マスク氏、選挙支援に447億円 「共同大統領」と批判も | 2025/2/3 - 共同通信 https://t.co/g8JoR59xfY
— 黙翁 (@TsukadaSatoshi) February 3, 2025
「マスク氏はトランプ氏と外国首脳らとの会談に同席するなど、外交にも関与。.....独特の存在感を見せており、影響力の強さから「共同大統領」と呼んで批判する声もある。」
2025年2月3日月曜日
マスク氏、選挙支援に447億円 「共同大統領」と批判も | 2025/2/3 - 共同通信 ; 「マスク氏はトランプ氏と外国首脳らとの会談に同席するなど、外交にも関与。.....独特の存在感を見せており、影響力の強さから「共同大統領」と呼んで批判する声もある。」
2025年2月2日日曜日
斎藤真理子さん、ハン・ガン『別れを告げない』で第76回読売文学賞(研究・翻訳賞)を受賞
斎藤真理子さんが、ハン・ガン『別れを告げない』で第76回読売文学賞(研究・翻訳賞)を受賞されました!おめでとうございます!!
— 白水社 (@hakusuisha) February 1, 2025
本日の読売新聞23面に沼野充義さんの選評が掲載されています。 pic.twitter.com/KeO8He8P0H
ハン・ガンさんの『別れを告げない』(白水社)で読売文学賞(研究・翻訳賞)を受賞しました。ありがとうございます。
— 斎藤真理子 (@marikarikari) February 1, 2025
10年前に第1回日本翻訳大賞を一緒に受賞した阿部賢一さんと一緒で、同窓会みたいです。 https://t.co/I5O5SOgV8t
🎉読売文学賞受賞🎉
— 群像 (@gunzou_henshubu) February 1, 2025
ハン・ガン『別れを告げない』で研究・翻訳賞を受賞された斎藤真理子さんと、エッセイ集『文化の脱走兵』で随筆・紀行賞を受賞された奈倉有里さんによる特別対談を群像Webで公開しています✨ 言葉や文学をめぐる貴重な対話をぜひお読みください。https://t.co/MP5yRkbqc0
軍事費に国債をあてることは財政法が禁じています。戦時中に公債乱発が財政危機を招いたからです。 自公政権はこの禁じ手を破り、潜水艦、艦船の建造などに「建設国債」をあてています。その額は2025年度予算案を含めると2兆円を超えることが「しんぶん赤旗」の調べで分かりました。(三浦誠) / 1965年に戦後初めて国債を発行したとき、当時の社会党のみならず、大蔵官僚の一部も、財政法第4条と憲法9条は一体だと主張していたことを思い出す。野放図な防衛費の拡大と借金依存は、国を守るのではなく、国を亡ぼす。(山口二郎)
赤旗は良い仕事をしているなあ。1965年に戦後初めて国債を発行したとき、当時の社会党のみならず、大蔵官僚の一部も、財政法第4条と憲法9条は一体だと主張していたことを思い出す。野放図な防衛費の拡大と借金依存は、国を守るのではなく、国を亡ぼす。 https://t.co/UiWdUjPUyq
— 山口二郎 (@260yamaguchi) February 1, 2025
イーロン・マスクだけじゃない トランプの黒幕「リバタリアン」の正体 / 国家を超える“超個人” テクノ・リバタリアンの絶大なパワー(日経BOOKプラス)
第2次トランプ政権の“黒幕”とも見られるリバタリアン(自由至上主義者)とは? 『天才読書(日経ビジネス人文庫)』を刊行した著者が、イーロン・マスクをはじめとする、リバタリアンが愛読する本などから、その本質を読み解きます。 https://t.co/oSaT1XO27c
— 日経BOOKプラス (@nikkeipub) January 15, 2025
国家を超える“超個人” テクノ・リバタリアンの絶大なパワー https://t.co/s7knS05bGV #日経BOOKプラス
— 黙翁 (@TsukadaSatoshi) February 2, 2025
イーロン・マスクだけじゃない トランプの黒幕「リバタリアン」の正体
税金廃止と、大麻使用の自由を主張する米リバタリアン党
ランドはリバタリアンを「右派のヒッピー」だと非難した
国家を超える“超個人” テクノ・リバタリアンの絶大なパワー
リバタリアンの思想は異端ではない?
「金融の神様」も“女神”に心酔
リバタリアンと保守派は意外に相性がいい?
トランプの「MAGA」は、レーガンの丸パクリ
テクノ・リバタリアンは国家を超える力を持つ“超個人”
「ベゾス・ゲイツ」と「マスク・ティール」の違い
大杉栄とその時代年表(394) 1902(明治35)年3月22日~4月17日 「当地には桜といふものなく春になっても物足らぬ心地に候。かつ大抵は無風流なる事物と人間のみにて雅と申す趣も無之、文明がかくの如きものならば野蛮の方が却つて面白く候。鉄道の音、滊車の烟、馬車の響、脳病抔ある人は一日も倫敦には住みがたかるべきかと思はれ候。」(漱石の手紙)
1902(明治35)年
3月22日
社会主義協会、神田で労働問題政談大演説会。3月15日に、警視庁の命令で神田警察署長が4月3日開催予定の二六新報社主宰第二回日本労働者大懇親会を禁止したのに対する抗議。
3月22日
ロシアのオデッサに領事館開庁を告示。
3月24日
労働組合期成会、再び労働者大懇親会の開催を計画。
3月24日
(露暦3/11)露、クルプスカヤの刑期終る。後、ミュンヘンでレーニンに合流。
3月25日
商工会議所法が公布。7月1日施行。
3月26日
英の冒険家、ローデシア(現在のジンバブエ)の支配者、セシル・ローズ、南アフリカのケープ・タウン近郊の自宅で没。ローデシアという名も、彼の名にちなむもの。
3月27日
日本興業銀行(株)設立。資本金1,000万円、総裁は添田寿一。4月11日開業。
3月27日
愛国婦人会、『愛国夫人』創刊。
3月28日
警視庁、労働組合期成会の労働者大懇親会の開催の禁止を予告。
3月28日
三代目桂三木助、誕生。
3月28日
広島高等師範学校・神戸高等商業学校など、設立。
3月28日
臨時教員養成所官制公布。師範学校・中学校・高等女学校教員を養成。帝国大学・直轄諸学校内に設置。4月1日施行。
3月31日
ペルシア、露から1,000万ルーブルの借款を受ける。
4月
蔡元培・章炳麟・章太炎ら、革命宣伝機関の「中国教育会」結成(上海)。
4月
アリス・ベーコン、帰国。
4月
芥川龍之介、回覧雑誌「日の出界」始める。江東尋常小学校5年。
4月
子規(36)、自選句集『獺祭書屋俳句帖抄上巻』刊
4月
永井荷風(23)、木曜会員赤木巴由らが始めた美育社から「野心」を「新青年小説叢書」の一巻として出版。
4月
支那亡国二百四十二年記念会、横浜。日本に亡命中の章炳麟が留学生らに呼び掛ける。
4月1日
露清満州還付協約に関し、その速やかな締結を内田康哉駐清公使に訓令。
4月1日
露、ポルタヴァ、ハリコフ、長期の飢饉に苦しむ農民、大地主の倉庫襲う。
4月1日
ウガンダ東部、英の東アフリカ保護領(現ケニア)に編入。
4月1日
フランス、女性と子供の労働時間が11時間から10時間半に短縮。賃金もこれに応じて減額。
4月2日
3月28日に、警視庁が労働組合期成会の労働者大懇親会の開催の禁止を予告したため、労働者同盟会主催で抗議演説会を開催。
4月2日
W・B・イェイツ『キャスリーン・ニ・フーリハン』、ダブリン「アイルランド国民劇場」で初演。
4月2日
ロスアンゼルス、米初の映画館開館。
4月3日
片山潜「労働世界」(隔週)復刊。議会主義的社会主義主張。
4月5日
衆議院議員選挙法、改正。市部選出議員数が増加。定員369⇒381人。
4月5日
骨牌(カルタ)税法公布。カルタ、麻雀牌、トランプなどの賭博用カルタに課税する税法。7月1日施行。
4月6日
宮崎民蔵ら、土地復権同志会結成。また1906年、宮崎民蔵『土地均享人類の大権』刊行。
4月7日
米、石油企業テキサス会社(現在のテクサコ)創立。
4月8日
露清満州撤兵協約(満州還付条約・東三省撤兵条約)調印。12日、発表。ロシアは、18ヶ月以内の撤兵を約束。
10月8日に満州第1期撤兵。翌明治36年4月8日が第2期、10月8日が第3期。実際は第2期以降実行せず。
4月9日
英、地下鉄会社設立。
4月9日
ドイツからロンドンにやって来た姉崎正治(嘲風)が友人高山樗牛に宛てた手紙。
「嗚呼日本人には苦心の勇なきか、健闘の忍耐なきか、自ら造り出ださざる者は真実に身につかず、或る外国新聞が、日本人が日英同盟を狂喜せるを冷評して、彼等は貧乏書生が富有の寡婦の入り婿になりしか如き感を以て喜べるなりといひしを見たり。・・・・・」(再び樗牛に与ふる書』)
4月10日
英、癌の原因と治療に関する研究計画が王立内科研究所で開始。癌研究専門の研究設備の設立・維持費として、10万ポンドの基金公募。
4月11日
日本興業銀行(株)、開業。
4月11日
小林秀雄誕生。東京市神田区神田猿楽町三丁目三番地(現千代田区猿楽町二丁目八番五号)。父小林豊造は東京高等工業学校助教授、御木本真珠店貴金属工場長を経て、日本ダイヤモンド株式会社を設立、日本で初めてダイヤモンドの研磨技術を習得し、また蓄音機のルビー針を開発。
4月13日
日本、教科書国定化決定。
4月13日
仏、M・セルポレ、ニースで時速120キロの自動車のスピード新記録。
4月13日
ロンドンの漱石
「四月十三日(日)、鏡宛手紙に、十二月頃帰朝する予定だと伝える。木の芽もでてきたけれども、寒気甚しく、ストーヴをたくとも云う。
四月十三日(日)(不確かな推定)、中村是公(よしこと)と会う。「自分は中村と一所に方々遊んで歩いた。」(「變化」『永日小品』)中村是公、近頃は四千円位なくては嫁にはやれぬなどとも話す。中村是公から、留学生活の困難を同情され、心配りを受ける。」(荒正人、前掲書)
4月13日ごろ、出張でロンドンに来た是公は、英国留学でロンドンに滞在中の漱石と久し振りに偶然再会した。その時、昔通りの顔をした是公は、金をたくさん持っていて、二人で一緒に方々遊覧して歩いた。是公は西洋の美人の話をした。そして、近頃は四千円くらい財産がなくては娘を嫁にもやれない、と言った。筆子、恒子の二人の娘を持つ漱石は、四千円はおろか百円もおぼつかない。台湾総督府役人の潤沢な出張費に対して、文部省派遣留学生の逼迫した滞在学費の格差に暗然たる憂鬱を感じてしまう(4月17日付鏡子宛漱石書簡。『永日小品』「変化」)。
漱石は留学生活の貧窮を同情され、是公から某(なにがし)かの心配りを受けたらしい。
4月14日
ベルギー、普通選挙権を求める労働者ゼネスト(−20)。
4月15日
露、スピリャーギン内相暗殺、後任にプレーベ。反ユダヤ主義者。
4月15日
アイルランド独立闘争激化。英政府、非常事態宣言出す。
4月17日
ロンドンの漱石
「四月中旬(小宮豊隆)(日不詳)、渡辺伝右術門(春渓)(在ロンドン)に宛て、渡辺和太郎と一緒に立ち寄るように書き送る。「句あるべくも花なき國に客となり」と評き添える。
四月十七日(木)、鏡の手紙(三月十一日(火)付)届く。留守中の多忙と困難を訴えてくる。鏡宛手紙に、「今年になり此方の手紙一本もとゞかぬとは心得ぬ事に候今日迄に三四通出し候近頃日記をかゝぬ故いつ頃か記臆(ママ)せねど第一通は三月頃には到着すべき筈と存候是にはクリスマスの送物の禮と疎信の小言とをかきたり其次は倫君に関する事を多くかきたり其次ぎはほんの返事に一通かきたり其次が此手紙なり日本の留學生にて茨木〔清次郎〕、岡倉〔由三郎〕といふ二氏來る二十三日頃當地へ到着の筈なり」、「日本に帰りての第一の楽みは蕎麦を食ひ日本米を食ひ日本服をきて日のあたる椽側に寐ころんで庭でも見る是が願に候夫から野原へ出て蝶々やげんげんを見るのが楽に候」と書く。「近頃は遠くへ出掛ける癖がついた是から土井〔晩翠〕の處へでも行て見様と思ふ」と結ぶ。」(荒正人、前掲書)
4月17日 この日付け漱石の妻、鏡子宛ての手紙。
「・・・ただ面白からぬ中に時々面白き事のある世界と思ひをらるべし。面白き中に面白からぬ事のある浮世と思ふが故にくるしきなり。生涯に愉快なことは沙(すな)の中にまじる金の如く僅かしかなきなり。当地には桜といふものなく春になっても物足らぬ心地に候。かつ大抵は無風流なる事物と人間のみにて雅と申す趣も無之、文明がかくの如きものならば野蛮の方が却つて面白く候。鉄道の音、滊車の烟、馬車の響、脳病抔ある人は一日も倫敦には住みがたかるべきかと思はれ候。日本に帰りての第一の楽みは、蕎麦を食ひ、日本米を食ひ、日本服をきて日のあたる橡側に寐ころんで庭でも見る。是が願に候。夫から野原へ出て蝶々やげんげんを見るのが楽(たのしみ)に候」
「留守中色々多忙にて困難のよし、委細の様子相分り候。甚だ気の毒の事ながら今少し辛防可被成候。いづれ今年末には帰朝のつもり故、其後は何とか方法も立ち、少しは楽になるべくと存候。然しおれの事だから到底金持になって有福(いうふく)にはくらせないと覚悟はして居て貰はねばならぬ。とにかく熊本へは帰り度ないが、義理もある事故我儘な運動も出来ず、只成行にまかせるより仕方がないと思ひ居るなり。実は少し著書の目的をたて只今は日夜其方へむけ勉強致居候。日本へ帰へれば斯様にのんきに読書も思考も出来ん。それ丈は洋行の御蔭と思ふ。其他に別段洋行の利益もない。・・・・・」
つづく
2025年2月1日土曜日
自宅近くのウメがようやく開花を始めた 2025-01-31
1月31日(金、昨日)はれ
開花が遅かった今年のウメだが、自宅近くのウメがようやく開花し始めた。
▼駅近く、白旗神社の八重の枝垂れウメ
▼自宅から数分のところにあるウメ(1月30日)
2ペア4羽のメジロがお食事中だった。
トランプ氏の「磁力」、米首都圏の高級住宅に買い殺到 資金力のある政治任用者や新人議員、ビジネスリーダーが購入 ; 地元の不動産業者によると、過去の政権交代時と比べて、今回はワシントンの高級住宅の取引ペースが速いという — ウォール・ストリート・ジャーナル日本版 (有料記事)
トランプ氏の「磁力」、米首都圏の高級住宅に買い殺到
— ウォール・ストリート・ジャーナル日本版 (@WSJJapan) February 1, 2025
地元の不動産業者によると、過去の政権交代時と比べて、今回はワシントンの高級住宅の取引ペースが速いというhttps://t.co/RnvAAvYjEG
イーロン・マスク「ナチスの過去など忘れろ、誇りをもて」と独極右政党と国民を応援(ニューズウィーク日本版);<トランプの右腕「マスク副大統領」はどうやら2月23日のドイツ総選挙の日まで、極右AfDを支援して選挙に介入するつもりらしい、その狙いはナチ党復活なのか?> / マスク氏、ドイツ“極右政党”への支持表明(ABEMA TIMES); マスク氏は25日、移民排斥などを訴えるドイツの極右政党「ドイツのための選択肢」が開催した大規模集会にオンラインで参加し、改めて支持を表明しました。 / マスク氏、いかにしてドイツ極右政党支持に至ったか トランプ氏、バンス氏らとマールアラーゴで年末に会談するはるか前からドイツ指導層に対する批判的な見方は形成されていた(WSJ)
イーロン・マスク「ナチスの過去など忘れろ、誇りをもて」と独極右政党と国民を応援
— ニューズウィーク日本版 (@Newsweek_JAPAN) February 1, 2025
<トランプの右腕「マスク副大統領」はどうやら2月23日のドイツ総選挙の日まで、極右AfDを支援して選挙に介入するつもりらしい、その狙いはナチ党復活なのか?>https://t.co/FUNREUJF4P
マスク氏、ドイツ“極右政党”への支持表明(ABEMA TIMES) https://t.co/Br677iehTP
— 保坂展人 (@hosakanobuto) January 26, 2025
マスク氏は25日、移民排斥などを訴えるドイツの極右政党「ドイツのための選択肢」が開催した大規模集会にオンラインで参加し、改めて支持を表明しました。
【独自】マスク氏、いかにしてドイツ極右政党支持に至ったか
— ウォール・ストリート・ジャーナル日本版 (@WSJJapan) January 27, 2025
「ドイツを救えるのはAfDだけだ」。マスク氏はこう投稿し、極右のポピュリスト政党「ドイツのための選択肢(AfD)」への支持を表明した。AfDは不法移民の追放やEUからの離脱、ロシアへの一段の接近を訴えている。https://t.co/WtnAsvIBQl
大船フラワーセンター セツブンソウ ウメ(八重茶青、大盃、玉牡丹、八重寒紅、水心鏡) ハイビスカス ブーゲンビレア ブルーカトレア 椿(加茂川、昭和侘助) サザンカ(近江衣) アイスチューリップ 2025-01-31
1月31日(金)はれ
今日は、大船フラワーセンターにセツブンソウを観に行った。昨日の横浜市こども植物園のセツブンソウより小さく、数も少なかった。
但し、今にも顔を上げようとする丁度その瞬間のような開花直前のセツブンソウを観ることが出来た(写真2枚目)
横浜市こども植物園 セツブンソウ 菜の花 八重黄ズイセン ペーパーホワイト フクジュソウ カワヅザクラ(植物園近く) 2025-01-30
ウメは予想通りまだまだ少ない状況。
椿も同じく少ない。
玉縄桜はまだ全然ダメ。
アイスチューリップ、まだ光彩を放っている。
▼セツブンソウ
大杉栄とその時代年表(1) 1885(明治18)年 1月 大学予備門に在学している紅葉、漱石、子規、熊楠(18歳) 武相困民党解散 大杉栄が丸亀市に生れる 附【年表INDEX(更新中)】
大杉栄とその時代年表
大杉栄が生きた時代(1885(明治18)年1月17日~1923(大正12)年9月16日)を年表で辿る。
この年表では、ところどころで、同行・伴走する以下の人物が登場します。それらの人物の、大杉栄が生まれた1885(明治18)年時点での年齢は以下の通り。
永井荷風(6歳)、樋口一葉(12歳)、幸徳秋水(15歳)、「七人の旋毛曲り」(18歳)夏目漱石、宮武外骨、南方熊楠、幸田露伴、正岡子規、尾崎紅葉、斎藤緑雨
尚、この1885年の前年(明治17年)11月9日には、秩父困民党軍が馬流の戦いで海ノ口に敗走し、野辺山原において解体する、そんな時代でした。
(参考)
1885(明治18)年
1月
漱石(18)は我儘だけれど傑物だとの評判
「一月(推定) (月日不詳)、塩原昌之助に予め通知して昌之助・かつ、女中・婆やたちに外出してもらい、すき焼の材料をとり揃えて、用意だけして貰う。午後三時から、友人二、三人を連れて、すき焼を食べに行く。夜、昌之助とかつが婦ると、食べ散らかしたままになっていたのであきれる。金之助は、我儘だけれども傑物だという評判が立ち、昌之助・かつは喜ぶ。直克のほうでは、金之助を養子にやらなかったほうがよがったと残念に思い始める。(関荘一郎)」(荒正人『漱石研究年表』)
〈この時、漱石、大学予備門に在籍中〉
前年(明治17年)9月11日 漱石、子規、大学予備門(明治19年4月に第一高等中学校と改称)予科に入学。校長杉浦重剛、授業料1学期2円。同級に中村是公、橋本左五郎、芳賀矢一、山田美妙、菊地謙二郎、南方熊楠。
「首尾よく予備門に合格した。その入試のとき、彼は数学の問題だけは隣の人の答案を見て書いたと語っている(「一貫したる不勉強」)。隣の人とは成立学舎で一緒で、のちに札幌農学校(北海道大学の前身)教授となる橋本左五郎である。橋本は皮肉にもこの試験に落ち、再試験で合格はしたが、結局札幌農学校に行った。橋本とはのちに満州で出会い、旧交をあたためることとなる(『満韓ところどころ』)。金之助の「カンニング」を、橋本は自分が紙を机一杯に拡げでいたので、偶然見えたのだろうと回想している。」(岩波新書『夏目漱石』)
「橋本左五郎とは、明治十七年の頃、小石川の極楽水の傍で御寺の二階を借りて一所に自炊をしてゐた事がある。其時は間代を払つて、隔日に牛肉を食つて、一等米を焚いて、夫で月々二円で済んだ。尤も牛肉は大きな鍋へ汁を一杯拵(こしら)へて、其中に浮かして食つた。十銭の牛を七人で食ふのだから、斯うしなければ食ひ様がなかったのである。飯は釜から杓つて食った。高い二階へ大きな釜を揚げるのは難義であった。余は此処で橋本と一所に予備門へ這入る準備をした。橋本は余よりも英語や数学に於て先輩であった。入学試験のとき代数が六づかしくつて途方に暮れたから、そつと隣席の橋本から教へて貰って、其御蔭でやつと入学した。所が教へた方の橋本は見事に落第した。」(『満韓ところどころ』)
「予備門では柴野(のち養子になり中村)是公や、芳賀矢一(一緒の船でヨーロッパへ留学)らと親しくなった。特に是公は、太田達人とともに生涯の親友で、後に南満洲鉄道(満鉄)総裁として名士となった。太田は成立学舎以来の友人で、東大物理学科を卒業後、地方の中学校長を歴任したので、是公のように華やかな経歴は持たないが、温厚篤実で、金之助とは気が合ったらしい。」(岩波新書『夏目漱石』)
「七人男たちの内で、大学予備門に進学したのは、紅葉、漱石、子規、熊楠の四人である。
紅葉だけが一足早く明治十六年九月。他の三人は、翌十七年の九月のことである。
このあたりになると、徐々に、七人男たちの、人生の、歩み方や生き方の違いが見えはじめてくる。大学予備門への進学が、その一つの大きな別れ道となる。ただし大学予備門に進学した四人も、ふつうのエリートとしての道を歩もうとはしなかった。四人の中で、大学予備門(在学中に第一高等中学校と名称変更)、そして帝国大学という学習コースをまっとうできたのは夏目漱石一人だけだった。」(『七人の旋毛曲り』)
〈予備門時代の漱石、子規、熊楠、紅葉、美妙〉
「山田美妙斎とは同級だったが、格別心易うもしなかった。正岡とは其時分から友人になった。一緒に俳句もやった。正岡は僕よりももつと変人で、いつも気に入らぬ奴とは一語も話さない。孤峭な面白い男だった。どうした拍子か僕が正岡の気に入つたと見えて、打ち解けて交るやうになった。上級では川上眉山、石橋思案、尾崎紅葉などがゐた。紅葉はあまり学校の方は出来のよくない男で、交際も自分とはしなかつた。それから暫くすると紅葉の小説が名高くなり出した。僕は其頃は小説を書かうなんどとは夢にも思つてゐなかつたが、なあに己だつてあれ位のものはすぐ書けるよといふ調子だった。」(漱石「僕の昔」)
笠井清『南方熊楠』には、美妙に対する熊楠の追慕の一文が引用されていて、その中で熊楠は美妙のことを「美妙斎と称せし名にそむかず白皙紅顔の人なりき」と回想している。
「ある時何かの試験の時に余の隣に居た人は答案を英文で書いて居たのを見た。勿論英文なんかで書かなくても善いのをその人は自分の勝手ですらすらと書いて居るのだから余は驚いた。この様子では余の英語の力は他の同級生とどれだけ違ふか分らぬのでいよいよ心細くなった。この人はその後間もなく美妙斎として世に名のつて出た。」(子規『墨汁一滴』)
12月(第一学期)の成績表(『漱石全集』月報、第十号、岩波書店、一九三六年八月)によれば漱石は塩原金之助の名で第四級(奨学生徒)に出ている。その成績表の表題は「明治一七年一二月(第一学期)東京大学予備門前本学第一、二、三級、及び第四級生徒試業優劣表」となっている。それによると平均点七三点で一一七人中二二番から順に漱石、芳賀矢一(国文学者)、小城齊(ひとし)と続いている。数学においては、小城は級のほぼ最上位を占めているが、彼の六女川瀬増子の記憶では、学生時代、夏目君から英語を習い、自分は数学を教えた、という話を父からよく聞かされたのを覚えているという。
1月6日
「秘聞録」の続編「傑士烈女魯国虚無党列伝」(「自由新聞」)
1月8日
この日付け子規(18)の竹村鍛宛ての手紙に子規の最も古い俳句がある。
「雪ふりや棟の白猫声ばかり」
1月9日
立木兼善仲裁により横浜の名望家海老塚四郎兵衛に伴われ武相困民党須長漣造・若林高之助(26)・佐藤昇之輔(18)・金子邦重、県庁に出頭。翌10日、県令邸に招かれ、解党申付けられる(県令邸には原田東馬も同席)。
須長漣造:
嘉永5(1852)年生。明治5年谷野一村戸長(20)。12年谷野など4ヶ村戸長。17年6月新聨合村制度により、隣村留所村の青木鎮郷に戸長職が移り、戸長辞任(32)。12年田畑・山林・宅地20町歩の豪農(自営農型)。19年には八王子不在地主の小作人に転落。23年前自由党幹部・東海貯蓄銀行頭取成内頴一郎と前自由党員・武蔵野銀行副頭取鈴木芳良の小作人(困民党と自由党のアイロニーが象徴される)。12年頃から武蔵野銀行など十数の債主と金融取引。15年は5度に分けて594円の借入れ(営業・納税資金、村民の滞納税立替など)。17年村の6割が税滞納か高利貸・銀行の追及を受ける状況。
1月14日には、相模原大沼新田に農民終結後県庁へデモ。原町田村漆谷付近で警官と衝突。首謀者、凶徒嘯衆罪逮捕。武相困民党解散。
総監督中島小太郎、若林高之助、佐藤昇之輔、金子邦重、渋谷雅治郎、石井浅次郎らが拘引。須長漣造は2月に逮捕、18年7月横浜軽罪裁判所で無罪判決、出獄。須長は出獄後も村に残り、「年賦党ノ跡片付」のため債主との交渉継続。若林・佐藤は横浜で開業(佐藤は金貸・銀行を営む)。須長はやがて行商人となり九州~四国~北陸と歩き続ける。
権力側は若林らの動きを十分察知し(細野らの内報により)徐々に追詰め、一方で下部大衆を煽動し(その時点で、幹部は大衆から浮き上がる)、暴発一歩前で幹部逮捕、組織壊滅を図る?
2月17日、武相困民党、9・5事件判決。塩野倉之助・小池吉教、軽懲役6年など215名全員有罪。自由党広徳館の代言人小林幸二郎は公判で小池の弁護を担当。1審後は塩野のために「上告趣意書」を起草。自由党員細野喜代四郎ら仲裁人は負債党鎮撫に協力したとして神奈川県令沖守固より感謝状・記念品貰う。
1月9日
漢城条約調印(明治十七年京城暴徒事変ニ関スル日韓善後約定)。特派全権大使井上馨、金弘集全権と甲申事変善後処理。朝鮮政府は国書により日本に謝罪。死傷者に賠償金11万円支払・犯人処罰・日本公使館再建を約束。同日付けで竹添公使召喚。
井上は、近藤真鋤駐朝臨時代理公使宛て機密文書で、竹添公使の不当な行動、壬午軍乱後の政府の開化派支援策が事件の一因となったことを認め、交渉で事実究明を行ったならば「我行為の不是を表証するに均」しく、「我公使の体面を損し、主客其地位を顚倒」するおそれがあるので、朝鮮政府に対する「要求を寛減」するとともに「我公使(竹添)の凶党に関係を有せざる事実を表明」することにつとめた、と述べる。
1月10日
「東京横浜毎日新聞」、脱亜的条約改正論を批判。「清韓ニ対シテ得ルノ栄誉ハ亜細亜ノ一方ニ局スル者ニシテ世界ニ共認セラルゝノ栄誉ニ非ルナリ」と。しかし、大勢は脱亜的条約改正の方向に向っている。
1月17日
静岡県農民騒擾。1883年冬から騒動があいつぎ、この年2月駿東・君沢両部60ヶ村の借金党の農民1500人が伊豆銀行などに押しかける。3月4郡85ヶ村で借金党が成立するが、4月以後衰微。
1月17日
大杉栄、香川県丸亀市に生れる。大杉東(あずま)、豊(とよ)の長男。(戸籍は5月17日)
父は愛知県東海郡大字宇治の出身、旧家の三男で、志願兵となって兵卒から将校に進んだ篤実努力の人。栄の誕生の時は丸亀連隊の少尉。
つづく
【年表INDEX】
大杉栄とその時代年表(11) 1886(明治19)年9月 「郵便報知」の大改革 漱石、江東義塾の教師となり、寄宿舎に転居 吉井勇生まれる 一葉、田邊花圃と出会う
大杉栄とその時代年表(14) 1887(明治20)年3月~4月 中山晋平生まれる 啄木一家、渋民村に転住 宮武外骨(21)『頓智協会雑誌』発行 伊藤首相官邸で大仮装舞踏会開催 伊藤博文(47)と戸田伯爵夫人極子(31)のスキャンダル報道
大杉栄とその時代年表(18) 1887(明治20)年10月~11月16日 後藤象二郎、丁亥倶楽部結成、大同団結運動に乗り出す 植木枝盛、三大事件建白書起草 旧自由党派「三大事件建白派」、独自の動き開始
大杉栄とその時代年表(21) 1888(明治21)年3月~4月 各地に女学校創設の気運 三宅雪嶺ら雑誌『日本人』創刊 「市制」「町村制」公布 第2代内閣黒田清隆内閣成立
大杉栄とその時代年表(33) 1889(明治22)年8月 室生犀星・石井光次郎生まれる 漱石(22)、房総を旅行 二葉亭四迷(25)内閣官報局雇員となる
大杉栄とその時代年表(38) 1890(明治23)年1月 森鴎外『舞姫』 子規『銀世界』 日本最初の文士劇 富山で米騒動(4月からは他地域にも波及) 現存する一番古い子規の漱石宛書簡 再興自由党結成
大杉栄とその時代年表(41) 1890(明治23)年5月~6月 郡制・府県制公布 欧米各地で世界初のメーデー 愛国公党組織大会 雑誌『江戸むらさき』創刊 鴎外(28)陸軍二等軍医正 佐渡相川暴動
大杉栄とその時代年表(45) 1890(明治23)年10月~11月23日 鴎外(28)離婚 星亨帰国、立憲自由党入党 初代貴族院議長伊藤博文 帝国ホテル開業
大杉栄とその時代年表(52) 1891(明治24)年6月 子規、軽井沢・長野・松本・木曽に旅し、その足で松山に帰省 ゴーギャン、タヒチ到着 一葉、新聞掲載不都合を知らされ失望 岸田劉生生まれる
大杉栄とその時代年表(58) 1891(明治24)年11月 瀬戸内寂聴さんの『炎凍る 樋口一葉の恋』の中の「日記の謎」について(なぜ、一葉は明治24年11月24日の日記を途中で処分したのか?)
大杉栄とその時代年表(63) 1892(明治25)年3月 芥川龍之介・野坂参三生まれる 一葉「闇桜」(『武蔵野』第1編) 一葉「別れ霜」(『改進新聞』) 試験が近づいても勉強に身が入らない子規
大杉栄とその時代年表(64) 1892(明治25)年4月 漱石(25)、分家届提出、北海道に移籍 佐藤春夫生まれる 一葉(20)「たま襷」(『武蔵野』第2編) 一葉、療養中の桃水を見舞う
大杉栄とその時代年表(77) 1892(明治25)年11月18日~30日 子規、新聞『日本』正式入社 東学党の参礼集会 一葉「うもれ木」(『都の花』) 一葉、中央文壇に登場 千島艦事件
大杉栄とその時代年表(82) 1893(明治26)年4月1日~24日 あさ香社結成 徳富蘇峰の国家主義への傾斜 一葉(21)初めて伊勢屋に質入 政府機密費で通信社への助成開始 一葉、桃水を訪問
大杉栄とその時代年表(87) 1893(明治26)年7月12日~20日 漱石、日光旅行 一葉、下谷龍泉寺町に転居 「我が恋は行雲のうはの空に消ゆべし」(一葉日記)
大杉栄とその時代年表(88) 1893(明治26)年7月19日 漱石の友人小屋保治が大塚楠緒子と見合い 子規の東北旅行(1) 各地の有力な俳諧宗匠を訪ねて俳話を楽しむという目的は期待外れ
大杉栄とその時代年表(89) 1893(明治26)年7月19日 子規の東北旅行(2) 「松島の心に近き袷(あわせ)かな」 「秋風や旅の浮世のはてしらず」 「われは唯旅すゞしかれと祈るなり」
大杉栄とその時代年表(99) 1894(明治27)年2月26日~30日 一葉、田中みの子の家で中島歌子・田辺花圃を批判 一葉「花ごもり」其1~其4(『文学界』第14号)
大杉栄とその時代年表(105) 1894(明治27)年5月2日~16日 第1次甲午農民戦争始まる 黄土峴の戦いで農民軍勝利 第6議会開会(対外硬派が主導権掌握) 北村透谷(25)の自死