仍て件の如し。 
天文十九 九月二日 (松田)盛秀(花押) 東寺雑掌」(「東寺百合文書」)。
東山御城は中尾城を指すものと考えられる。
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9月9日
・武田晴信、村上義清の兵糧城戸石城攻撃。22日、村上義清、奥信濃高梨政頼と和睦、合同で武田方埴科郡寺尾城攻撃。28日、真田幸隆(幸綱)の援助で高梨連合隊を退却させる。晴信、戸石城を落とせず。
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9月15日
・陶隆房、大内義隆を襲撃しょうとして露見、周防に逃げる。
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9月21日
・[明・嘉靖29年8月11日]モンゴルのアルタン・ハーン、騎馬軍団を率いて北京を包囲。
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10月
・松永甚介長頼・今村紀伊守(慶満)、山城小栗栖で違乱する。
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10月1日
・武田晴信退却(戸石崩れ)。戸石城にて村上義清勢追撃に甚大な損耗。横田高松が討死。
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10月15日
・若狭遠敷郡稲積(今富)荘の12月・正月・2月の年貢(月充銭)、小浜の問丸が徴収し納入(「言継卿記」同日条)。
3月分以後は未進で、11月、若狭に下向している飛鳥井雅綱より書状では、3月分より5ヶ月分の150貫文を進納しようとあるが、10日余過ぎて届いた書状には、まず2ヶ月分(3・4月分60貫文)は進納するが、残りは調達しがたいと記されている(「言継卿記」11月13・26日条)。
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10月19日
・三好長慶による最初の段銭徴収。長慶被官芥川清正、桂川以西に段米賦課を行う旨、近隣農村に触れを出す。
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畿内に本貫地を持たない阿波国人が、京都周辺で長期に軍事力を維持するための財政基盤確立のため、朝廷・幕府・荘園領主とは独自に町屋から地子銭、農村から段銭を徴収。
このような臨時課役は荘園領主・町衆から抵抗を受け徴収不能となり、免除の代償として僅かの樽代・折紙銭で妥協せざるを得ず。
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10月20日
・中尾城の細川晴元の兵、鴨川辺まで進軍。三好軍の十河一存ら、中尾城付近の聖護院・北白川・鹿ケ谷・田中に放火して反撃。25日、三好長慶軍、細川晴元・六角連合軍と五条河原で交戦。(「言継卿記」)
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11月
・賀州三ヶ寺派、証如に赦免される。
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11月19日
・三好長慶勢力下の摂津・丹波・河内の軍勢4万、上洛。細川晴元勢を一掃。
長慶の中軍は、中尾城城下の北白川、吉田、岡崎の諸郷を焼掠。松永長頼(久秀の弟)ら、長慶の先鋒大将として山科から炭山・醍醐を通過して近江に進軍、志賀里・大津などに放火し、義輝軍の背後を脅かす。
21日、晴元・義輝ら、中尾城・瓜生山を焼き、坂本に戻り、急いで堅田に退却。三好方は、中尾城・北白川城の焼け残りあとを更に放火し、石垣等を破却。中尾城の城郭としての生命は僅か1年余の短命。
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「今暁(十一月二十一日)東山武家(義輝)の御城落つ。自火(ジカ)と云々。坂本へ奉公衆・細川(晴元)方各越きると云々。大樹(義輝)は堅田へ御座を移さるゝの由風聞。三好人数北白川以下に罷り向かう。一昨日の焼け残り又放火し乱妨すと云々。
(十一月二十三日)東山武家の御城、今日三好人数罷り越しわ(破)ると云々。御無念の次第なり。」(「言継卿記」)。
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12月
・上杉景虎(21、謙信)一族の長尾政景、坂戸城(南魚沼郡六日町)に立て篭り、謀反。(坂戸城の戦い)
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12月
・フランシスコ・ザビエル、堺を訪問
面倒をみたクドー(日比野了珪の父)は京都の小西隆佐に紹介したりするが、成果なく平戸に戻る(翌年10月、豊後からインドに戻る)。
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12月7日
・武田信玄嫡男太郎、元服、義信と称す。
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12月23日
・織田信長(17)、尾張密蔵院へ笠寺別当職は織田信秀判形の通りに、知行分の賽銭・開帳については寺内の裁量とするよう命令(「密蔵院文書」)。
この頃、信長が家督相続者の地位にあることを窺わせる。
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大正8年(1919)3月 三・一独立運動 宮崎滔天の「アジア主義」 教化運動の展開

東京は神田界隈を散歩して、「朝鮮独立宣言記念碑」のある韓国YMCA(旧在日本基督教会館)を訪れた関連で、予定をしていなかった大正8年2月の「黙翁年表」を掲載することになって、されば当然3月にも及ばなければこれは片手おちということで、今回は大正8年3月を。
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大正8年(1919)3月
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この月
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・陸軍、オムスクに特務機関(高柳保太郎)を設置。
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・陳独秀、北京大学辞職。翌20年初め、上海行き共産主義グループ結成。
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・「上海日日新聞」の「東京より」に見る宮崎滔天の「アジア主義」
日本が盟主のアジア主義ではなく、被抑圧民族の自決を前提としたアジアの連帯。
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しばしば朝鮮問題に言及。
2月8日東京朝鮮人学生の独立宣言発表以来、彼らの運動を、「尋常お祭り騒ぎと同一視すべきに非ず」とし(2月26日)、3・1運動勃発を聞き、「見上げたる行動」と評価し、その対策は「正義人道に根底せる最上の美徳」しかないが、これは「目下我国に払底の代物に候」と嘆く(3月8日)。
日本人の朝鮮人に対する侮蔑的感度とサーベル政治の軍国主義を非難し〈4月5、7日)、当面は日本人と、自由と権利において同等の待遇をし、「適当の時期に於て完全なる独立を承認する声明」を発せよと論じる(6月27日)。
9月斉藤新総督暗殺未遂事件に際しては、「完全なる独立自治を許して」、「亜細亜連盟の基礎を作る」ことよりほかに日本の進むべき道はないと主張(9月13日)。
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・神戸市議補選、立憲青年会副会長・医師田島唯三郎が、市選出国民党代議士野添宗三・友愛会神戸連合会法律顧問砂田重政らの応援のもとに、憲政会県議西見芳宏ら政憲両党の推す有力候補を予想外にも大差で破る。
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大戦中、金属労働者に劣らず小営業者、造船海運部門サラリーマン層が激増し、政治的自覚も高まる。田島は、川崎・三菱両造船所労働者も多く住む湊東区荒田町を拠点にし、友愛会神戸連合会は「労働者新聞」(3月15日)に田島推薦を打出す。
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・三菱新入炭鉱、朝鮮人坑夫騒擾事件。
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・岩出金次郎「日本労働新聞」発行。大阪。荒畑寒村、「A.K」の筆名で寄稿。
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岩出は貴金属商の家にうまれた船場のボンチで明治40年代からの荒畑らの同志。業界新聞(月刊)「時計と貴金属」を発行。「時計と貴金属」東京支局の橋浦時雄と協力して「労働新聞」を発行。創刊号では、資本家・労働者は切っても切れぬ深い仲の兄弟と協調主義で偽装し発行継続。12月からは、荒畑は本名を使う。堺・山川らも執筆。
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・加藤一夫ら、「労働文学」創刊(~1920年6月4日号)。
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・山田わか「母の生活をして余裕あらしめよー最小限度労銀法制定の必要」、与謝野晶子「婦人も参政権を要求す」(「婦人公論」)。
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・宮沢賢治(23)、帰郷。賢治は父の代理を務める一方、郡立農蚕講習所で土壌、肥料、化学などを講義。またこの年、浮世絵を蒐集。
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・小林多喜二(15)「呪われた人」(小樽高商校友会誌)。翌大正9年10月「石と砂」(同)。大正10年秋から志賀直哉に傾倒。
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・中野重治(17)、福井中学校卒業。9月、金沢の第四高等学校分科乙類に入学。
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教化運動の展開
この月、内務省の民力涵養運動、開始。人々を政府・市町村と協調的・調和的調運動に誘導しようとする。
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床次竹二郎内相は、「国体」観念とともに「立憲の思想」を強調し、「健全なる国家観念」と併せて「自治」「公共心」の育成をいい、伝統性・近代性を混在させる。だが、実践項目となると、後者の合理性に力点がおかれる。
「勤労の趣味」を助長し、「貯蓄の奨励」「時間を確守する方法」「能率増進の方法」、また「衣食住の改良」による「簡易生活」や「冠婚葬祭送迎」「娯楽」の改良が唱えられる(「内務省史」)。
国家により私生活領域の合理的改善が図られ、近代的な生活を営む「国民」育成が促される。
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・東京帝国大学、銀時計下賜を廃止。
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・平塚に海軍火薬廠設置。
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・~4月、ドイツ、ルール地方、中部独鉱山地帯、ハレ、ライプツィッヒ等諸都市で労働者協議会が地方政治掌握。政府組織の義勇軍により鎮圧。
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・ソ連、労農監察委員会(RKI、ラブクリン)創設。委員長スターリン。
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・ベオグラードでユーゴ憲法制定議会。中央集権か連邦かの論争。
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・アメリカ、「リベレター」誌創刊。1922年共産党機関紙。
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3月1日
三・一独立運動
崔南善起草独立宣言文、2万1千印刷。民族代表29人(署名者中4名欠席)韓式料亭「泰和館」2階で読上げ後、警務総監邸に電話、自首。
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パゴダ公園等全土(宣川、平壌、元山)で独立要求デモ。136万参加。5月末迄、参加202万余。死者7,509、負傷1万余、逮捕4万余
(総参加者136万、死者6,760、投獄5万2,730との数値もあり)。
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平安南道、平壌で1万人。10日間で30ヶ所で騒擾。沙川では憲兵4死亡。
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この日早朝より学生らパゴダ公園に集合。中学生も主に第3学年以上の上級生に、本日朝鮮人は独立を宣言する、独立万歳を叫ぼうと呼びかけ、午後の休みにパゴダ公園に行くよう手配されている。
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正午頃、崔麟より計画変更となり独立宣言式は、午後2時より明月館の支店「泰和館」で挙行との連絡。学生リーダが協議をして予定通りの式を始めようとしたところ、黄海道海州生れの鄭在鎬(鎔)が独立宣言書の朗読を始める。
朗読終了後、6千余が万歳を叫び、鐘路へ、鐘路から一隊は光化門へ、もう一隊は南大門に向う。
のち、徳寿宮の大漢門から中に突入。また、南山の総督府にもおしかける。
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この日のソウルのデモ隊に合流した一般市民は数十万(60万)という。
この日のみで学生130余が検束されるが、示威行進は暴力行為も無く、取り締まり側も発砲もなく軍の出動もなし。
長谷川総督・山県総監・児島警務部長・古見憲兵司令官・宇都宮朝鮮軍司令官らは、京城は葬儀終了までは強硬弾圧はしない、但し、地方は容赦なく取り締まるとの方針を固める。
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「われらはここにわが朝鮮の独立と、朝鮮人民の自由民たることを宣言する」
「含憤蓄怨の二千万人民を威力をもって拘束することは、東洋永遠の平和を保障する所以でない。のみならず、これによって東洋安危の主軸たる四億万中国人民の、日本にたいする危懼と猜疑とをますます濃厚ならしめ、その結果として、東亜全局の共倒と同亡の非運とを招くことは明白である」
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陸軍省発表による「経過」 (適宜改行を施す)
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①京畿道。
「三月一日約三、四千名ノ学生ハ予定ノ通リ「パゴダ」公園ニ集合シ独立宣言書ヲ朗読シ示威運動ヲ開始スルヤ群衆之ニ附加シ其数数万ニ達シ市中ヲ練リ廻リシカ
当日李大王国葬拝観ノ為地方ヨリ入京中ノ者数十万ニ達シ混雑名状スヘカラス依テ総督ハ軍隊ヲシテ警務官憲ヲ援助シ治安ノ維持ニ務メシ為二月中旬末ニ至ル迄ハ表面概ネ静穏ヲ維持シタルカ
三月下旬ニ至リ
市内各所及京城近郊ノ郡部ニ騒擾続発シ従来ノ示運動ハ漸次悪化シ京城市中ニ於テハ電車ニ投石乗客ヲ脅迫シ又ハ管官派出所ヲ襲ヒ投石暴行又ハ之ヲ破壊シ警官ノ制止ヲ肯セス頑強ニ抵抗ヲ試ムル為官憲側卜衝突シ彼我多少ノ死傷ヲ生スルニ至レリ。
郡部ニ於テモ二十一日以後八〇余箇所ニ騒擾勃発シ或ハ憲兵、警察官署、郵便所、面事務所ヲ襲ヒ又ハ内地人民家ニ放火スル等暴行ヲナシタルモノ少カラス就中暴民ノ最モ暴行ヲ逞フセシハ水原、安城地方ニシテ放火破壊ハ勿論内地人巡査一名ヲ虐殺スル等兇暴ノ度本月ニ於ケル騒擾ヲ通シ稀ニ見ル所ナリ」
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②忠清北道。
十日清州学校生徒ノ騒擾ニ始マリ一〇郡中ノ四郡数箇所ニ於テ騒擾シ京畿道ニ於ケル暴民ノ範ニ倣ヒ二、三箇所ニ於テハ官憲ニ抵抗スルニ至レリ」
四月上旬ニ於テ京畿道騒擾ノ余波ヲ受ケ殆ント全郡ニ互リテ騒擾頻発シ破壊放火等ノ暴行亦少カラサリシモ中旬ニ至りテ概シテ表面終熄スルニ至レリ」
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③忠清南道。
十日論山郡江景ニ騒擾勃発シ次テ他ノ二〇余箇所ニ騒擾ヲ惹起シ或ハ兇器ヲ携へ憲兵駐在所ヲ襲ヒ銃器ヲ奪取セント企テ又電線ヲ切断シ其他警察署ノ破壊ヲナス等ノ暴行ヲナセリ」
四月上旬ニ於ケル騒擾ハ京畿道郡部ニ次テ狂暴ヲ極メ各種官公署学・・・」
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④全羅北道。
「数箇所ニ於テ運動ヲ企テシモ薬樹ニ於テ暴民カ警察官駐在所及面事務所ニ押寄せ暴行セシ外執レモ大患ニ重ラス」
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⑤全羅南道。
「五箇所ニ於テ九回ニ亙り示威運動ヲナシタルノミニテ何レモ大事ニ至ラスシテ鎮静セリ」
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⑥慶尚北道。
「八日大邸ニ於ケル学生ノ示威運動ニ始マリ各地ニ派及シ十一日以降二〇余箇所ニ騒擾勃発シ就中安東、盈徳、義城及青松郡内ニ於テハ暴民狂暴ヲ逞フシ頑強ニ抵抗シ殊ニ安東ニ於テハ郡庁、法院支庁、警察官駐在所ヲ襲ヒ投石暴行又ハ破壊ヲ試ムル等ノ行為アリ」
「三月中ニ於ケル激烈ナル暴動余波ヲ受ケ四月中ニ於テハ前半箇月間ハ尚各地ニ騒擾続発シタルモ後半箇月間ニ於テハ概ネ平穏ニ帰セリ」
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⑦慶尚南道。
十一日釜山鎮ニ於ケル耶蘇教学生ノ示威運動ニ始マリ二〇余箇所ニ騒擾ヲ惹起シ郡庁、警察官駐在所、郵便所、登記所、面事務所、学校等ヲ襲ヒ之ヲ破壊スル等暴行ヲ逞フセルモノ少カラス」
四月中南鮮ニ於テ最モ頻発シタルハ本道ニシテ前半箇月ハ素ヨり後半箇月ニ至ルモ続発シ其手段ニ於テモ棍棒又ハ竹槍ヲ携へ或ハ銃器ヲ奪去スル等多クハ悪性ヲ帯ヒ猖獗ヲ極メタルモノ多シ
就中警察官駐在所憲兵駐在所其他ノ官庁ヲ襲撃又ハ破壊セルモノ一〇箇所ニ重ントシ又犯罪被告人ノ押送ノ途中ヲ扼シテ妨害ヲ加フル等ノ為鎮撫ニ際シテ特別ノ手段ヲ採ルノ已ムヲ得サルニ至レル箇所少カラス」
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⑧黄海道。
二日天道教徒ヲ主トスル多数ノ暴民黄州警察署ヲ襲ヒタルニ始マリ三〇余箇所二騒擾勃発シ就中遂安二於テハ暴民一〇〇余名都庁憲兵分隊ヲ引渡スヘシト称シ憲兵分隊構内ニ殺到シ暴行ヲナシ其他各所二於テ憲兵官署ニ来襲シ狂暴ヲ逞フセルモノ少カラス」
四月中ニ於テハ前半箇月ハ殆ント毎日ノ如ク続発シ道内各郡ニ弥蔓シ其発生件数モ全鮮ノ首位ヲ占メ就中七日、八日ノ両日ニ於テハ騒擾箇所数一七箇所ニ上レリ
暴行ノ箇所亦頗ル多ク警察官又ハ憲兵駐在所ヲ襲ヒタル者ノミニテモ二〇箇所ノ多キヲ算シ暴動ノ地域件数ハ勿論其手段ニ於テモ京畿道郡部卜並ヒ実ニ全道ニ冠タリ」
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⑨平安南道。
「本道ハ今回騒擾ノ主謀着タル耶麻教及天道教ノ勢力最モ旺盛ナル関係上各地共密接ナル連絡アリシカ如ク一日ヨり一〇日間ニ於テ三〇余箇所二騒擾アリタリ
而シテ其狂暴京畿道郡部ニ譲ラサルモノアリ就中成川ニ於テハ暴民数百棍棒、鎌、斧等ヲ携帯憲兵分隊ニ来襲シ破壊其他ノ暴ヲナシ憲兵ハ極力防衛ニ努メ遂ニ之ヲ解散セシムルニ至リタルカ之カ為憲兵分隊長ハ重傷後死亡シ暴氏側ニ六○余名ノ死傷者ヲ生シ
孟山
ニ於テモ成川下同様ノ暴行ヲナシ為ニ憲兵一名其兇手斃レ暴民ニモ五〇余名ノ死傷者ヲ出セリ
沙川ニ於テハ憲兵四名暴民ノ包囲ヲ受ケ極力鎮圧ニ努メタルモ弾薬尽キ全員兇手ニ斃レ駐在所ハ放火セヲルルエ至レリ」
「四月ニ入リテハ不穏ノ拳アリシハ僅ニ四件ニ過キスシテ概シテ平穏ナリ」
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⑩平安北道。
「前後数回ニ亙り騒擾シ混雑ヲ極メタルハ耶蘇教徒最モ多キ宜川ニシテ騒擾者ノ数多キトキハ六千名ニレリ
其他三〇余箇所ニ渉リテ騒擾シ暴民狂暴ヲ逞フセシ箇所少カラス」
四月中最モ多ク発生セシハ一日ニシテ其数一三件ニ上リタルモ其後ハ逐次減少シ十日以後ハ全ク終熄セリ而シテ官庁ノ襲撃、破壊、放火等ノ暴行一〇数箇所ニ及ヒ群衆ノ多キハ六、七千ヲ算スル所アリタリ」
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⑪江原道。
一〇日鉄原ニ於ケル騒擾ニ次テ七箇所ニ騒擾アリ就中二箇所ニ於テハ憲兵駐在所及面事務所ヲ襲ヒ破壊暴行シ面長及憲兵ヲ傷ケ面書記三名ヲ拉去スル等ノ事あり」
「四月中全半箇月ヲ通シ一日トシテ騒擾ノ発生ヲ見サルコトナク官公署ノ襲撃セラルルモノ九箇所ニ及ヒ其他民家ノ破壊、被検挙者ノ奪還ヲ企ツル等暴行ノ程度、事件数等敢テ猖獗ナリシ他道ニ譲ラサルモノアリタリ」
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⑫咸境南道。
四月八日成興郡徳源ニ於テ暴民ノ憲兵駐在所ヲ襲ヒタル外概シテ平穏ニ経過セリ」
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⑬咸鏡北道。
「四月中ニ於ケル本道ノ暴動地域ハ一府五郡ニ過キス穏城郭内ニ於テ一箇所暴行シタル外ハ大ナル騒擾ヲ惹起セス平穏ニ経過セリ」
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(次回に続く)
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2009年12月13日日曜日

逗子から名越切通しを経て鎌倉へ 岩殿寺 法性寺 上行寺

逗子から名越切通しを通って鎌倉へ抜ける道を「散歩」した。
いつもの様にシマさんにナビゲータをして貰って、ワタクシとヤマさんはキンギョのフン。
そして、いつもの様に最寄駅前の安居酒屋で焼酎ボトル900ml2本開けて・・・、という顚末。
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逗子市の岩殿寺(曹洞宗)
坂東三十三ヶ所の二番目
養老5年(721)創設という。
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利生堂
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観音堂
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法性寺
これから行く名越切通しの向こうに長勝寺安国論寺妙法寺という日蓮宗のお寺があるが、これらで布教活動をしていた日蓮が「法難」にあい、迫害されて逃れてきたのがこの法性寺であったという。
また、この時、白猿が日蓮を導いたということで、「猿畠山」の山号が付けられたそうだ。
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このお寺の奥が名越切通しに通じる。
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お猿畠の大切岸(おさるばたけのおおきりぎし).
この上に兵を置くための人工的に山を削った砦。泰時が築いたという。
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逗子の海方面の眺望
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逗子市街
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山上に洋館がある
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そして・・・、名越切通し。
「お散歩」の積りだったが、この道はご覧の通りの狭い山道とぬかるみ、おまけに落ち葉で滑り易くなっている。
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予め分かっていましたが、切通しは崖崩れの危険ありとのことで通行止め。
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「まんだら堂やぐら群」は非公開。
公開は年に一度のみとか。
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鎌倉側に抜けると、名越切通しはJR横須賀線のトンネルの上にあることが判る。
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鎌倉、大町の上行寺。
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「★鎌倉インデックス」  「★寺社巡りインデックス」をご参照下さい。
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